ニ節 遠い光 五

文字数 11,517文字

 満月の周囲は闇が薄れ蝋燭に照らされたような淡い瑠璃色が環状に広がっている。月から遠い空は満月に照らされる海面のような濃藍色一色になっている。空がいつもより明るい今宵はステーラの期待よりも星が見えない。ペンシルビルの屋上にいるステーラは三角座りした腿に下敷きを入れたノートを置き今日の記録を取っている。手元に灯りが必要ない夜は満点の星がさざめく夜か今宵のような日しかない。観測に適した日ではないがそんな夜にしか味わえない瞬間がある。
「今のステーラは姉さんが機械いじってる時並みになかなか気持ち悪いっす」
「はぁ?それはこっちの台詞だわ。部品を見てるニコラの方がパネぇから」
ふふと一人で微笑みながらノートに字を書いてくステーラを見て二人が言った。星を見る人の瞳は不思議だ。星と星に線が引かれているかのように迷いなく瞳が動いていく。彼らの目に見える星は全てが同じものになるが彼女の瞳を通して見る星々はどうしても違いがあるように見えてしまう。二人はその可笑しな体感と情熱的な眼差しに浸ってしまう。しかし彼らの後ろいたダイライだけは胸底にある穴の輪郭をなぞられているような痛みをずっと感じていた。
「メモリを読み込むための機械はもらえたか」
下の階から屋上に繋がる階段を上り終えたワクイが彼らの足元に瞳を沈めたダイライに声をかける。
「屋上でやる彼らの作業を手伝った後にもらう予定」
ワクイはダイライと一人分の感覚を開け立ち止まる。
「あいつらに渡したメモリとお前が持っているメモリに内容の差があるのか」
「…わからない。メモリの下にある奴を取れと言われただけだから」
あまり口を動かさずに発せられた言葉は芒洋とした芯のないものだった。彼らしい声色と聞き飽きた「わからない」という言葉にダイライは腹立たしく思い片眉だけを沈め怒りを覚えながらも動かぬ反面が侮蔑を語っている。
「お前はいつもそうだ。コクライのように身勝手に振る舞いながらどうしてお前は–––––––」
「待った待ったっす」ホルストが二人に歩み寄る。ホルストは夜空に照らされた二人の顔をよく見ている。「旦那のらしくない声に私たち思わずビビったっすよ」
ワクイの視界はホルストの後ろにいるニコラとステーラまで広がっていく。顔を合わせたニコラは怖ッと小声で呟きステーラはただ黙って見ている。不均衡になっていた眉は戻り表情のない半面はいつもの無愛想なものになる。
「これは俺たちの話だ」
「とりあえず予定通りにデンチュウに作業を手伝ってもらうっすから借りるっす」ワクイが変わらないダイライを見る。ホルストがダイライの手を取り右側の奥に進もうとする。突然ホルストが素早く振り向く。「最近、物騒な事件が多いっすからステーラの近くにいてくださいっす」
「…………………………」
「それ込みで機械を貸すっす」
「そいつが逃げても俺がそうすれば貸すのか」
「うん?…まぁ、そうっす?けど」
「ならいい」
視界をホルストから離したワクイがステーラのもとに歩いていく。ため息をついたホルストは顔を物静かなダイライ向ける。二人の事情は知らないがホルストは先程の言葉はネチネチし過ぎだと思った。
「今日は空が綺麗っすよ」
「……………うん。知ってる」
ホルストがそっと手を引っ張る。するとダイライはのそりと一歩踏み出した。ホルストはゆっくり歩き始める。
「姐さん」ペンシルビルの屋上と隣のビルを繋いでいる橋の上にいるニコラが言った。「先に行ってるっすっよ」
「了解―」
長い距離を歩いた後のようにホルストとダイライが歩き出す。ホルストは昔に泣きべそをかいていたニコラとこうしてよく歩いたことを思い出す。だがその時のニコラと違いダイライが何かを悩んでいることはわかる。刃こぼれした刀を見た時は怪我がないかすぐに気になった。刀から血の臭いがしなかったことには安堵を覚えた。そんな極端な心の変動があったのに彼女は何があったかは訊かなかった。人には人の事情がある。それを分かっていながら聞いて仕舞えば身勝手な自分はきっと戦うのは違うと言ってしまうから。欄干のない架けられただけの鉄の橋の上を渡る。押し付けがましい熱い陽光と違い月光はそっと地上を明るくしている。これから夜を出歩く者には道標となり眠りにつくものの瞼には温暖な光が漂う儚い闇を見せる。
