三節 想いと願いと祈りに満ちた世界で 六

文字数 11,923文字

 –––––––今日の午後に三ヶ国でほぼ同時刻でテロが起こったそうですね。なんでもこの前に声明を出した無国籍集団のテロ組織がやった可能性が高いだとか。
 –––––––これは番組が始まる前に私が聞いた最新の情報ですがほぼそのテロ組織で間違いがないと思います。
居間に繋がる和室からテレビの音が聞こえる。和室には食事を終えた無愛想な男が斜に構えた態度で座ってテレビを見ている。片手には親指を挟まして閉じた本がある。
「そうか。無事ならよかった。あいよ。ありがとうな」
ひのかと朔のご飯だけが残る居間のテーブルから薄い白Tシャツの男が離れる。男は風呂上がりには火照った体を冷やすためいつもその格好になっている。通話を切った携帯を片手に細い廊下に出て靴を履き始めているひのかを見る。
「ひのかさん。朔は無事だとよ」
上体を勢いよく捻ると背中に垂れている長い髪が大きく横に揺れた。男の顔を見るとひのかは思わず口を大きく開く。
「本当ですか」
「あぁ」思いもしない大きな声に男は頭を少し後方に引く。「知り合いのところで一晩か二晩泊まると聞いたよ」
大きな吐息とともに開いた口が徐々に閉じていく。同時に体全体の力が抜けていき捻った体を前に戻す時にはやや猫背になっていた。人差し指を踵に入れ片足の靴を脱ぐ。もう片方の靴にも人差し指を入れる。また大きな吐息をしてしまう。
 ––––––––––いつも連絡してくれない。
「なんだ。喧嘩別れでもしたのか」
背中を丸めるひのかに男は声をかける。
「いつも通り勝手にどこかに行っただけです」
どことなく強い口調で言うとひのかは立ち上がった。堂々とした歩き方で細い廊下を渡るひのかに男は思わず体を壁につけ道を通す。
「藤子みたいでおっかないな」
男は居間に行くひのかを見てぼやいた。
「そうかい。お前の目には私があんな美人に見えとると」
男は訛りがある声を聞くと背筋がすぐに凍った。男にできることは場を濁すように固い笑みを浮かべることのみだった。






 –––––––彼らの目的って実際なんですかね。世界中にテロ活動を行ったところで世界の人々から恨みを買うだけじゃないですか。
 –––––––専門家の多くは世界大戦の時になった難民がやっていると予想しています。今でも世界大戦の影響で難民になった多くの人々が国境付近に溢れかえってるらしいです。特に陸続きのオセアニア大陸に属する国々ではそれが顕著にあらわれています。国境にある難民キャンプは治安が悪いらしく人身売買や麻薬などの犯罪が頻発してるらしく決して治安がいい状況ではありません。さらに悪いことに国境で国の受け入れを待つ彼らに入国が保障されてるわけでもありません。
 –––––––なるほど。そこで痺れを切らした一部の難民が暴徒となり今の行動をとっていると。
 –––––––そうですね。–––––––––––––
「いやーねぇ。怖い世の中になったわぁ。ねぇ?」
朔は突然きた奇抜な髪の色をした人物にこくこくと頷く。
「ご飯はまだなの」
アノンが言った。少女の名前はアノンらしい。奇抜な人物がそう呼んだ。
「もう、せっかちさんなだから」
ガレージに隣接する家は居酒屋のような大きなバーカウンターがある。そこに足の長い丸椅子が等間隔で並べられている。内装は至ってシンプルでとりわけ目立つものが何も置かれていない。面積の割にものがなさすぎるせいでどこかの会社の受付だと言ってもあまり違和感がない。しかし、バーカウンターに置かれた酒は実に様々な種類がある。カウンターの周囲しか明かりがないことも相まって様々な酒瓶の色が目立っている。
「お前、それ本当だと思うか」
アノンは肘をつけ酒が並ぶ棚の前に浮かんでいる電子液晶を見ている朔に言った。
「いつになったら刀の分析は終わるんだ」
奇抜な男が右端の調理場で料理をしている。片方の電子コンロには沸騰した水の中にじゃがいもが入れてある。もう片方の電子コンロには水のようにオリーブオイルが鍋を張っている。そこからニンニクの香ばしさと鷹の爪の辛みのある乾いた匂いが立ち上っている。男はそこにエビやブロッコリーやマッシュルームなどを入れる。
「うまい飯は食えるし、風呂も入れるし、寝床もある。いいじゃねえかそんなことは」
少女は封が切られたスナック菓子の袋に手を入れポテチを食べる。朔が少女に振り向くと彼女はスナック菓子の袋の口を朔に向ける。朔は首を横に振る。
「明日までには終わらしてくれ」
「何か用事でもあるのか」
「あるわけじゃないが」
「ならいいだろ」スナック菓子の袋に手を入れる。「素振りをしたいならここから出てやっていいぞ。どうせ誰も来ないから迷惑になんねぇからな」
ポテチが口の中でポリポリと鳴る。
 ––––––そういえば日本の外区で起きた事件ありましたよね。なぜか報道されていませんが大きな爆発があったとか。知っていますか?
