第一節 複雑な肉体

文字数 9,537文字

 「お前らが先に戦いを仕掛けたじゃないか!なのにどうしてお前らはいつも被害者ぶるんだ‼︎」
喉で血が絡んだ子供の叫び声が聞こえる。
「お前たち人間が自然を壊したせいで俺たち物の怪の住処がなくなったんだ!それを取り返すためにお前たちに戦いを仕掛けたにすぎない!」
地下の洞窟に続く階段の入り口からいつもそれは響く。
「その戦いのせいで多くの人が死んだんだぞ」
「お前たちが俺たちの居場所をなくすから戦わざるをえなかった。この戦いで俺たちの多くの同胞がいなくなった」
決して会話が噛み合うことはない。暗い洞窟の奥から鈍い音が聞こえる。吐瀉物が地面に落ちる湿った音が鼻腔を気持ち悪くさせる。
「やめろ。お前たち。相手は捕虜なんだぞ。しかも子供だ。殴るはなしだといつも言ってるだろ!」
「お前はこいつの味方をするのかよ。人間だぞ!」
「そうだ。俺たちの仲間を殺したんだ。ガキなんて関係ない。嬲り殺しにすべきだ」
私の足音が響く。すると不快な音がなりを潜める。私は鉄格子の中にいる彼らを見る。拳を作った物の怪がうつ伏せた人間の前で仁王立ちしている。もう片方は触手のようなものを人間の首に巻きつけている。みなが間が悪そうに私を一瞥する中でこの人間だけは憎しみに満ちた瞳で彼らを凄む。いつ殺されておかしくない状況なのにこの人間は本当に彼らを食い殺す機会を伺っている。拳をつくる奴が人間の腹部を蹴り飛ばし壁に強打させる。彼らはそれを最後に今回は牢屋から出て行った。人間の骨が冷水のように冷えた石に落ち強打する重い音が鳴る。一つ目の二頭身の番兵が近寄ろうとすると人間はいいと口から血溜まりを吐き出し言った。
「はぁー。今度からここで飯を食うよ」
「お前には関係ない」
困り果てた大きな瞳が頭についている短い耳を丸めて閉じている私を映す。
「あんたももう来なくていい。俺たちは敵だ」
「私は医者だ。お前たちのいざこざに興味はない」
私が一つ目を見遣る。彼はすぐに牢屋から出ていく。仰向けに倒れた彼に近づき脇下に両手を伸ばす。そうするといつも中身のない剣幕で私を牽制する。私は彼を抱き抱えベッドに運ぶ。錆びた鉄のような血の臭いが鼻に張り付く。鞭で傷つけられたかのような肉が抉られた鋭く細長い傷が私の和服を赤く染める。彼は傷口が僅かに擦れるだけで喉の奥で痛みを堪える掠れた息を漏らす。
「軍医のくせに何を言っている」
仰向けでベッドに寝かせ彼から離れる。私を憎たらしく思っているのか体の痛みのせいなのか。彼の眉間は皺を寄せている。一つ目が私の近くに椅子を持ってきた。私はそれに座り彼の服を捲る。以前はかなり抵抗され治療できなかったが今日はそんな気力はないらしい。痣や血を流している傷口が体の至る所にある。そのほとんどは同じところを何度も何度も殴られているため黒い痣となっている。
「この前の痛み止めは効いたか。人のために漢方を調合したのは久々だからな。副作用があるかも気になる」
私は肉が欠けた鋭い傷口に塗り薬を塗る。彼は口を固く閉ざし喉ですり潰した痛烈な息を鼻から漏らす。弱さを見せない警戒した姿には人嫌いの私であっても同情を禁じ得ない。物の怪でも彼ほどの傷を受け同じように気丈に振る舞えるものはおそらくいないだろう。それを少年がやってのけている。一体どれほどの痛みが短い生涯にあったのか。
「–––俺はあんたら–––––が欲しい重要な情報を––持っていない。仲間になるつ––もりもない。治すことに利益はない」
「お前にとっての分別は敵か味方かだけなのかしれないが私にとっては生きているものたちにさして違いはない」私は無断で彼の口に竹筒に入った水を流し込む。息苦しくなった彼は咳き込み自身の血が混ざる赤い水を吐き出す。「私はどの陣営に属さない立場のないものだ」