「これから私の夢を見せるっすよ」
「うん」
「私の夢は壮大っすよ」
「うん……。」
「きっと泡を噴いて倒れるっすよ」
「うん––––––––––。」













 空を見上げる彼女がダイライに夢を持っていたかつての朔を思い出させた。彼を囲みダイライと祈りは彼の瞳を通して星々を見る。
「天星術はそのように頻繁に夜空を観察せねばならんのか」
彼らの後ろで頬を赤くしているコクライが大声で言った。
「うるさいな。そんなんじゃない」
「ほっほー。では何のためと」
「趣味だよ趣味」
「趣味とは」コクライは大声で笑う。「はっはっはっ」愉快そうに腿を叩き朔の顔を見る祈りとダイライの横顔を見る。「だから、そなたらも楽しそうに見ているのか」
「はぁ?なんのことだよ」朔は紙の上をはしるボールペンを止め体を捻り真後ろにいるコクライに振り返る。コクライは焚き火の光に当てられ全身が蜜柑のような暖色になっている。大きな手に収まるお猪口はおもちゃのようにしか見えない。「コクライっていつもお猪口に注ぐよな。その図体に似合わない行為のせいで女々しく見えるぞ」
「酒というものはそれそのものが美味ければいいものではない」お猪口に口をつけぐいっと呑み干す。そして口を閉じふーっと浸る息を鼻から出す。「お主もただ星を見ることが面白くて見ているわけではなかろう」
酒瓶をひょいと持ち上げお猪口に注ぐ。とうとうと流れていく酒は月光に彩られている。
「そういえばいつから朔は星を観測するようになったの」
左隣に座っている祈りが言った。
「…………」朔は微睡むような瞳で自分たちを見るコクライから視線を外す。「別に面白い話じゃ」
「俺も興味がある。朔のその瞳は何を見ているの」
右隣に座るダイライが言った。朔は黙って見つめる祈りとダイライを一度だけ交互に見ると頭をかいた。氷が張った湖の鏡面に映る焚き火は黎明のような素朴な輝きがある。焚き火の周囲にある積み重なる雪は溶けることなく輝石のような光沢のある光を反射させている。ほとんどの生き物の居場所を追いやる白い大地は寒月により冷え冷えとした白になっている。静寂の大地に乾燥した燃え木が割れる音が遠く響く。細い枝の影が倒錯する樹氷の森から一つの氷柱が落ちる。焚き火を背に座る朔たちの顔は仄かな影がある。それは炎の暖かな揺らぎに呼応し波のように揺れている。
「昔……塔子にまだ修行をつけてもらっていた時に星の見方を教えてもらった。山を歩く時や海の航海の時に標になるのはそれだけしかないからって理由で。淡々と教えられると思っていたがいつもより余計なことを話すんだ。ある砂漠は元々海だったかもしれないとか南極で見たオーロラは美しかったとか。それに世界に蔓延る醜悪さも話した」朔はノートを閉じる。空を見上げ月をなんとなく見る。「その時間が好きだった。知らない世界を知れた。だが、今思えば何より塔子のことを知れたのが嬉しかったと思う。空を見上げる度にあの時言っていたことがようやくわかったり何かあると塔子ならどう思うだろうってよく思うようになった」
「朔はその人のこと好きなんだ」
「は?」
朔の顔がダイライに振り向き大変不服そうに即座に返した。コクライは今日一番の笑い声を上げている。
「でも意外だね」微笑した祈りが言った。「塔子さんが世界というか。何かに対して感傷を持っているなんて」
「意外では無かろう。あれはあれで世界を愛している。ただ自分の力を理解しているが故に何に対しても無関心を貫こうとしているに過ぎん」コクライは空になった酒瓶を振り底に僅かにでもお酒があるか確認する。「まさに神の如き振る舞いだな」
コルクが抜かれる音が鳴る。同時に焚き火から木が割れる音が鳴り火の粉が噴き出した。その瞬間の閃光に照らされた朔の横顔にダイライの瞳が止まる。瞳の横にある空明があまりにも見事に映えるせいで彼の瞳が影に思えてしまう。
