第1話:柳生敦夫が、バイクで転倒

文字数 1,543文字

 柳生敦夫は八王子郊外に住み、昔、先祖が、秩父銘仙の仲買商人をしていて、富を蓄え、蔵のある大きな屋敷に住んでいた。そして、羽振りが良く、子供をたくさんいて、分家も、商売の手伝いをして、本家の柳生屋を盛り立てていた。そう言う訳で、この地域には柳生という姓が多く、柳生一族と呼ばれていた。

巷では食糧不足で、栄養失調や結核、ジフテリアにかかり命を落とす子供が多い時代だった。柳生屋の分家、親類筋が多く、柳生姓を持つ人たちは1950年以前は、隆盛を極めていた。しかし、着物が、徐々に洋服に替わりはじめた時代。日本独特の着物、織物が、すたれていき、柳生屋も次々と店を閉めていった。

 そこで農業に従事して、さつまいも、米、じゃがいや多くの野菜と栽培した。また、自然豊かな土地で、じねんじょ、山菜、きのこ、タケノコ、川魚がとれて、自給自足の生活を長い間していた。更に、柳生一族の結束が強く、親戚の間で食べ物を融通し合い、戦後の食糧難の時代でも、それ程、食べ物に困る事はなかった。

 しかし、その他の住人、特に貧しい地元の一族以外の小作人の家では食糧事情が逼迫していた。その後、月日が経ち、昭和25年、1950年12日12日に柳生敦夫が、柳生敏夫と、律子の子供として、生まれた。柳生敦夫は身体をさほど大きくないが、力持ちで、正義漢の強い男のに育ち、友人にも優しく働き者だった。

 決してハンサムではないが、愛想が良くて同年代の仲間、特に女の子に人気があった。柳生敦夫は、幼なじみの斉藤梅子と毎日のように野草、キノコ、山菜、山芋掘りに出かけた。斉藤梅子は、気立ての良く、美人だった。小学校に上がった頃には、まるで許嫁のように、仲間達から思われ、斉藤梅子にちょっかいを出す男子はいなかった。

 中学に入り柳生敦夫は柔道部に入部し練習の毎日で梅子とデートする暇がなくなった。しかし、梅子は、敦夫の試合は欠かさず見に行き、応援した。敦夫は数学が得意で、梅子は読書と、洋楽を聴くのが好きで、英語に興味を持って米軍の短波放送を聞いて勉強していた。敏夫の両親も梅子を可愛がり夕飯をご馳走したりして仲良くした。

 しかし、梅子の中学2年、1968年、梅子の母の斉藤幸子が体調を崩し病院に行くと肝臓癌とわかり入院し2週間後、死亡。梅子の父の斉藤信二は、酒飲みの貧しい百姓で、葬式を出せない程だった。そのため見るに見かねて敦夫の父、柳生敏夫が替わって葬式の費用を出し葬式を仕切った。

 その後、酒に溺れて近くの酒屋に借金を抱えて梅子、中学3年1969年春、夜逃げして、都会へ出て行った。その後、消息不明となり、落ち込んでいた。敦夫の父の敏夫が、梅子をかわいそうに思い、自宅に引き取り育てることにした。中学卒業して、梅子は自転車で20分の公立の商業高校へ敦夫は都立八王子高校に合格。

 その後、梅子は1968年に商業高校を卒業し、近くの町のスーパーマーケットで働き出した。敦夫は、得意の数学、理科を生かして、1969年、東京農工大学へ合格し、できたばかりの東京農工大学工学部電子工学科に入った。敦夫は、学校まで遠いので自転車を買ってもらい登校した。雨の日はカッパを着て30分かけ、府中の東京農工大・府中キャンパスに通った。

 この頃は、大学紛争が激しい時代だったが、敦夫は、関心がなかった。東京農工大学に入り、2年目、1971年の春、敦夫が登校中に交通事故で病院に運ばれたと電話が入り、敦夫の両親が立川共済病院へ行った。

 警察官が目撃者に話を聞くと、バイクを走らせていた時に、急に歩道側に倒れたと語った。少しして救急室の先生が来て柳生敦夫が、頭の病気があるのかも知れないと言い、詳細は不明で、入院して精密検査をしましょうと言う話になった。
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