第2話:柳生敦夫に脳の病気を発見

文字数 1,659文字

 1時間後、敦夫の病室に行くと、敦夫が、バイクを走らせていた時に、急に激しい頭痛で気を失い、倒れたと良い、いまだに頭痛が続いていると話した。とにかく入院して、精密検査をすることになった。5日後、病院からの電話で、敦夫の病身が、脳神経外科の外来で、病気の説明を受けた。

 担当の先生が最初、脳梗塞か脳内出血、くも膜下出血を疑ったが、そうではなく、原因がわからないと言った。多分、何かの原因で、脳内の血管が狭くなっているか詰まっているのかも知れないと言い、当分入院する様に告げられた。数日後、痛みが治まり1972年秋に退院となった。そして、通常の血行を良くする薬と頭痛の時、飲む薬をもらった。

 その後、特に激しい頭痛はなく1973年、東京農工大学の卒業を迎えた。卒業後、大手、中小企業を受験したが難病が災いして採用されなかった。失意のうちに普通免許だけ取得。しかたなく、柳生敦夫は、大学卒業後、自分の家の近所で、菓子、食品、酒、煙草、雑貨、書籍を売っている商店の経理と在庫管理、その他、昼間だけ、店番の仕事をさせてもらった。

 しかし、地元のお客さんたちを情報を詳細に調べた。そして的確な、ニーズをつかみ、金物、電化製品全般の販売と修理設置、自転車、バイクの販売と修理、雑誌、便せん、封筒、文房具類まで取り扱うようになった。すると、売上が、以前から倍増して、拝島商店の店主に喜ばれた。

 就職後2年目の1974年1月、柳生敦夫が24歳の時、昔、父が引き取って一緒に住んだ。その後、同居してる斉藤梅子と結婚。翌年25歳の時、再び強烈な頭痛で倒れた。入院後、脳血管狭窄症と診断された。その後、脳内を詳しく調べるために2週間入院して、脳の血流障害と診断された。

 そして血栓溶解のためにヘパリン注射をうち、顔が赤くなった。それを2週間続けて、頭痛が消えた。結局、8週間の入院後、退院となった。しかし、治療費は100万円を越えた。しかし、父の柳生敏夫は、自分の資産を惜しげもなく息子の治療のために使った。更に息子の柳生敦夫の難病治療のための長期入院で治療費がかかり預金が500万円まで減った。

 柳生敦夫は、退院後、父の家の離れに住んだ。以前の敦夫のおっとりした性格が、神経質に性格に変わり、まるで別人のようになり、1974年3月10日に退院して自宅に帰ってきた。退院後、近くの商店の手伝いながら、学生時代勉強した事を復習した。

 特に、自分の勉強してきた電子工学のコンピューターについての情報を興味を持ち大学時代の友人と情報交換をした。仲間内で、近いうち、1人が1台のコンピューターを使う時代が来るというアメリカ発の情報に興味を持ちだした。

 その中でも、アメリカのゼロックス社で、小型コンピューターを製作したと言う情報を既に、掴んでいた。日本で小型コンピューターを作るとしたら、東芝、日立、三菱電機、富士通、日本電気の会社名が上がっていた。友人達が、資本力のある日立、三菱電機、東芝が、最初にミニ・コンピューターを発売すると言った。

 しかし、ミニコンピュターは、単に大型コンピューターを小さくしただけで、新しさに欠けると発言。それより、その先、1人が1台を持って使う、個人用コンピューターの時代が10年後、到来すると夢のような話をしていた。それより、この先、1人が1台を持って使う、個人用コンピューターの時代が10年後、到来すると夢のような話をした。

 そして、その話を父の柳生敏夫に伝えて、投資で設けたいので100万円貸してくれと、お願いした。その後、日本電気にかけてみなかと言うと、面白いかも知れないと言い、賛同してくれた。1974年6月、父の利用してるN証券で、敦夫も証券口座を開設。

 株の担当者に話すと、面白いかも知れないと言い、安くなったら電話を入れますと話した。その後、11月6日、早朝、日本電気を1150円で、8000株ずつ、920万円で買った。父の資産残金が300万円強になった。その後、奥さんの梅子さんが妊娠したとわかった。
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