二節 遠い光 四

文字数 6,077文字

 午後四時になった太陽の照り具合は依然として強いままだ。夕焼けになる素振りがなく淡々と世界を照らしている。屋上にいるリチャードは高架水槽を支える架台の影に椅子を置き座っている。目の前には大きいビニールプールを二つも用意した子供たちが入っている。ゴミ山で見つけたそれらをニコラたちに教えてもらって修復したらしい。リチャードの近くには空気を入れるための機械がある。リチャードはそれを見ながらあの姉弟には頭が上がらないなと思う。リチャードの足元にボールが転がる。
「ちょっと、シャポンジ。顔面はなしって言ったでしょ!」
シガルの大声が聞こえた。シガルがシャンポに近づき拳をつくる。
「お前が鈍いからいけないんだろ。悔しかった当ててみろよ」
シャポンは両親指を鼻に入れて露骨に挑発している。
「殺す!」
「はぁ?お前、やめ………」
近づいたシガルがシャンポの腹部を連続で殴り最後に股間を蹴った。シャンポの悲鳴が犬の遠吠えのように晴天の空に響いていく。倒れた少年は涙を流し股間を押さえながら横に倒れプールから出た。唇の周囲に皺を寄せ両手で股間を押さえうずくまる。そして足を海老のように動かしている。シガルはそれをみて大声で笑う。
「肉体労働が終わった後によく動けるわ」
一方違うビニールプールに入る蝉とシミモクは静かな時間を過ごしていた。二人は全身を水に浸けビニールプールの膨らでいる壁を枕がわりにして仰向けに寝転がっている。日傘をパラソル代わりに立てかけ影の中にいるため眩しく思うことなく快適な時間を過ごしている。
「あの子も来ればよかったのに」
「きっと疲れているのよ。私もここに初めて来たときはすごく疲れていたから」
「明日なんて声を掛ければいいかな」
「おはよう。ご飯食べるが鉄板ね」
「本当にそれでいいの」
蝉が横を向き隣にいるシミモクを見る。シミモクも顔を横に向け蝉の顔を見る。二人の距離は互いの肩が触れられるほどに近い。
「ならシミモクはおはよう。本を食べるがいいと思うの」
「それいいかも」
「本当に?」
「うん」
「あなたってほんと………」
苦笑に似た笑顔になる。水面の揺れは彼女たちの笑顔に共振している。穏やかな波の揺れは透き通った水の底に淡い影をつくる。リチャードが足元に来たボールを腰を曲げて取り近づいていきたスクーンに投げる。
「ありがとう」
「あいつらに平和的な話し合いを教えてくれないか」
「あいつらはそのままの方が面白い」
スクーンが仄かに微笑む。リチャードは手を額に当て皺をつくる。
「今日はビールを飲まなくていいのか」
「あぁ、今日はそういう気分じゃないんだ。また今度にするよ」
スクーンは少し離れて立っている白輝を一瞥する。架台の交錯する影で顔をうつ伏せ瞳を閉じひっそりと佇んでいる。スクーンは軽く会釈するとプールを占拠するシガルの元に行った。
「–––––––––––––––––」
「すまない。話を続ける。昨日、お前さんから聞いた話でワクイはダイライの救出作戦で使った物の怪を思い出したらしい。人の屍に憑依した悪霊の類だと思っていたらしいが–––––」
「過程はいい」
「………」リチャードは息を吸い吐き出す。「ともかく、ワクイがお前たちと別行動をとっている間に彼が使っていた個体に類似点が多くあるご遺体を持ってきた」リチャードは手を額から離す。背中を背もたれにつけ静かに話し出す。視線の先には思い思いにくつろぐ子供達の姿がある。「通常個体––––––。俺たちが知っている食人鬼は多くの場合は実体を持てない悪霊が人の屍に集まりそれらが複合することにより肉体と関連づけられるまでの魂になる。ほとんどの場合は悪霊がご遺体に寄生しても魂を形成するまでの量は集まらず消失する。他にも多少なり異なる理屈はあるが往々にして時間がかかる点は共通している。だから食人鬼になる頃には必然的に肉体は腐っている。しかし問題はない。なぜなら彼らは肉体を使い生きているのではなく魂が核となり動いているからだ。だから人や獣を襲うのは霊魂を喰らい不安定な魂を安定させるためだ。故に前提として肉体的欲求を満たす行為はしなくていい。次に論題となる今回の個体についての話になる。ご遺体の状態は通常の食人鬼と違いまだ体の構造………特に比べられる犬歯、瞳、爪、四肢の構造が獣と人間の間の状態でとどまっていた。決定的な違いは肉体が確かに活動していたことだ」