「……今度は俺が塔子に話す。あそこで見た空はどうだったとか最悪な夜を過ごしたことや––––––。こうして共に見上げた仲間のこと」朔は立ち上がり焚き火に体を向ける。そしてコクライ、ダイライ、祈りの顔を見る。「戦いが終わればそうしようと思っている。もちろん、俺が思う理想の形で終わらせる。だからその後もお前たちとこうして夜を過ごす」
「それは叶わん。貴様が我が軍門に降らぬ限り」
お猪口の底に残る僅かな酒が満月の寒光を反射させている。酒を注ぎお猪口を満たすとその光は焚き火と同じ色に染まる。コクライの顔は薄氷のような仄かな白い光に照らされている。
「そんなのわからないだろ」
冬の月が世界を光被させる青藍の夜空に寂光の星がある。今宵は星を見慣れた者ですら満月のせいで靄がかかったように星が見えにくい。故に星を知る者たちは記憶を辿り表層の光を超えた先にある星の光を手繰り寄せる。その工程は世界の光と内なる光がなくては成り立たない。
「朔、貴様は何が一番大切だ。人か。物の怪か友か。家族か。それとも世界か」
「そんなの–––––––」
「決められないのだろう」
「決められないからどの陣営の被害も少なくするんだ」
「現実の戦いは悲惨だ。英雄譚や正義などはただのプロパガンダでしかない」コクライの瞳が朔を見る。底光りする気高い光は厳粛でありながら慈愛を感じさせる。「必ず時は来る。だから決めなくてはならぬ」
「なんだよ。全てを手に入れるために戦っているくせに一つだけに決めろだなんて」
「それは我が理想の集大成だ。その過程は犠牲に満ちている。故に必要なのだ。非業を押し付けられても失わぬ信念が」
「みんながいる世界を守りたいじゃダメなのかよ」面倒そうに言った。「正直、コクライの言うことは馬鹿げているというか難しいというか。ともかく、よくわからない」
「わかる。俺もよくわからない」
ダイライが深く頷いた。
「そうかな?僕はなんとなくそうかもって思うけど」
ダイライと祈りは焚き火に振り返り座る。遅れて朔も悩ましい声を閉じた口から漏らしながら座った。コクライは微笑みお猪口の酒をぐいっと呑み干す。
「祈りは何が一番大切なの」
朔を間に挟み座っている祈りにダイライが言った。
「多分になるけど」朔の顔が祈りに向く。朔の瞳に映る星々を一瞥した祈りは空を見上げる。「僕はみんなが生きる世界が一番好きだよ。いろんな動植物がいて壮大な景色があっていろんなもの達と分かり合える。まぁ、体感的には半分くらいのものたちとしか分かり合えないけど」祈りが苦笑する。「僕が何よりも好きな理由はきっと朔と同じだと思うよ」
「俺と?」
「君のおかげで星を見たくなるようになった。だから、きっと同じだよ。多分ダイライも同じだと思うよ」
「別に俺は星を見てみたいと思ったことはない」
「だけど、星の位置がわかるようになったでしょ」
「もう一年間も一緒にいれば流石に覚える」
「ははは。確かにそうだね」
朔がダイライに顔を向ける。
「おかげで森で迷わなくなっただろ」
「そもそも目的を持って歩いたことがない」
「––––––––––––––––」
「––––––––」
記憶の星を見た祈りが視線を空から地上に向ける。彼らの耳元を過ぎた寒声は物寂しい雪原を過ぎ冬木立を抜ける。まだ冬は長い。美しいだけではこの世は終わってくれない。彼は自身の胸元に手をそっと置く。心音がある。鼓動が刻まれる度に血管が伸縮している。風に触れた肌は寒いが内側はとても暖かい。
 死んだら全てがなくなるのか。
「なにか言ったか」
話していた二人が祈りを見ている。祈りは「寒いって言っただけ」と微笑んで言った。朔が立ち上がり酔い潰れたコクライを見下げると今日はもう帰るかと言った。
「たたないの」
祈りも立ち上がりダイライに声をかける。彼は祈りの顔を見ず寝転がっているコクライを見ている。
「後でいく」
「じゃあ先に行っているね」