「………………」先ほど吐き出した息を吸い込んでいるため彼の息は荒い。強引に治療を押し進めていく私を彼は睨んでいる。「ならあんたはどうしてここにいる」
「近くに雷神軍が駐屯しただけだ。それでここの大将に捕虜の治療を任された。それだけだ」背中に掛けた風呂敷を前に回して薬包紙を取り出す。「飲むか飲まされるかどっちがいい」
彼は私と薬包紙を汚れた白眼を動かしてみる。ようやく息が整ってきた頃だ。痛ましい傷が残る腹部から激痛がはしったのだろう。彼の息がまた苦しそうに聞こえる。
「飲むときは番兵に見せろ」水が入った竹筒と薬包紙を彼の枕元に置く。「気づいていると思うがお前は今、栄養失調になっている」私は彼の瞳を観察する。「警戒して食料を口に運べないのなら私か…………一つ目が同じ釜をつついて食べるようにする。それでも食べないのなら無理矢理に口内に詰め込む」
彼は何も言わずに迷惑そうに瞳をふす。私は立ち上がり鉄格子が張られた牢屋を出る。牢屋の前には椅子に座り机に肘をつけた一つ目が彼を監視している。
「大将に許可をもらったらそうします」
「君だけじゃないか。律儀に規律を守っているのは」
「あいつらの件も直接自分が報告しておきますから」
私は切り立つ石階段の上から水のようにこの低きに降ってくる陽光を見る。
「また来る。彼の容体に急変があったらすぐに呼んでくれ」
私が歩き始めると一つ目はご苦労様ですと私を労った。




 陽光がおちる階段をのぼり終えると雷神軍……厳密に言えば黒雷という神が編成した私兵団に近いものらしいがそれの駐屯地がある。林冠が完全に地上を隠し木漏れ日だけが光となる幻想的な雰囲気の中では次の戦いに備える物の怪たちが各部隊に分かれ卓上にある地図を使い綿密な作戦行動を叩き込んでいる。ほとんどのものたちが各々の卓上にかたまる中で私が一人だけ歩く光景は目立つ。彼らの反応はさまざまだが半数は私に懐疑的な目を向け一割は敵意を向ける。それだけで終わっているのはこの集まりが「軍」と値するだけの歴とした規律があるおかげだろう。私が知る一昔前の雷神軍はただの略奪者であったために初めは驚いたものだ。しかしそれは裏を返せば今回の雷神侵攻は物の怪たちの娯楽程度ではなく本気で行われている証にもなる。
「こっち、こっち」
「まってよ。おいつけないよ」
物の怪の子供たちが前を横切る。子供たちの後ろを追いかける世話係は私に軽く頭を下げると彼らにすぐ視線を向けた。産業革命を迎えてから人間の環境破壊は類を見ない速度で加速した。それは私たち物の怪の居住地がなくなっていくことも意味していた。生存を賭けた戦いは彼らの元来の性格である個別主義を捨てさせこうして人間の真似事をさせるまでになった。物の怪たちのテントが所狭しと並ぶ中央地帯を抜けると今度は少数の人間たちが集うテントが点在している。なぜここにいるかは知らない。物の怪たちとここにいる人間たちの関係は人間の拠点が外縁地にある事実で大方予想はできる。ここにいる人間たちの多くは物の怪たちと違い雰囲気が軽い。談笑している人間たちをよく見かける。昼間から酒を呑んでいる人間は一度も見かけたことはない。しかし、卓上に集う彼らの姿も私は見たことがない。
 駐屯地を抜け暫し歩く。鬱蒼とした林冠がなくなり下生えが踏み込まれた道を歩いていく。夏が終わり秋が始まる初旬の気温は暑くもなければ寒くもない。だがそれは陽がある内の間だけで夜になればもう冬隣を思わせる気温まで冷え込む。寒暖差の激しさについていけない桜の木はもう葉を散らしている。他の木々はまだ緑の葉だというのに毎年耐えられない姿を見ていると今度という今度は枯れたかもしれないと毎度思ってしまう。私が打ち込んだ木の杭を正しい歩数と順序で進んでいく。四つ目の杭をすぎると山道を歩き火照っている体が湿った冷たい空気に冷やされる。次第に水気を帯びた空気が濃くなり皮膚の温度も下がっていく。少し経つととうとうと流れるなだらかな清流の音が聞こえてくる。