第2.5話 あれから 由瑞
文字数 1,551文字
結局『煌香展』には行かなかった。
その夏も過ぎようとしていた。
由瑞は仕事を定時で上がると、ふらふらと夕暮れの街に出かける。
ネットで調べて、評判の良い店に行ってみる。
どこか旨くて、落ち着ける店を探していた。
独りで家にいると気が滅入った。
麻布にあるフレンチの店。
完全予約制。落ち着いた雰囲気で店内は静かである。
料理はお高いが隠れ家風に広がる中庭に向けてテラス席もある。
由瑞は気に入った。
そこで本を読みながら酒を飲んだり、食事をしたり、ぼんやりと英国風庭園を眺めたりしていた。
庭園は夜になるとライトアップされた。
月に何度か訪れる様になった。
9月のある週末。
いつもの窓際の席を予約した。
食後のコーヒーを飲みながらぼうっと庭園を眺めていると、「いらっしゃいませ」というウェイトレスの声とこつこつというヒールの音が聞こえた。ヒールは自分の席の横を通り過ぎる。それが止まった。
ふと顔を向けると、そこには長身のあの、今井女史がいた。
由瑞は驚いた。
今井女史も驚いた。
二人はお互いの顔を見詰めた。
今井女史は軽く会釈をした。
由瑞も会釈を返した。そして庭園に視線を戻した。
ヒール音が去って行く。
あちらこちらのテーブルでは楽し気な会話が聞こえる。
由瑞がそろそろ帰ろうと鞄を取った時、またヒールの音が聞こえた。
由瑞は顔を上げた。
女は由瑞の横で止ると、彼の前の席を指差し、「ちょっと宜しいかしら」と、そう言った。
由瑞は今井の顔をまじまじと眺めた。
そして「どうぞ」と答えた。
「お帰りになるの?」
今井は優雅に腰を下ろすとそう言った。
「失礼ですけれど・・・同じ部署の今井さんですよね?」
由瑞はそう聞いた。
今井はクスリと笑って頷いた。
「佐伯さん。宜しかったら、もう一杯コーヒーを召し上がりませんか?それともお酒でも。
少しご一緒させて戴けませんか?」
由瑞は取り上げた鞄を戻した。
今井女史の声を初めてまともに聞いたと思った。
低めのハスキーボイスで柔らかい感じがする。
職場での彼女はいつもぼそぼそと、必要最低限の言葉で情報を伝える。
「お独りですか?」
由瑞は尋ねた。
今井は頷いた。
「いいですよ」
由瑞はそう答えた。
今井は慣れた仕草で黒服のウエイターを呼ぶと
「私のテーブルの食事とグラスをこちらに運んで頂けますか?・・それと佐伯さんは・・」と言って由瑞の顔を見る。
「じゃあ、何かカクテルでも頼もうかな。飲み物のメニューを」
由瑞はそう言った。
ウエイターは「畏まりました」と言って頭を下げた。
由瑞はウオッカトニックのグラスを持つ。彼女はワイングラスをちょっと掲げるとそれに赤い唇を付けた。
由瑞がレモンを絞ると爽やかな香りが広がった。
由瑞は酒を一口含むと言った。
「失礼だが、まるで別人ですね。どこかのモデルか、それとも女優かと思いましたよ」
今井はふふと笑うとプレートの上の肉を切り分ける。
「まだ、口を付けていないので・・お一つ如何ですか?」
彼女は言った。
「いや、結構です」
由瑞は返した。
今井はその一つを口に運ぶ。
「すごく美味しい。ここのお料理は何を食べても美味しいですね」
そう言って微笑んだ。
由瑞は今井を眺めたままグラスに口を付ける。
「佐伯さんこそお独りでどうしたのですか?週末なのに・・・。熱愛の恋人がいらっしゃるのでしょう?西田さんがそう言っていましたよ」
今井は笑みを含んで由瑞を見た。
「理由は内緒です。今井さんこそどうしてお独りで?」
「ああ・・私はここが好きなので。もう随分前から通っています。・・・今日は折角予約を取ったのに、お友達にドタキャンされてしまったの。でも、一人で来ることもありますよ。私の家はこの近くにあるのです。」
「麻布にマンション?お金持ちだな」
由瑞は言った。
「離婚した夫から慰謝料代わりにぶん取りましたの」