年老いた男が発言した。奇抜な男は蒸した芋が入った鍋を電子コンロから離して湯切りをする。そして空いたコンロにフライパンを乗せてコンロを点ける。
 ––––––いえ、初耳です。
 ––––––実際に外区に住んでいる知人からもらった写真があるんです。今見せることできるかな。知人の話では規模の大きい高級娼館らしくてね。僕も爆発後に実際に足を運んだんですが僕が行く時にはそこだけが綺麗な更地になっていたんですよ。
 ––––––えぇっと。ここでCMに入りたいと思います。
 ––––––過去にあそこにね。政治家が殺された事件が–––––––––––––––
CMに切り替わる。
「あのおっさん。よく長生きできているな」
「同感だわ」
男は蒸した芋を先ほどのフライパンの上で潰している。
「なんの話だ」
「テロ組織の話が本当に難民でできているかって話だ」
「………………………」
朔は少女の瞳を凝視する。睨むようにと言っても過言ではない。少女は朔の視界に手を出し視線を叩き落とすように何度も手を上下に動かす。
「んだよ。別にいいだろ。そっちなら話してやる」
「……………。」
朔はCMが終えたばかりの番組を見る。よく話すおっさんは不服そうに眉間に皺を寄せ司会を見ている。
「あいつらが言っている国境付近にいる難民がそんなことをやっているわけじゃない。いたとしても一割が限度ってところだな。お前、第三次世界大戦前に原理主義者が創った国際的テロ組織を知っているか」
彼女は肘をカウンターにつけポテチを持つ手をぷらぷらと適当に動かす。
「知っている。確か自称国家を創ったが多国籍軍の武力行為で解体されたな」
「なんだその言い方。国際的なテロ集団が壊滅されたんだぞ」
少女はからかうように言った。朔にとってはそのふざけた態度は耳障りにしか思えない。
「彼らの行為は不幸をばら撒いただけだが元を正せば列強諸国が長年に渡り干渉し多くの民族を強制的に抑えつけさらには本来の領土を歪ませたことが原因の一翼を担っている。それに仮に国家を創ったんだ。そこには民間人がいた。戦争には常に被害者がいる。それを美談で語ることは赦されない」
「思ったよりしっかりした考え方を持ってんじゃねぇか」少女は引き締まった微笑みで朔の肩を軽くこつく。「お前たちの争いに参加していた奴らはみんな正義や大義やとかいう気持ち悪い奴しかいなかったからな」彼女の他意のない子供のような笑みに朔は困惑する。「まぁ、でだ」彼女の顔から笑みが徐々に薄れていく。この次は手首を捻りポテチの裏と表を交互に見始める。「………テロ組織が解体された後に残ったその民間人ってやつが今のテロ組織に繋がっているんだ。テロ国家に参加してしまった人間が諸外国から閉め出されるのはまだ理解できるがそこで生まれた子供たちもどの国家にも属せなかった。それも親がいない戦災孤児が爆撃が降った後の何もない大地で生き残らなければいけなかった。諸外国は洗脳教育が施されたかもしれない少年少女たちの受け入れを拒否した。実際に受けている子供もいたがそれなりに時間をかけてやればほとんどの子供の洗脳は解けたはずだが………そんなことよりその国家にいた事実の方が遥かに重要だったかもしれないな。奴らはどの国家にも属せず無い人間として世界を放浪し続けた。だから今のニュースのほとんどは無国籍の人間による反抗としてしかわかっていない。おそらく今後も歴としてわかることはないだろうな」
「彼らは世界を恨んでいるからテロを活動をしているのか」
「どうだろうな。世界を恨んでいることは確かだろうし今のこの世界に絶望しているから自爆テロができたんだろうな。私からすればこの世界を嘆いているようにしか見えないな。それに手段はクソだがあいつらが言う開かれた世界を創るために戦っていることは確かだろうな」
「あら、アノンちゃんがよく話すなんて珍しいわね」
男はガレットを二人の前に出す。自然と俯いていた朔の視界に入るそれは焦がしたチーズの匂いがする。続けてフランスパンと丸い陶器に入ったアヒージョが出た。
「うっせぇ。おかま。私の勝手だろ」