ダイライの視界の隅に見える祈りの足が消える。暫時も経たないうちにダイライはすぐに祈りを呼び止めようと声を出した。しかし、返事はなかった。謂れのない焦燥感に襲われ動転した瞳が動き回る。一秒か二秒くらいしか経過してないが彼はそれが数分にも感じ躍起になって探す。喪失感が募り彼はすぐさま立ち上がりひくつく瞼で雪原を見渡す。
「––––––––––––––––––––––––––––––いた。」
彼は忘れていた息を吸い始める。その始めの一呼吸はとても長かった。それに比例し吐息も等しくそうだった。視界の先にいる祈りはただ真っ直ぐ歩いている。二度目の息を吸うと乾燥した喉に唾液が絡み咳こんでしまう。断続して吐き出される白い息は乾燥する冬の空気の中に消えていく。手を膝につけ息苦しい中でも彼は顔をずっと上げ遠ざかっていく朔の隣を歩く祈りを見つめている。
「時間はない。行くのなら早く行ったほうが良い」
仰向けのコクライが言った。彼が酔い潰れるまで呑んだのは二回しか見たことがない。
「別に次もある」
「いや、これがきっとさいごになる」酒焼けした声が寒天に向かっている。祈りと朔はもう針のようにしか見えない。「一ヶ月後には抵抗軍と雷神軍の間で大規模な衝突が起こる。明日になれば我の口からでなくとも奴らも聞くことになるだろう」
「けどそれがなんの関係があるの」
「朔はそれを許容しない。そして我は奴の考えを否定する。今の奴では我が理想に比肩することなど到底できぬ」
雪が降り始める。一粒一粒が羽毛のようにゆったりと落ちている。消失した彼らの足跡にそれは少しずつ重なっていく。朝日を迎える頃には気がつく頃にはもうそれは無くなっているだろう。焚き火が陰りのある炎を垣間見せる。薪を焚べなければ炎ですらも静かな雪に消されてしまう。豪雪になれば足跡も炎も間もなくなる。ダイライが雪に抗い揺らめく炎を見つめる。
「朔がどこかに行くかもしれないの」
「––––––––––そうだ。奴は奴の理想のために動く。我は我の理想のために動く」
「けど、朔の理想が物の怪たちと人間たちの共存なら対立する意味がない」
「我は夢想に付き合う気はない」
「わからない。目的が一緒なら協力し合えばいい。そうしたらみんな一緒にいれる」
「そうだ。そうであれば我もどれほど嬉しかったことか」
「なら––––––––」
「できぬのだ」コクライの重苦しい声が鼓膜を揺らす。「我は生きねばならんのだ。そしてあやつも生きるに足る信念がある。どちらかがどちらかの理想を背負えぬ限り我らは止まってはならぬ」
「そんなのわからない。–––––––––俺だけだったの。この時間が好きだったのは。これがずっと続けばいいと思っていたのは。そんなに大切なの。理想かと信念とかそんなあるかわからないものの方が」
寒天を見上げるコクライの目には月が隠れてしまうほどの雪が映っている。彼は星に微塵も興味がない。空を見上げるより食べることを好み酒を呑むことを好み何より語らうのを好む。手に届かないものよりあるものの方が遥かに面白いに決まっているからだ。
 せめて北極星くらい覚えとかないと磁場の強いところで迷うぞ
これはコクライと朔とのいつかした会話。
 我は迷いはせぬ。我が覇道に抜かりなしだ。
 時々思うけどコクライってあれだよな。
 そうであろう。恥じずとも言えばいい。我は天才であるからな。
 はは。今から言うぞー。
雪のせいで北極星が見えない。いや、そもそも彼は北極星の位置を覚えていなかった。だが彼はこの日を境に多くの星を見た。朔と戦い封印されるその日まで見続け。そして、さいごに北極星をようやく知った。
「我より偉大な理想を描いてみよ。さすれば我はその理想の臣下となろう」
「––––––––––––––––––––––––––––––。」
「––––––––––––––––––––––––––」
「––––––––––––––––。」
雪が降る。しんしんと白い大地に積み重なっていく。
「––––––––––––」
「–––––––––––––––祈りも選ぶの」