下生えを抜け石畳に足を着ける。川沿いにある石畳の道は苔むしていささか湿った土のにおいがする。魚が水面に浮く虫を食べるとちゃぽんと音がなった。上流に顔を向け私は水車が付いた我が家を見る。古めかしい木造建築だが物の怪と人嫌いの私にとっては良い隠れ家だ。気疲れを感じる帰路は物理的な距離に関係なく遠くに思える。引き戸を引き重い足を土間に運ぶ。乾燥した薬草の匂いが充満する家に安気する。引き戸を閉め式台に腰を下ろして草履を脱ぐ。あの人間が来てから五日が経つ。いつまで面倒を見ればいいのか見通しは立ってない。先の見えない労働は医療従事者にとっては物珍しくないことだが毎回見に行く度に治療した箇所が悪化しているのは気が滅入る。あいつらも人間も言っていることは同じだ。双方ともに住む土地を脅かされ戦っている。悪か。正義か。敵か味方か。そんな端的なことでしか割り振れないから争いが起こったことを理解していない。立ち上がり左側に行く。一階の構造は空間を区切る壁が一切ない。強いて言えば入って右側にある壁のように横に伸びる百味箪笥が壁のような役割を担っている。左側の壁際には本棚が一面にある。私がこの家に越してからずっと集めていた主に薬学に関する本が置かれている。最も最新技術のバイオロイドやナノマシンやネクロイドなどを取り入れた機械に関する医療技術に関しては一冊や二冊程度しかない。今となってはここにあるほとんどの知識は実用的なものではない。時代についていけなかった彼らの唯一勝る点は現代医療に比べ資金があまりかからない点のみとなってしまった。机に近づき乾燥した墨が溜まる硯の横に置かれた本を取り隣にあるヘアーゴムを指先にかける。薬棚に沿って奥に進んでいく。本を脇で挟み肩にかかるくらいの髪を後ろに纏め上げとめる。薬棚の端を曲がり裏側に行く。すると水車と薬棚に挟まれた廊下がある。水車の前には三個の石臼がある。それらは水車を動力にして薬草をすりつぶしている。私は薬棚に掛けたマスクをかけすり潰された薬草を見ていく。雷神軍が来てからここはずっと稼働している。物の怪用の医薬品は作っているが中でも一番多いのは人間用になる。あの人間だけではなく外縁地にいる人間たちが主に必要になるからだ。私が漢方を渡した時はかなり懐疑的な目をしていた。投薬しているかどうかは知らないが要請があるからつくっている。本を広げ薬棚を開ける。寝る暇を惜しみたくないので食う暇を惜しみ実りのない仕事を今日もする。
 
 時間はすぐに経ち蝋燭を三本使い切った時に寝た。起きてすぐに体を洗った私は行商箪笥を背負い外にでた。外は小雨が降っている。和傘を差し僅かに枯れた葉が石畳に落ちる道を歩く。昨日より着込んで外に出たが思ったより寒い。木枯らしが吹く時節を思わせる温度だ。袖口に手を入れ息を吐き出す。白むことはないが口から抜けていく体温の暖かさはわかる。明日にもこの寒さが続くのはきつい。冬の和服は頼りないからな。
 人間が主に集う外縁地の一番大きなテントに入る。昨日は入口を閉めてなかったが今日は閉めていた。彼らも山の寒さを歓迎してないようだ。
「薬を届けに来た」
私は入ってすぐ行商箪笥を置き身を屈め棚を開く。
「この前は…………」
取り出した薬包紙に包まれた薬をまとめて大きな和紙に包みさらに風呂敷で包みこみ中央にある細長い卓上に置く。私がいる場所から真反対の場所には立ち上がった人間の男がいる。太眉の男は言葉を切らして口籠もると気まずそうに瞳を動かしている。
「薬包紙に包まれた薬が入っている。それでこの前に投薬以後の体調の変化を記載したものが欲しいと言ったがどうなっている」
「……はい。それはとってあります」
太眉の男が「おい」と言い隣に立っている男をテントの外に出させる。私は以前と反応がずいぶん違う彼らに少し危機感を抱く。気が立った空気ではないが確実に何かが変容した雰囲気がある。