「うんもうぅ、思春期の娘じゃないんだからそんな態度取らなくていいじゃない」
男は口をアヒルのように尖らせ困った顔をする。なぜか男の態度や言葉は少し演技くさい。
「どうしてその話を俺にした」
「どうしてって…………」アノンは腕を伸ばしてテーブルの端にあるフォークとスプーンが入った細長い箱を引き寄せる。それらを取り出すと自身から一番近い朔の左手に箱を当てた。朔の瞳は表層に千々とした傷が刻まれた硝子のように艶のない光を帯びている。「お前みたいな奴は世の中にゴロゴロいんだってことだ。だから……………その…………」朔が箱を取る。アノンは椅子の上であぐらをかき両腕をピンとまっすぐにして組んだ足の上に手を置く。眉間が中央により険しい顔つきになる。「何言いたいのか自分でもわかんなくなってきた。お前を慰めるつもりは微塵もないがお前のことを気にかけてないわけでもない」
「彼に対して好意に思っているから何かを伝えようとしたのね」
男は酒瓶の栓を抜き透明な氷が入ったグラスに注ぐ。瞳に優しい暖色の照明が琥珀のウイスキーを透かしている。
「うんなわけねぇだろ。どちらかと言えばイケスカネェヤツだ。生き残ったくせに生きようとしてねぇことにな」
「…………………」
アノンはカウンターに並べられたご飯を見るだけで反応を示さない朔に舌打ちをする。乱暴にフォークでガレットを突き刺し陶器と鉄が強くぶつかる音を鳴らす。男はグレープフルーツジュースで割ったウイスキーをアノンの近くに置く。そして朔の前に立つと姿勢を屈ませ朔の瞳と自身の瞳を合わせた。
「遅れたけど私の名前は………そうね」瞳が一瞬だけそれる。「あの子たちと同じでネキって呼んでくれていいわ」
男は微笑んで手を差し伸べる。朔は彼の微笑みを見るのは二度目だがどちらもそっくりだと思った。人に不快感を与えないように配慮した顔は顔がコロコロ変わるアノンと極端と言っていいほど違う印象を受ける。朔は差し伸ばされた手を握る。
「古徳 朔です。ご飯を作ってくれてありがとうございます」
「気にしなくていいわ。この子が初めて友達を呼んだんだもの」
「ともだちじゃない」
フランスパンを食べるアノンの口まわりはもう脂光りしている。さらに彼女の周囲のカウンターの上にはパンカスが散らばっている。猫背でかぶりついて食べる野生味が強いアノンの姿に朔はひのかとまた違う食に対する逞しさを感じている。
「気にしないでね。彼女、自分で全くご飯作らないから常に空腹なの」
アノンがグラスを口につけ背中を反り返らせ勢いよく呑む。喉が呼吸するようにごくごくと動く。
「はぁー!やっぱりルーツのご飯は美味いな」人が変わったかのようにアノンは満遍の笑みを浮かべている。見た目の通りの少女の笑みに朔は静かに驚く。「おかわりあるか?」
空になったアヒージョの皿の縁を人差し指で叩いている。カウンターテーブルの下にある床についていない足は犬の尻尾のように上機嫌にはたはたと動いている。
「あるわよ」ネキの口角が僅かに上がる。「少し待ってなさい」
「わかった」頭をこっくりと深く下げて言った。不意にアノンの顔が朔に向く。「ご飯、食べないのか。美味いぞ」
「そ…………そうだな」
「今更だけどお前、顔色悪そうだな。クマがひどい」
アノンの手が朔の顔に近づいていく。真上の照明が真下にあるアノンの手を照らす。油味のあるてかり方に朔は思わず顔を引く。
「大丈夫だ」
「本当か」
止まらない手に朔は焦りフランスパンを取りかぶりついた。そして
「ほら」
とこもった声を出した。
「おかわり持ってきたわよ。それにお酒の方も」
「きたきた」
朔はパンを食いちぎる。そして咀嚼しながらまた嬉しそうにご飯を食べ始めるアノンを見る。パンを飲み込みネキに顔を向ける。
「酒を呑ましていいんですか」
「酒が入ったらあまり頭を使わずに話すようになるだけだから。現に今まで二日酔いをしたことがないから大丈夫だと思っているわ」
 本当に大丈夫なのか。
「そんなこ・と・よ・り古徳君はどんなお酒が好み」
ネキがウインクする。
「呑んだことないのです」