「–––––––––––––––」
「––––––––––––––––––––––––俺はみんなと一緒にいたいだけなのに」
ダイライは一時は朔と行動する。しかし、今の世界を守るためには祈りの命が必要であると知った後、彼は朔と対立する道を選ぶ。即ちそれは今の世界を壊すことを意味する。









 「昔、外区の外から依頼を受けた時っすけど」ペンシルビルの隣の建物の屋上には八つの環状の鉄の塊が等間隔でたてられている。片方の側面は鉄板に覆われおりもう片方の側面は車のホイールのようなものが埋まっている。両面を繋ぐ円状の細長い面は四角い穴が点在している。「古いデパートの屋上にミュージックサイレンって言われるものがあったっす。第二次世界大戦で敗戦した日本の街はどこも空爆にやられ瓦礫と死体しかなかったらしいっす。そこで地方政府か一個人かは知りませんが多くものを失ったみんなを癒すためにミュージックサイレンを取り付けたらしいっす。それのお陰かはわからないっすけど見事日本は復興を果たしたっす。まぁ、平成以降は無能な二世や三世政治家たちのせいで碌なことができてないっすけど」
「ねーさん、ほんっとうにその時代の為政者を嫌ってるっすね」
膝を曲げているニコラは月明かりを頼りミュージックサイレンをつぶさに観察している。
「外国人としても日本人としても嫌いになって当然」腕を組みふんぞり返る。「時代の流れに則した政策を練らず先代の偉業をただ食い潰すだけの集団でしたから」
「あとは動作確認だけっす」
ニコラは機械を愛でるように優しく触りながら立ち上がる。
「あとはどうやって綺麗な音域と音程を造るかかぁ」深いため息をつくホルストの隣で首を曲げているダイライがニコラと機械を瞳に写している。ホルストは初感では意識が判然としない瞳だと思った。「–––––––––––––––––」ホルストはどこかを映す瞳を見る。「私は争いが嫌いっす。どんな理由があってもそれは相手を傷つけ搾取する行為だと思うっす。そういった強い人たちの行為の連続でできたのがこのガイクでもあるっす。お金を稼ぐ手段がないから罪を重ねその罪がガイコクジンという蔑称をよぶ。貧困を知らない人たちはそういった経緯も知らなければそういう風潮がまた私たちに生きる居場所をなくさせる要因になることを知らないっす。盗むや簒奪を肯定することはないっす。決して。だけど道徳に反しなければ生きれない状況ではそんな綺麗事は通じないっす」
「–––––––だから争うのは当然なの」
「だから私はそんな世界を壊すっす」ダイライの顔がホルストに向く。その言葉に反して声は陰気を含まない朗らかなものだった。瞳が合わさると彼女は瞳を一瞬だけ見開く。そして、瞼から力を抜き瞳を細くする。彼女は夜空を見上げた。その一連の動作はまるでため息のようだった。「私の理念を押し付けず誰もがそれを望み誰もがそれを自身の理念と思えるようにするっす。そのために私は少しでも多くの人が変わると信じて平和の音を鳴らしたいっす」
「そんなの変わらないと思う」
「わかってるっす。だけど、なにも変わらないからって立ち止まっても何も変わらないっす。だから足掻くしかないじゃないっすか」
「––––––––––––––」星を見るホルストの瞳は麗かだ。彼はその瞳を知っている。彼はその瞳が儚いものだと知った。「時間が経てば………………その想いは消える」
「……かも知れないっす。でも、きっと自分が最初に願った想いは変わらずにあり続けると思うっす」ホルストの瞳がダイライに重なる。「だって……」はにかむように微笑んだ。「自分がこの世界に感じた記憶や想いは決して無くならないっすから」
その瞳には一言では言い切れない様々な様相がある。悲壮や嬉々では決して分類できない混沌がある。
 なればこそだ。なればこそ生きねばならん。我が友よ。
「………」