「やはりいい。私は本陣にいく予定がある」
行商箪笥を背負い肩掛け紐を前に引っ張り位置を調整する。
「この前は……」男は勢いよく頭を深々と下げた。「この前の失礼な態度を謝りたく思います」
テントから出た男が手に紙束を持ち帰ってきた。彼は太眉のお辞儀を見ると慌てて頭を深く下げた。彼らの意図はわからないが来ると思わなかった紙には大変興味がある。身の危険が薄れ私の傾注するものがただ一点になる。
「本当にその紙は投薬データが入っているのか」
「はい」彼らが頭を上げる。太眉が紙を持った男に目配りをすると彼は小走りで私の元に来て両手を添えて紙を渡した。「正直、カンポウという聞いたことがない医薬品を我々は疑っていました。そればかりか、私たちが気に入らない雷神陣営のどこかの勢力が寄越した間者と疑っていました」
「お前たちの中に女がいるのか。男だけだと思ったが認識を改めなければいけないな。人数はどのくらいいる」
「は。十二人です」
「思ったより多いな」私は紙を上着の中に入れ入口付近に立てかけた和傘を取る。「彼女たちのテントはどこに」
「それならご案内いたします」
紙を渡した男が言った。
「いい。女性には女性の問題があるのでな。君が一緒に来ると話しにくい」
彼は首を傾げ太眉を見る。
「ここから出て左の一番端から数えて二番目のところにあります。そこで非番の奴らが待機しています」
「了解した」
私は入口を閉める垂れ幕を手で横にずらす。外は変わらずの雨天だが雨雲の隙間から漏れ出ている陽光が明るい。泥濘んだ土にできた迷惑な水溜りが嫌に目立ち歩く気力を削ぐ。
「気になさらないのですか」
大の男が気の小さな声で言った。
「君たちには君たちの立場がある。それから想起される危険を疑うのは当然だ。君たちが利口だったおかげで私は攻撃されずに済んでいるしな」振り返り顔を少しうつ伏せ躊躇いなながら私を見る太眉を見る。「因みに便宜上医薬品と言っているが漢方は医薬品ではない。お前たちの体の自己免疫力や代謝などを高めているだけに過ぎない。それを留意してくれ。あと、現状の常備薬で足らないものがあるなら言うといい」
彼は何も言わずただ慇懃な辞儀をする。もう一人は「あり……」と言いかけたがすぐに口を閉じ気弱な瞳を見せた。そして、彼も何も言わず慇懃な辞儀をした。テントの屋根を伝い地面に落ちる雨音が明確に聞こえる。私はテントを出て和傘を差す。泥濘と水溜りばかりの地面からまだマシな道を見つけながら歩く。上着の下にあるのは顔も声も知らない名前と性別だけがわかる患者たちの記録。私は患者たちと向き合い話すは好きな方じゃない。だから、これから女たちに直接訊きにいくことに気分を良くすることはない。しかし–––––まぁ、実りあることならまだやろうと思える。


 彼女たちの話を聞き終える頃にはもう昼になっていた。雨が止み傘を差さなくてもよくなったのは幸いだが予定より時間がかなり押している。私は水面に映る三つ編みにされた私の髪を見る。私の方が遥かに年上だというのに淡い藍色の髪を珍しがり寄ってたかって結ってきた。特に髪質の良さが気に入っていたようだった。なので、今度私が使っている植物油を持っている約束をした。
「なんだ。今日はいつもより気が緩んでいるな」
人がテントを張る外縁地から物の怪が本陣を構えるテントの地点から少し距離がある。そこで偶にすれ違う野良の鬼がいる。なんでもあの人間の知り合いらしいくたびたび本陣に行き交渉しているらしい。
「またあなたは交渉を」
「それが聞いてくれ」
林冠に残った雨水が陽光を希薄化させ乱反射させている。透度が高い陽光が無秩序に樹冠の下に漏れ落ちている。春の日差しのような光が包み込むような優しい光景が広がっている。先で木にもたれている彼女を横切ると彼女は体をふらふらと動かし木から離れた。結ばれてないが綺麗にまとまった白銀の髪は清流の水面に映る光のような無垢な美しさがある。