「あれ?二十歳超えてないの」
「そう…ですね…。」朔はぎこちない微笑みをする。それはネキにとって自らを嘲笑しているように見える。「…………もう俺は二十歳でした」
「どうやらあなたも一度彼女のように口を軽くした方が良さそうね」
ネキは封が切られてない酒瓶を棚から取り出しカウンターに置く。次に逆さに吊り下げられたワイングラスを二つ取り酒瓶の横に置く。
「俺はいいです」
「私が一緒に呑む相手が欲しいの。付き合ってちょうだい」
ネキの口角がにっこりと上がる。不自然な笑みだがなぜだがほのかに安心感を覚える。コルクの栓が抜かれる音が暗がりの家の中に響き渡る。あの報道番組はもう終わりバラエティ番組に変わっていた。カウンターの周囲にしかないあまり明るくない温暖な光は朔とアノンの背中を明るく照らすことはできてないが彼らの手元にあるご飯を美味しそうに照らしている。余計なものが見えない小さな空間で朔はワイングラスに注がれる月気のような白ワインを眺めている。

 タボがお猪口になみなみに入った日本酒を一気に口に入れる。喉が呼吸をするようにごくごくと音を鳴らしている。その斜向かいに座るひのかはテーブルに並べられたご飯を暴食している。お猪口から離れた口から大きな息が漏れる。タボは途端にうつ伏せうねり声を上げる。
「何も知らないくせに好き勝手言いやがって。くそくそくそ」
隣に座る男はタボの背中をさする。
「わかる!わかるぞ!いつも政府が言うことは何もわかってちゃいねぇ。俺らのような中流家庭出身者が全くいないボンボンの集まりだから現場のことを何もわかってない。金は働いて得るもんなんだ。お前らみたいに寝るだけで得るもんじゃない!なのにスマート農業を促進するとか言って地方で数少ない、人が金を稼げる機会をとっていやがる。お前さんのような外から来た人間にとっても最悪な話だよな。働き口をなくすならそれを補填する労働機会をみんなに与えるべきだ」
顔が真っ赤な男は酒気を吐き散らしながら熱弁している。朔が与えたストレスを発散するために食べているひのかはずっと頬を膨らましたままむしゃむしゃと食べている。時折、男と目が合うと思い出したかのように何度も頷いている。因み食べることに夢中なので全く話は聞いていない。
「そうですよ。俺だって藤子さんと次郎さんと会わなかったらあいつらと同じようになってたかもしれないんですよ。だってそれまでどこに行っても俺も俺の両親もどこにも行けなくて働けなくて––––––––––」
タボがぐずり始める。次郎はその姿にうんうんと言い涙目を浮かべている。
「ひのか、ご飯のおかわりいるかい」
ひのかの隣に座る藤子はひのかの食べっぷりを楽しそうに見ている。ひのかは大きく頷いてご飯を飲み込む。
「–––––はい。食べます」
藤子はお茶碗を受け取り近くに寄せた炊飯器を開ける。かれこれ、三度目のおかわりだ。ご飯を待つひのかの箸が止まる。コップに入ったお茶を飲みながら前にいる男二人を見る。
「泣いてますけど大丈夫ですか」
「気にすることねぇ。あの二人はいつも酒癖が悪い」
藤子がご飯を山盛りに盛ったお茶碗をひのかの近くに置く。
「ありがとうございます」ひのかはコップを置き箸を持つ。トンカツに唐揚げにきんぴらごぼうにと他にも色々あって今日は具材が多い。ひのかは前のめりにおかずを見ているが涙目の男たちが気になってつい瞳を前に向ける。いつの間にかタボは号泣していた。隣にいる次郎は鼻水を垂らして泣いている。「…………………本当に大丈夫ですか」
「溜まってるもん吐き出してるだけだ。気になるならひのかも呑んでみればいい」
「いえ、私はいいです」
ひのかは藤子に顔を向け横に振りながら言った。前の二人は呂律が大変悪く何を言っているかもはやわからない。
「ひのかも溜まってそうだ、え?」
「そう見えますか」
「喧嘩したのか」
「してません」
「ならどうしてあの子はいない」
「…………」ひのかは親指で箸をさする。顔を大好きなご飯に向けるが箸は全く動いていない。「知りません」
「いつもそうなのか、え?」