彼は深く瞳を閉じた。そして震える唇を固く閉ざした。蘇るのは彼の旅の道。何かを求めて彷徨い続けた。行く先々であったいろんなものたちから様々な想いを聞いた。暖かかった。悲愴があった。楽しかったこともある。傷つけたこともある。瞼の外側がほのかに暖かくなる。焚き火に撫でられるかのような人肌の温かさだ。
 生きるってなに。理想ってなに。大切なものを失ってまでもそれは果たすべきなの。
「さく……………」唇が微かに動き声が漏れるように出た。「教えてよ。それは俺たちを裏切ってまでやるべきことだったの」
なくならない記憶が彼の心の穴をより際立たせる。彼は敗北した日からずっと欠けている。封印から解け連綿と思い出される記憶は彼の心に絶えず負担をかけ容易くヒビをいれた。彼は顔を上げ果てしない闇が広がる地上を見る。遠くの街には永遠に消えない光があるが外区では光が閃光のように通り過ぎる。
 朔が守りたかったのは祈りがいる世界じゃなかったの。君は知っているの。この世界がこんなに歪んでいることを。
彼は心の中で何度も星を見ることを願いながら未だに星を見てない。記憶が蘇る度に胸底が欠けていく。それはまるで世界そのものが彼に牙を剥くように。











 敗戦した私はコクライに教えられていた信用を置ける人物の元に命からがら辿り着いた。ガイクがその場所で信用を置ける人物とは人間であるあの医者だった。こんな街にいるくせにあの医者は名医だった。多くの仲間に犠牲を強いた私は皮肉にも助かった。それも私たちの同胞を殺した人間に助けられる雪辱を受けてだ。
 仲間の凄愴な叫びが聞こえる。残った彼らの声にならない喉からの叫びが聞こる。私を殺したい同胞の憤然の声が聞こえる。足元から彼らのすがりよる手が生え出て私にそれらを聞かせるのだ。眠たくなり寝た夜は存在しない。眠れない夜を何度も過ごして体が疲弊に屈したときにようやく私は寝ることができる。私は死ぬように意識を失う間際で毎度願ってしまう。このまま死ねれば楽なのにと。だが、そうして眠りついた数時間後にはいつも彼らの声で起こされる。激しく荒れる自身の息に起こされ動乱するまま上体を飛び上げる。瞳孔が溢れそうになるほど開いた目は何も見えてない。その証拠に頬からこぼれ落ちた汗が手や服を濡らすと血だと毎度すぐに思う。





 「隣に来て欲しいな」
ブルーシートに座っているステーラが後ろにいる私に振り向いていった。私は彼女が考えていることがわからない。彼女は私がこの世界を壊そうとしているとわかっている。なのに彼女はそれを気にしない。
「私はここでいい」
私は好きでもない遠くにある明るい高層ビルを目を細め見ている。
「いやですか」
気の弱い細い声で言った。その繊細な声に私は何度も気を揉んだ。静かな夜は余計なものが聞こえない。だから最後に聞こえた音が執拗に残響し続ける。視線を彼女に向ける。苦手な瞳が私を見ている。
「––––––––––––観測の邪魔をしたくないだけだ」
「観測は終わったよ。だから隣で話したい」
「–––––––––––」
「やっぱり私が隣に行く」
「いや………」私の視線はまた適当な場所に向く。今度はあいつがいる場所に瞳が動いた。不幸にも薄闇ではあいつの顔が見えてしまう。「––––––––––」
「何かあったの」
月夜の明るさは瞳には毒だ。粒子状の水銀が知らず知らずに瞳を覆い痛めさせているように思える。ブルーシートが床と擦れる音が聞こえた。私は手を前に出して彼女の動きを制する。そして瞳を閉じ彼女の元に歩き出す。
「何もない」
「––––––––」視線を感じる。息を短く吸いぎこちなく息を吐き出す音が聞こえる。「………」
私は顔をうつ伏せブルーシートの縁に置かれた変色した青い靴を見る。何度も布が切れてそれを縫合した跡がある。その靴を初めて見てから二年近くになる。そう––––––たった二年しか経ってない。私の人生に比べれば取るに足らない時間でしかない。
「靴はもうサイズが合うようになったか」
彼女の靴の隣に私の大きな靴が並ぶ。距離を開け座る。足元のブルーシートは無機質な青だ。月気に照らされているが風情のかけらもない。
「うん。少しだけ大きいけど」
「そうか………」