「おぉ、医者ではないか」
後ろからお気楽な野太い声が聞こえた。彼女は振り向き後ろ向きで私と並んで歩く。
「あいつのおかげで会えるようになった……………多分」
私は立ち止まって振り返る。人型の大柄の物の怪がいる。彼はなんというか楽しそうな人だ。それ以外の適当な言葉が見つからない。
「私を雇った人は彼」
「あんないい加減そうな奴に雇われたのか」
「あれでもここではそこそこ言うことが通るらしい。心配しなくても会えるだろう」
「そんな心配そうな顔をしているのか。私は」
「顔なんて見なくてもわかる。冷やかしで捕虜の人間と会いたい馬鹿はそうそういない」
「なんだ。面白いことなら我も混ぜよ。何を話しているのだ」
彼が近づき私たちは歩き出す。彼も私の横に並び歩く。
「お前ともっと早く会っていればあいつともっと簡単に会えていたと話していただけだ」
「ここ数日はいなかったのだ。小隊を連れ戦いに行っていたのだ」彼はほのかに笑う。「それよか、我の軍門に入らぬか。お主との勝負は刺激的であったぞ」
テントが集う本陣に着くがそこからまだ歩く。物の怪たちはみな私の顔や彼女の顔を見ることなく彼の顔を見ている。彼が彼ら彼女らに視線を向けるとみな笑顔になり手を振ったり頭を下げたりしている。瞳を上に向け瞬き一つもせずに彼を熱心に見るものもかなりいた。彼を見るや否やテントから仲間を呼び出して見させるものすらいる。
「気分が向いたらな」
彼女は瞳を私に合わせる。異常な視線の集まり方に気づかない方が無理があった。私が首を横に振ると彼女は短い鼻息を漏らす。私たちにわかることはおそらく彼と対等に話すことはここでは常識外れだということだ。
「まぁ、そう言うずに我ととも行動しろ。我の理想を体感すれば貴様は間違いなく我が理想の臣下に望んでなる」
「…………………」
私たちは足早になる。目的地になる彼のところは周囲に物の怪が常駐しているテントがあまり多くない。彼と無駄話ができるのはそこからになる。

 「よほど小童が心配であったか」
「お前は何ものだ」
私が先頭にたち仄暗い洞窟の階段を降っていく。今朝に降った小雨が地面のさらに奥に落ち洞窟の天井から水滴となって落ち水溜りを作っている。足元にある石からは積雪した地面のような体温を吸い取る冷気が放たれている。下まで降りると吐き出す息が白くなった。
「––おい。–––––––しろ–––––」
また騒がしい声が聞こえる。最悪だ。
「何だ。騒がしいではないか」
一番最後に降りた男が一番奥の壁を見る。彼の牢屋の正面にいるはずの一つ目を探すが見当たらない。
「ここは遺恨を晴らすための場所になっている」
「どういうことだ」
「–––––しっかりしろ!きっともうあの女が来る」
いつもの怒声じゃない。どういうこと。私はすぐに走り出す。彼らも遅れて走り出す。水溜りが弾かれる音が洞窟内で強く響く。彼の牢屋を照らす焚き火の前に私が立つ。彼はすぐ私の影に気づき振り返ると「早く来い」と必死に言った。開けられたままの牢屋の中に入り彼の横に立ち抱えられた一つ目を一瞬だけ見る。行商箪笥を雑に地面に下ろしすぐに箪笥の棚を開ける。
「そこをどきなさい」
「だが–––––––」
「早く‼︎」
私の声は静寂な洞窟で爆発音のように一瞬で広まる。瞳に涙を溜めていた彼は優しく一つ目を下ろして横にずれた。その際、血が流れている彼の腕が見えた。私の足元はどちらかの血で真っ赤に染まっていた。
「一つ目、聞こえるか。意識はあるか」
体の五割以上を占めている白目の部分にあざのような黒いしみがある。瞳の真横には槍で貫かれたような穴がある。そこから絶えず流れる血が白目を赤黒く汚している。
「––––––––」
閉じることのない目に水を注ぎ血を洗い流す。血液が赤い。おそらく体に依存した物の怪だ。人間と同じように体の機能が不全になれば死ぬ。私は振り向き私の後ろに突っ立つ大男を見る。