「はい」ひのかの箸が鷹の爪のようにトンカツを捉える。「いつもそうです」
低い声で言ったひのかはカツと白米を口にかっこむ。
「どうしてだろうね」
「ひりましぇん」
いろんなものが詰まる口から声が出る。
「今度、二人でお酒でも呑んでみるといい」
「しゃくさんはタフン酔ってもなにもはなしましぇんよ」
「お酒ってものは心にある蓋を緩ませるだけのもんだ。だから想いが詰まった言葉が心で感じやすくなる。だけど……あの子が心がない人間というなら無理かもしれないがね」
「そんなこと………」急にひらけた喉に米が雪崩れ込み息が詰まってしまう。ひのかは胸元を叩きながら急いで水を飲む。「そんなことありません」
と慌てて否定した。
「ならやってみるといい」藤子はテーブルの中央にある透明なガラスでできた使われいない二つのお猪口を指先で挟み引き寄せる。そして次郎が取ろうとした酒瓶を奪いそれらに注いだ。「その前に自分がどのくらい呑めるかしらないとだ」

 白ワインが入る透明なワイングラスにマスカラが付いたネキの濃いまつ毛と赤朽葉色の瞳が映っている。彼ら三人は顔が赤らんでいなければ呂律が回ってないわけでもない。食事が終わったアノンはカウンターに顔を乗せネキに言われた通りお手拭きで入念に手を綺麗にしている。
「この次は私と一緒のやつ呑めば」
アノンは空になった朔のワイングラスを見ている。
「グレープの苦さに少し抵抗感がある。あの苦いさがどうも」
「このウイスキーの風味ととても合うのに」
「本当よ。私もグレープは苦手だけど混ぜるととても美味しくなるの」
ネキはバーカウンターの中で足が長い椅子に座り朔とアノンの中間時点で向き合って座っている。
「そうですか………」朔は空になったワイングラスを明かりに透かしてカウンターに映るグラスに残る僅かな酒の影を見る。物事は考えられるがどうも考えることが面倒に思える。時間の流れがどこかゆっくりしているように思え呆然というには判然としすぎてるような不可思議な感覚だ。「頼んでいいですか」
「いいわよ」
ネキはニコッと笑うと気怠そうに立ち上がった。
「そういや、朔はどうして素振りしてんだ」お手拭きをカウンターに置く。「私もおかわりー」
「ウイスキーとジュースごと持ってくるわ」
「わかったー」
ネキがウイスキーを棚からことりと取り出す。ネキのヒールの音がおっとりと聞こえる。少し経つと冷蔵庫が開く音が聞こえた。
「……………」
朔はもう小さくなっているフランスパンを千切る。そしてほとんどオリーブオイルがなくなっているアヒージョの皿につける。自分でもやっていることに意味がないとわかっている。アノンはカウンターに頬をつけている朔を見ている。
「朔って刀のことは大切にしてそうなのに力を振るうことは嫌いって矛盾しているよな」
朔は皿につけたフランスパンを見る。ほぼ白いままだ。
「そうだな」
フランスパンを食べる。
「まるで人ごとだな」
「持ってきたわよ」朔を見ているアノンの視界がウイスキーとジュースパックに阻まれる。アノンは起き上がり朔との間に置かれたウイスキーをとる。直後にネキが透明のガラスグラスをアノンの近くに置く。「彼の分、よろしくね」
アノンはウイスキーの蓋を開けながら瞳を朔に寄せる。
「濃さはどのくらいがいい」
「アノンと一緒でいいか」
「わかった」
「ありがとう」
「あら、ちゃんとお礼が言えるのね」ショットグラスを片手にネキが言った。「アノンちゃんと同じでお酒の力かしら」
「そうじゃないです。礼はちゃんと言えるようにしています」
「殊勝な心がけね。元からそうなの」
ネキは足を組んで座る。やや前のめりだが体幹が崩れてない整然とした姿態だ。彼……と言えばいいのか。ネキには独特な色気がある。男性的な骨格でありながら、みのこなしは奥ゆかしい女性のそれを思わせる。体に支配されない心の在り方に従うその姿勢がきっと彼女である彼と彼である彼女を両立させているのだろう。
「………どうでしょう」
アノンがカウンターの上を滑らせ朔に酒を渡す。朔はアノンに軽く頭を下げた。
