2006年9月1日

文字数 1,833文字

エリック・ホッファー、あるいはブログの思想
Saven Satow
Sep. 30, 2006

「常に勉強を続けるのは結構だが、学校通いはいけない。老人になってABCだなんてばかげている」。
ミシェル・ド・モンテーニュ『エセー』

2006年9月1日
 久しぶりに、エリック・ホッファーの『波止場日記』(みすず書房)を読む。これは、1958年6月から翌年の5月にかけて書いた日記が1963年に出版されたものである。この間は彼にとって転換期に当たる。彼は自己の危機に陥り、著作を出版していない。その後、自己から同時代の考察へと認識を発展させ、再び本を刊行していく。

 出版の翌年、ホッファーはカルフォルニア大学バークレー校の政治学研究教授となり、さらに1967年には彼の対談がCBCテレビで全米に流され、大きな反響を巻き起こす。

 ホッファーが60年代に流行したことは、アメリカがアイデンティティを模索していたからだろう。9・11以降、再度ブームになったのも同じ理由からである。

 けれども、9・11の後、アメリカは独立心よりも、忠誠心が重要になっており、それは必ずしもホッファー的ではない。

 ホッファーは「知識人」を厳しく糾弾する。額に汗して働くこともせず、自分たちが国を動かしているという自惚れを持った連中が気に食わないからだ。

 私のいう知識人とは、自分は教育のある少数派の一人であり、世の中の出来事の方向と形を与える神授の権利を持っていると思っている人たちである。知識人であるためには、よい教育を受けているとか特に知的であるとかの必要はない。教育のあるエリートの一員だという感情こそが問題なのである。
 知識人は傾聴してもらいたいのである。彼は教えたいのであり、重視されたいのである。知識人にとっては、自由であるよりも、重視されることのほうが大切なのであり、無視されるくらいなら、むしろは迫害を望むのである。民主的な社会においては、人は干渉をうけず、好きなことができるのであるが、そこでは典型的な知識人母不安を感じるのである。彼らはこれを道化師の放埒と呼んでいる。そして、知識人重視の政府によって迫害されている共産主義国の知識人を羨むのである。
(エリック・ホッファー『波止場日記』序)

 これは出版業界にも言える。知名度は絶対値として認められる。正、すなわち名声であれ、負、すなわち悪名であれ、さほどの違いはない。無視されるくらいであれば、編集者や作家は顰蹙を買うほうを選ぶのであって、売らんがために記事を掲載するわけではない。「知識人」の心性はこうしたものだろう。

 ホッファーは、『現代という時代の気質』(晶文社)で指摘している通り、「大衆の時代」だからこそ、知識人意識はかつてないほど強まっている。身分制が解体し、平等化されていけばいくほど、自らをピラミッド型の秩序の上位に置くことは難しくない。近代以前はピラミッド型の社会であるが、近代は正規分布曲線の社会であって、各国や各地域は正規分布曲線の平均と標準偏差に異なりが見られる。知識人はこの標準分布をピラミッド型へと変更しようとしている。他人との違いが小さいがため、過剰にエリート意識が生まれやすい。知識人は大衆の時代を認められない者たちである。

 知識人は自分が大衆を指導する特別の存在だと確信している。しかし、大衆は問題に直面したとき、その総体によって取り組むのであり、知識人の指図は余計なお世話にすぎない。ホッファーは、『波止場日記』の中で、8時間交代制をめぐる組合の集会の様子をこう書いている。「いく人かの発言者についていえば、彼らはただの沖中士にすぎないが、国連代表、あるいは、どんな困難な交渉の代表にしてもひけをとらない人たちである。普通のアメリカ人は組織のこまかな問題に反応を示し、こまかな点に鋭い独創性を発揮する」。

 ところで、50年代の波止場と聞くと、エリア・カザン監督の『波止場』を思い出す。しかし、ホッファーはマーロン・ブランドには見えない。

 ホッファーは自由を愛し、指図されることが大嫌いで、束縛されるのもするのも望まず、へそ曲がりというクリント・イーストウッドが演じるようなアウトローだ。イーストウッドと言えば、彼を見ると、エイブラハム・リンカーンを思い出す。是非一度その役をやってもらいたいものだ。

 夕食には、ハムとソーセージのジャンバラヤにツナとポテトのサラダを作る。正直、ケイジャン料理が一番得意だ。

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