「こいつを早く運んでくれ」
「了解した。先に行くぞ」
私が行商箪笥を閉じて背負う間に彼はもう階段まで運んでいた。
「俺も行く」
彼が弱々しい吐息とともに呟いた。
「君が地上に出るだけで一悶着が起こる。彼を思うならここにいなさい」
「だが、」
立ち上がった私の手を縋るようにとる。
「しっかりしなさい」私は彼の手をそっととる。寒そうに震える瞳は本当に子供だ。「自分の立場を考えて行動しなさい」
私は牢屋から出て彼女にタオルと包帯を投げる。そして、一心に走った。

 「どうする」女が遠ざかる医者を見て言った。少年は気力なく壁にもたれ座り込んだ。血が垂れでる片腕の深い傷を忘れたのか。片手から流れる血を手で抑えずに放っている。頭は背骨でも引き抜かれたように垂直に垂れ下がっている。切り刻まれた服から見える深い刃物傷から涙のように血がひたひたと流れている。牢屋に入った女は無惨な彼を横抱きする。「今なら逃げられる」
ベッドに体を置く。涙が引き乾燥した瞳は出来の悪い贋作のように生気や気力を感じさせない。彼の瞼が微動する。
「どうしてここに……………。」
掠れた息が彼女の体に触れる。それは体を過ぎ胸底を寒々とさせる。痛ましい彼の姿のせいなのか。眼力がない瞳のせいなのか。ともかく、彼女が最後に見た少年の姿からは程遠いものだった。
「今は逃げるか。大事をとってここにいるかが先だ」
彼女は地面にある竹筒を取りタオルを濡らす。そして服を破りタオルで血をとっていく。
「…………雷神軍は現行の世界を壊す悪だよな」
彼女は彼を一瞥する。
「お前はどう思うんだ」
「あいつらが争いを仕掛けなければ今の戦いはなかった」
「だから悪なのか」
「………………………」
彼女が真っ赤になったタオルを絞ると嗅覚を鈍化させるほどの血生臭いにおいが充満した。だが彼女らは咳払いもむせることもなく自然と息を吸っている。再び少年の体を拭きあらかた血をとり終えると腕に包帯を巻き始める。
「好んで他を傷つけるやつはそういない。人でも物の怪でもそれは同じだ」
少年の腕に力が入る。
「ならどうして戦うことを選んだんだ」
「争いはどうして起こるか考えたことがあるか」
「私欲に駆られた誰かや誰かたちのせいで––––––––––」
彼女は包帯をきつく縛る。すると少年の口から痛みを堪える息が漏れる。
「悪や正義は大衆を欺くための動機だ。特に子供はそれに毒されやすい。物事を単純に分類できるからな」
「どう言うことだよ」
口だけが動き言った。だから声量などなかった。
 「お前が自身で知らなければ意味をなさない」私は少年の瞳を見る。争いに参加してしまったからこそ知らなければいけない。争いに慣れてしまったからこそ知らなければいけない。戦うことは決して正義になれないことを。戦うことはいかなる理由に基づいても正当化されないことを。でなければ、こいつは………朔は誰かに植え付けられた都合のいい思想のもとで永遠に誰かを殺し続ける。「しかし、ここを抜け出すかどうかが先だな」
朔の背中に手を通す。あげるぞとひと声かけ上体を上げる。背中や胴体部分には執拗に何度も痛めつけられた傷が何箇所もある。それらの傷はもはや赤ではなく変色し黒に限りなく近い赤になっている。
「ここに残る」
「いいのか。逃げ出せる最後の機会かもしれないぞ」
「––––––––」胴体に包帯を巻く私を朔は見る。「俺のせいでまた誰かが知らない内に死ぬのが嫌なんだ」
「ここにいればお前が無惨な死を迎える可能性があるとしてもか」
一滴の水滴が落ちる。それは彼の手の甲に落ち淡い紅色になる。彼の視線がそれに向くとその赤は甲をなぞり落ちていった。
「死ぬことより辛いことがある。今の俺が知っている確かなことはもうそれだけだ」
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