第10話:タイのクーデターとグアムへ避寒旅行

文字数 1,704文字

 翌日、7時起きてホテルの回りを散歩し朝食をとって9時にホテルを出発。今日は、下田から山道を走り少し休んで河津七滝を見物。そこ後、浄蓮の滝で一休し湯ヶ島、修善寺を抜けた。その後、三島で昼食をとった。その後、御殿場から東名高速で橫浜インターチェンジで降り16号線をひた走り18時頃、八王子の実家に帰った。やがて、2006年を迎えた。

 2006年2月にトリノ冬のオリンピックが開かれた。5月20日にイラクでフセイン政権崩壊後、約3年ぶりに正式政府が発足した。2006年12月30日、サッダーム・フセインは、アメリカ軍拘置施設「キャンプ・ジャスティス」から移され、バグダードのアーザミーヤ地区にある刑務所にて、絞首刑による死刑が執行された。アメリカは処刑を翌年まで遅らせるようイラクに要請した。

 しかし、ヌーリー・マーリキー政権は国内の「サッダー支持者」が本人の奪還を目的にテロを起こしかねないとの懸念から受け入れず、関係者共々刑を執行した。サッダームの死刑にシーア派勢力・市民は歓喜し、一方スンナ派勢力・市民は現政権を非難した。その年の12月30日69歳で不正は死亡した。

 インドネシアはジャワ島のジョグジャカルタ周辺を震央とするマグニチュード6.3の地震発生し5782人が死亡。2006年9月19日、タイ王国軍の反タクシン派将校が兵士を率いて、タクシン政権を倒した軍事クーデター事件が起きた。午後、10数台の戦車がバンコク中心部一帯と政治・行政の中枢部を包囲し約50名の兵士が政府庁舎内に入り占拠。

 クーデター発生時、国連本部において開催される国連総会に出席するため、ニューヨークを訪問中であったタクシン・チナワット首相は、この一報を聞くと即座に陸軍総司令官のソンティ・ブーンヤラッガリンを解任した。そして、ルアンロー国軍最高司令官に対しクーデターへの対処を指示した。しかし、これを抑えきれることはできなかった。

 ルアンロー国軍最高司令官もクーデターに加わり、警察もこれに参加した事により無血クーデターが成功。クーデターを指揮していると見られるソンティ司令官は、国軍を統帥している国王ラーマ9世に忠誠を誓い、20日未明、憲法を停止して戒厳令を全国に布告した上で軍事政権が全権を掌握したと発表。タクシン首相は、クーデターにより帰国できなくなった。

 そのため外遊先のニューヨークから私邸のあるロンドンに入り、これ以降、事実上の亡命生活に入った。クーデターの結果、粛軍の名目でタクシン派は一掃されクーデター以後は軍部の政治的発言権が増大し文民統制が及ばなくなった。アメリカ政府は、クーデター発覚後声明を出し、平和的に問題が解決され、直ちに文民による民主的な政府への復帰を目指すよう声明を出した。

  やがて、2006年が終わり2007年を迎えた。冬の寒さかきついと柳生敦夫の両親が言うので2007年2月1日から3月末までグアムに避寒旅行に出かけた。家を朝6時に出て成田空港へ8時について9時半発、グアム行きの飛行機への登場手続きを取り、近くのカフェで朝食をとり、飛び立ち、グアムに14時半に到着。グアムは、蒸し暑い位の気温であった。

 迎えのバスに乗って、広大なホテルの周辺を散歩すると、プロ野球の選手やサッカーの有名選手が合宿に来ていた。30分近く散歩すると汗びっしょりになって、早めに風呂に入って、レストランへ行き夕食をとった。ここは、日本の大手建設会社の長期滞在型ホテルで、コンドミニアム形式で月単位で割引料金で広い部屋を貸してくれるシステムになっていた。

 そして1時間に2本、グアムの繁華街へ行くバスが運転されていた。その晩は、早めに床についた。翌日、朝食と10時半発のグアム中心街行きのバスに乗り込んだ。そして、マイクロネシアモールで降りて、そこは、大きなショッピングモールで、アメリカのデパート大手メーシーズも入っていた。

 素敵な洋服もあったが、サイズがアメリカ人が多く、奥さんのサイズ、アメリカ人のSサイズ。ご承知のように、アメリカ人は、ふっくら美人が多く、小さい人が少ない様でSサイズがほとんどなかった。
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