第3話:双子誕生と預金が増えマイコン商売

文字数 1,849文字

 出産予定日が1975年4月12日と告げられた。妊娠後の診察で双子と判明。やがて1975年4月10日、産婦人科病院に入院し4月12日、長男の柳生利一と長女、柳生愛子を出産。柳生家では、敦夫の入院とか、暗いニュースばかりで久しぶりの明るいニュースに柳生家だけでなく、近所の一族の分家や親戚筋でも大喜びしてくれ多くの誕生祝いをもらった。

 しかし、柳生家では、敦夫の母の律子さんが、一生懸命、梅子さんの身の回りの世話と双子の面倒を見て、目が回る程の忙しさ。7月、梅子さんは、近くのスーパーへ仕事に出かけ始めた。そのため父の柳生敏夫と奥さんが双子ちゃんの面倒を見て忙しかった。敦夫も18時に、家に帰り双子ちゃんを風呂に入れたり夕食の支度をしたりして手分けして家事を手伝った。

 やがて1975年が終わり1976年を迎えた。そんな時、敦夫の務めていた商店で、店主の人が、金が出来たので町中に店舗を借りて商売をしたいので、敦夫に、この店を任せたいと言い出した。条件は店の賃料、月10万円を払えば良いと言う条件。もちろん仕入れ、在庫管理、販売、全部、敦夫の金でやる事と言う条件。

 そこ話を父の敏夫に相談すると両親が手伝うと言うので引き受けた。そして、母と奥さんに、天ぷら、揚げ物を作って半日してもらい。敦夫は、この頃、流行し始めた電化製品の販売に注力したいと考えた。携帯ラジオ、ラジオカセット、ステレオ、白黒テレビ、カラーテレビの設置、アンテナ設置をサービスした。

 それにより電球の取り替え電化製品の相談などを一手に引き受けて繁盛していった。特にカラーテレビを買ってもらった、お客さんにはアンテナを無料設置が好評だった。そして1980年までの4年間で1000万円の預金が出来た。儲かった分だけ忙しかったが特に利益率が高かったのが、地元でとれる山菜、川魚の料理品だった。

 山の自然薯、キノコ、タケノコの天ぷら、山菜のおひたし、山菜おこわ、赤飯、ヤマメ、アユの塩焼き。その他、菓子パン類の儲けが大きかった。その後、敦夫が思った通り日本電気からNEC8001という、日本発のパーソナルコンピューターが1979年5月9日に発売された。

 それを聞き、直ぐ、日本電気PC8001の特約店になり簡易言語ベーシック講座を開いて、マニアを集めた。1台、168000円と高く、ほとんどの人が月賦払いボーナス併用払い。そこで、敦夫が10台まとめて現金割引で買い月賦の利子を全部もらう格好で、儲かった。その後、敦夫が、夕方からパソコン教室を開催しBASICでゲームを作る方法を教えた。

その当時、記憶装置は、カセットテープであったが、書き込みと読み出しをしていて頻繁に読み込みエラーを起こしたのを思い出す。カセットテープレコーダーが、温まってから始めるとエラーが起こらないとか、誠に勝手、理屈をこねたりしていた。しかし、諦めて正常に動くまで待ったいたのを懐かしく思い出す。

 CPU「中央演算ユニット」は、 μPD780C-1「Z80-A互換」4MHだった。また、PC8001の月賦を払えなくなって手放す人や他の理由で、金が必要になりPC8001を手放す人がいて、それを再販するのも儲けが大きい。コンピューター言語は、最初、ベーシックは、エヌ・-ベーシック「マイクロソフト24Kベーシック」バージョン1.0として発売。

 1981年4月に文字欠け等を修正したエヌ・-ベーシック・バージョン1.1に乗せ換えて発売された。その後、1983年3月に後継機としてPC8001マークⅡが123000円で発売された。その情報をPC8001を買った人達に教えた。1981年には、日本のパソコン第2号として日本電気のライバル富士通からFM8「マイクロエイト」が新発売された。

 それには、特長6つあった。1.モトローラ8ビットCPU 6809を2個搭載「メイン用とサブ用」。2.世界で初めて大型機並みの64キロビットDRAMをマイコンに採用「64キロバイトの主記憶」3.漢字キャラクタROM「JIS第1水準漢字2965種,オプション」による日本語表示。

 4.高解像度「640*200ドット,1ドット当たり8色指定可能」のカラーグラフィクス、5.FーBASICに加えて,UCSDーPASCAL,FLEX,CP/M「Z80カードオプション要」などのOSを提供、6.外部記憶としてバブルメモリ「発表時 容量32キロバイトのバブルカセット。以上の6つの特徴を持っていた。
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