「朔は考えすぎ」アノンは自分の分の酒を作り始める。「自分のことなんだから、パッと頭に出たことを適当に言えばいいんだよ」
「そうね。アノンちゃんも日頃からお酒を呑んだ時みたいに考えずに話していいのよ」
「むりー」アノンは酒を少し呑む。「うまーーー」
満面の笑みを浮かべていった。
「そういうものですか」
「とりあえず言葉に出してみるの。それが案外、そうだったり新たな足がかりなったりするかもしれないわよ」
朔は酒が入ったグラスを掴みカウンターの上を滑らし引き寄せる。思考が鈍っているせいかいつもより人が言っていることが自身の考えにかき消されずに頭によく響く。朔はアノンを一瞥して自分も素直になっているかもしれないと思った。グラスを持つ。水面が揺れる酒を顔に近づける。そして、勢いよく呑んだ。ネキはその姿にふふと細い笑みを浮かべる。呑み終えた朔はグラスをカウンターに置き二人を交互に見る。
「美味しい」
「わかる〜」
同じく呑み干したアノンが言った。
「そのウイスキーは他の果汁系のジュースとも合うの。色々試してみる?」
「はい。お願いします」
「私も色々試す」
椅子から降りたネキは流し台の下のドアを開けて水が入ったペットボトルを取り出す。
「二人ともちゃんと水を飲みながらお酒を飲むのよ」
「はい」
「わかった」
ネキは二人の間に水とグラスを置くと冷蔵庫に足を運んだ。
「それで………えーっと、なんだっけ。何聞いてたか忘れた。まぁ、いいや」
朔はペットボトルの蓋を開け二個のグラスに水を注ぐ。いつもより水が早くグラスに注がれている気がする。
「そういえばアノンはどうしてここにこんな施設?家?を建てたんだ」
ペットボトルを垂直にたてグラスに注ぐ水を切る。最後のグラスはなみなみに注いでしまった。
「そろそろクソして金を貯めんのが嫌になった。だから建てた」
「どういうことだ」
水が程よく入ったグラスを滑らしてカウンターに置かれたアノンの指先に触れさせる。グラスに付く冷えた水滴が酒で温かくなったアノンの指先に落ちる。
「金を貰って戦うのに飽きたんだ」
朔の脳裏にガレージにある武器がよぎる。
「……………。」
酒が入っていた互いのグラスの中には結晶のように光を乱反射させる氷がある。彼らの指先はその光の影に埋もれている。
「軽蔑したか」
「俺にそんな権利はない」
アノンは水を喉に流し込む。酒で火照っていた体は徐々に熱を放出し始めている。朔に顔を向ける。バーカウンターの照明が当たらない彼の背中には暗闇が貼りつている。ここの部屋はここしか明るくないのだと当然のことを改めて認識する。
「私の根っこにあるものもあいつらと変わらないかもな」アノンは顔を下げ影が被る手を広げたり丸めたりする。「この世界で生きるためにそうするしかなかったって本気で思ってんだから」
「あなたはどうしてあの戦いに参加していたの」
ネキは四種類ほどのジュースを彼らの間に置く。
「それは……………………………」
「すぐに出たことでいいのよ」
朔が顔を合わせるとネキは皺のない笑みを浮かべ微かに頷いた。
「俺は…………………きっと星が綺麗だと思ったから」
つぶやかれた言葉にネキとアノンは互いに顔を合わせる。
「世界を守るとかじゃないの」
「そんな理由じゃなかったと…思います」
「お前、またわからないのか」
朔の目を中心にうすらな皺が浮かぶ。
「もう、昔のように星を見ることができなくなった。だからもう………わからなくなった」
「なんだよ。それ」
アノンは酒が入っていたグラスに口をつけ呑むように傾ける。ガラスの底にある一滴の酒が口に入る。
「そうかしら?私たちと通じるところがあると思うけど」
「どこがだよ」
「私たちももう今までのように仕事ができなくなったからこうしてここにいるじゃない」
「私はこいつのように身の振るい方がわかんね訳わけじゃねぇ」
「あら?そうなの?」
「私はどこにいても私だ。だから私なりに生きるしかないとわかっている」
グレープジュースを水のコップに入れる。
「それはあきらめのように聞こえるけど」