彼女は微笑んでそう言った。
その夏も過ぎようとしていた。
由瑞は仕事を定時で上がると、ふらふらと夕暮れの街に出かける。
ネットで調べて、評判の良い店に行ってみる。
どこか旨くて、落ち着ける店を探していた。
独りで家にいると気が滅入った。
麻布にあるフレンチの店。
完全予約制。落ち着いた雰囲気で店内は静かである。
料理はお高いが隠れ家風に広がる中庭に向けてテラス席もある。
由瑞は気に入った。
そこで本を読みながら酒を飲んだり、食事をしたり、ぼんやりと英国風庭園を眺めたりしていた。
庭園は夜になるとライトアップされた。
月に何度か訪れる様になった。
9月のある週末。
いつもの窓際の席を予約した。
食後のコーヒーを飲みながらぼうっと庭園を眺めていると、「いらっしゃいませ」というウェイトレスの声とこつこつというヒールの音が聞こえた。ヒールは自分の席の横を通り過ぎる。それが止まった。
ふと顔を向けると、そこには長身のあの、今井女史がいた。
由瑞は驚いた。
今井女史も驚いた。
二人はお互いの顔を見詰めた。
今井女史は軽く会釈をした。
由瑞も会釈を返した。そして庭園に視線を戻した。
ヒール音が去って行く。
あちらこちらのテーブルでは楽し気な会話が聞こえる。
由瑞がそろそろ帰ろうと鞄を取った時、またヒールの音が聞こえた。
由瑞は顔を上げた。
女は由瑞の横で止ると、彼の前の席を指差し、「ちょっと宜しいかしら」と、そう言った。
由瑞は今井の顔をまじまじと眺めた。
そして「どうぞ」と答えた。
「お帰りになるの?」
今井は優雅に腰を下ろすとそう言った。
「失礼ですけれど・・・同じ部署の今井さんですよね?」
由瑞はそう聞いた。
今井はクスリと笑って頷いた。
「佐伯さん。宜しかったら、もう一杯コーヒーを召し上がりませんか?それともお酒でも。
少しご一緒させて戴けませんか?」
由瑞は取り上げた鞄を戻した。
今井女史の声を初めてまともに聞いたと思った。
低めのハスキーボイスで柔らかい感じがする。
職場での彼女はいつもぼそぼそと、必要最低限の言葉で情報を伝える。
「お独りですか?」
由瑞は尋ねた。
今井は頷いた。
「いいですよ」
由瑞はそう答えた。
今井は慣れた仕草で黒服のウエイターを呼ぶと
「私のテーブルの食事とグラスをこちらに運んで頂けますか?・・それと佐伯さんは・・」と言って由瑞の顔を見る。
「じゃあ、何かカクテルでも頼もうかな。飲み物のメニューを」
由瑞はそう言った。
ウエイターは「畏まりました」と言って頭を下げた。
由瑞はウオッカトニックのグラスを持つ。彼女はワイングラスをちょっと掲げるとそれに赤い唇を付けた。
由瑞がレモンを絞ると爽やかな香りが広がった。
由瑞は酒を一口含むと言った。
「失礼だが、まるで別人ですね。どこかのモデルか、それとも女優かと思いましたよ」
今井はふふと笑うとプレートの上の肉を切り分ける。
「まだ、口を付けていないので・・お一つ如何ですか?」
彼女は言った。
「いや、結構です」
由瑞は返した。
今井はその一つを口に運ぶ。
「すごく美味しい。ここのお料理は何を食べても美味しいですね」
そう言って微笑んだ。
由瑞は今井を眺めたままグラスに口を付ける。
「佐伯さんこそお独りでどうしたのですか?週末なのに・・・。熱愛の恋人がいらっしゃるのでしょう?西田さんがそう言っていましたよ」
今井は笑みを含んで由瑞を見た。
「理由は内緒です。今井さんこそどうしてお独りで?」
「ああ・・私はここが好きなので。もう随分前から通っています。・・・今日は折角予約を取ったのに、お友達にドタキャンされてしまったの。でも、一人で来ることもありますよ。私の家はこの近くにあるのです。」
「麻布にマンション?お金持ちだな」
由瑞は言った。
「離婚した夫から慰謝料代わりにぶん取りましたの」
彼女は微笑んでそう言った。