「うん…………」
「……………」
「………………」
「…………………………」
何もかも変わり過ぎた。戦いに負けるとは思いもしなかった。侮蔑を含まず人間と会話するなど到底考えられなかった。今だに変わらないことは星を見るのが嫌いなことだけだ。しかし今はそれの根底にある理由が変わった。
「––––––––––––––今日みたいな満月の光が強い日は天体観測が向いてないの」明るい声で言った。「だけど私こんな夜も好きなの。ほら見て」私と彼女の間に開けたノートを置く。ブルーシートに向けている顔をノートに向ける。月映えする白いノートは事細かな星図が書かれてある。「ノートが月のように白く輝いているでしょ。まるで月に書いているようで幻想的で好きなの」
彼女は本の近くに置いた片手の指先で本の縁を愛おしそうに撫でている。顔を見なくてもどんな表情をしているかわかる。だから私は顔を上げない。しかし彼女の僅かな仕草でそれは伝わる。私は瞳を閉じる。ノートを捲れない穏やかな涼風が吹く。
「天体観測に向かなければ迷惑でしかないだろう」
「また違った夜になるだけだよ。今日はいつもより早く終わって夜空をぼんやりと見られる。初めて夜空を見た時と同じで何も考えずただ綺麗だなって思える」
「–––––––––」
「……今日はどうしたの。昼から先生と手術室に行った時からおかしいよ」
「……………………………」
「–––––––––––」
「………………何でもない」
「…………」いつもより長い吐息が聞こえる。「–––––––次はいつここを離れるの」
彼女はまた私が困ることを聞いてくる。次に私がここを離れる時は現行の世界を崩壊させることを意味する。現世と下津国が交わればどこにでも死霊が浮遊するこの外区がどうなるかなど考えるまでもない。彼女を含みどれだけの人間が死ぬか想像できない。だが、彼女たちはここを離れることができない。人間社会が生み出した偏見や不平等や正義感などによって排他された人間がここから出て生きる場所など存在しない。
「………冬にはたつつもりだ」
口が重い。水が肺に入るように息を吸う度に激痛が走る。
「半年しかいないんだ。もっといてくれると思っていた」
「私がいてもいなくても変わることなどない」
「そんな悲しいこと言わないで。私はワクイと会えてよかったって思っているのに」
「…………………………」心地良い風が苦しい。何も思えなかった世界に今では様々な感情を持つようになった。何も知らないままであれば自分の行いに何も思わなかった。「…………………………私はお前に会わなければ––––––––––。」
「私はあなたに会えてよかった。だからもう一度……」横から聞こえていた声が空から聞こえる。彼女はまたあいつらのようにこの複雑な世界に魅入られている。「もう一度、空を見られた。だから私は–––––––––」再び横から彼女の声が聞こえた。勇ましい声だったが次第に勢いをなくし凪いだ風に負けるほどの声量になった。「…………私は」
私は夜空を見られない。瞳を閉じて歩くあの女と恐らく理由は違う。ダイライのように自分の心の在り方が分からずにそう思っているわけでもない。私は自分のことを誰よりも知っている。蒙昧な理想を疎み。奪うことしかできない人間を侮蔑する。だからこそ私はあのガキが掲げた共生という無知な夢を見下した。だからこそ私は人間に破壊されるこの世界がとても憎く思えた。
「––––私は空を見られない」
「それでも私はワクイが………ワクイがいつかこの空を見て案外この世界が悪くないって思って欲しい」
「………………………………………そうか」
「うん」
風が止まった。私は瞳を開ける。建物の形をした赤褐色の鉄骨が意味もなく並び立っている。いつか崩れ落ちるだろうと思っていたそれはずっと残っている。いつからか。私はそれが自分の意思で朽ちることができないからあり続けていると思うようになった。
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