「全てを言いくるめて今の私があるんだ。私が知る奴らの生きた証を否定しないためにも私の罪を忘れないためにも私なりに生きるってことだ」
アノンはグレープジュースを飲む。ネキは腕を組みいつの間にかアノンを見ていた朔を見る。
「彼女は一人で生きてるんじゃないって言ったわ」
「いや、別にそんなんじゃないし」
とすぐさま小声でアノンが言った。
「あなたもそうだと私は思うの。だってあなたって魅力的だもん。それにきっとロマンチストね。私の好きなところばかり––––––––」
ネキが恍惚な表情になっていく。
「おい、おかま。ズレてるぞ」
「––––––と、」二度ほど咳払いをする。「周りをもう少し見なさい。あなたが誰かをずっと想い続けているようにあなたを大切に思う誰かが今のあなたを心配していると思うわ」
「だけど、これは––––––」
「あなたはずっと独りで全てを解決してきたの」ネキは惑う青年の瞳を真っ直ぐ見つめる。「星を綺麗だと思ったあなたはきっと孤独じゃなかったはずだわ」
「そんなこと知っています」語気のない平坦とした声と寒そうに身を縮める体は今にでも背中にある闇に沈殿しそうだ。「忘れられるはずがない」
「いえ、忘れているわ」
針が芯を捉えるかのような声が沈んでいく彼の顔を上げさせる。
「そんなこと–––––––」
「あなたが背負っているものは絶対に痛みだけじゃない」ネキは指先を心に当てる。「だってそんなに痛むのでしょ」
「それしか残らなかった」
朔は思わず身を乗り出し言った。朔の下瞼の縁は瞳より光を反射させている。
「……………星を見なさい」
ネキの仮面のような顔から生真面目な顔が見え始める。
「見ても変わらなかった」
「そこで話すの。あなたが愛したものたちのことを」
「そんなことをしても–––––––––」
ネキは朔の心を強く押す。
「記憶は廃れるけど受け取った想いはずっとあなたと共に在り続けるの。だから思い出してあげてあなたが愛したものたちの想いを」
朔に触れる指先が離れる。
「…………………………………。」
しかし、指先が触れた感触がずっと痛み続けている。
 ––––私が知る奴らの生きた証を否定しないためにも私の罪を忘れないためにも私なりに生きるってことだ
不意に思い出すアノンの言葉がネキの顔を悲壮に思わせる。
「今日はもうお開きね」
ネキがにっこりと微笑む。
「そうだな」アノンは朔を一瞥する。朔はまた顔を下げている。しかも今度は見るからに情けない顔だ。「ひとりで上のベッドに行けるか」
「あぁ」カウンターに乗っけた両腕に寄りかかり立ち上がる。「ご馳走様でした」
「明日の朝食も楽しみにしてちょうだい」
「はい」
朔は闇に足を踏み入れる。そして音もなくカウンターを照らす明かりから消えた。アノンは朔の座席に手をつけ息を少し漏らす。少し間を開けると腕を伸ばして朔の座席の前に置かれた水の入ったペットボトルを取る。
「言えばとったのに」
「知って––––––」腹部に力を入れ元の体勢に戻る。同時に吐き出た最初の言葉がそれに比例して太い声だ。「る!」
「もう少し酔っている時のように甘えてくれていいのよ」
「あれは私じゃないから」
ペットボトルの水を直接飲み始める。
「あなた本当に心が強いわね」
カウンターに置かれたペットボトルの内側ではさざなみが立っている。細かな気泡が水の底から水面に上がってはすぐに消えている。
「あいつ、他の奴らから聞いた話より随分情けないな」
「そうね」
「だけどあいつらから聞いて私が想像していたまんまのやつだ」
ネキは朔が座っていた席に視線を落とす。
「それも同感」
「…………………」水面はもう静かだ。「一度、かけあってみるか」
ネキが微笑む。
「そうね。彼だからこそ知るべき権利があるわ」
深更が過ぎじきに夜明けが来る。バーカウンターの明かりはじきに消え全てが闇に変わるだろう。二階のベッドで天井を見る朔の瞳はすでにそうなっている。暗闇の箱の中では純然たる星の輝きを見ることは決して叶わないだろう。


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