「だが、私が街で見たワクイが連れていた個体は腐乱臭がした」
「ワクイの話によれば出会ったばかりのときはまだ肉体は腐ってなかったらしい。加えてある程度の意思疎通ができたらしい。知能はだいたい二から五歳程度だったらしい。そこから意識がなくなるにつれ肉も徐々に腐っていきやがて一般的な食人鬼になったらしい」
「………………それで分かったことは一般的な食人鬼と違う個体がこの街には多くいてそいつらをワクイと同じように操っている奴らがいるか」
太陽が遥か遠くにある外区の外側にある高層ビル群に近づいている。あと一時間過ぎれば太陽は隠され一般区域より早い夕方がくる。この街が暮色に染まることはない。
「そっちはどうだった」
「娼館で目的の女に会った」リチャードの顔がすぐ白輝に向く。額から流れた一滴の汗が眉間に落ち涙丘の近くを過ぎる。だが彼は瞼や瞳を微塵も動かしていない。「あの女はおそらくもう長くない」
「どういうことだ」
白輝に近いリチャードの足が動く。つま先が白輝に向き両肘を膝の手前につけ前のめりになる。
「経緯はわからないが魂が残る肉体に魂を持つ悪霊が住み着いている。ワクイの話を基にすれば女は意識がなくなる過程の中だと推察できる」
「政治家や外区での強姦者の殺人事件はあの子が関わっている可能性が高いのか」
「あの女は食人鬼もどきと娼館の中にいた大人と恐らく子供も殺している。現状は最も可能性が高い」
高層ビルが太陽を奪う。天が青くとも地上に根差す影は深く底がない。空を見上げることをやめた人々の大地に伸びるビルの長い影が地上を覆う。ビニールプールの水面の光は輝きを失い温度を喪失させていく。リチャードは眼鏡を取り白輝に向けていたつま先を元の位置に戻した。眼鏡をかけた人差し指が無気力に下がる。指にかけられたひび割れた眼鏡はとても不安定に揺れいつ落ちてもおかしくない。視力が悪い彼の瞳には影と混じり合う輪郭のない子供達の姿がうつる。
「–––––––––––––––––お前さんはどうしたら罪は償えると思う」
生気のないおぼつかない声だったがその言葉は何故かはっきりとしたものだった。
「––––––––––––––––––––」
「––––––––––––––。」
「–––––––––––––––––––––––––」
「––––––––––………………………依頼は引き続き頼む。だが報酬はもう払おう。シンさんから貰った手記は今晩お前さんが泊まるところに置いてある」
プールから上がったシミモクは両手で二の腕をさすり震えている。その隣にいる蝉はスクーンとシガルにもう冷えるから上がりましょうと言っている。
「先生、明日も使っていい」
蝉が言った。彼は瞳を動かさず「あぁ」と返事をした。彼はそれが償いになると思っていた。だがそんなの気休めにしかならなかった。錆びたドアの擦れる音がずっと悲鳴に聞こえる。雨の中で聞くそれは鼓膜の中に流れ込み消えることなく沈み込んでいく。記憶にある限りその罪は永遠にあり続ける。








 かつてリチャードはチェ・ゲバラに憧れていた。彼が掲げる社会思想ではなく彼自身が持つ世界観や人に対する想いに強く共感していた。だから彼はゲバラと同じく医療大学に進学し旅に出た。諸外国を放浪しゲバラが言う貧富の格差や自由の気風というもの肌で感じた。だからゲバラは社会主義を目指したのかと表層の理解ではなく概念的に深く理解ができた。大学を卒業する一年前、彼の心は医療設備が整ってない貧国にいくことを決意していた。最後の日本になるだろうと思った彼は国内を巡る旅をした。気楽な旅になると思っていたが旅の終わりに訪れた土地はひどいものだった。新聞やニュースではあまり取り沙汰されない外区には想像を遥かに超える貧困があった。同じ日本に住みながら彼は一度も日々の食事に飢えたことはない。また貧者である誰かを見たことはなかった。旅で多くの地域を巡った彼でも外区は異常に思える部分があった。それはそこから一時間も足らないところに飢餓とは無縁の世界があることだ。彼はこの外区でここまで貧富の差が顕在化した光景を目にして体感したことはなかった。
 この地区の惨状に心を痛めた彼は少しでも多くの人を救うために貧民外区で医師としての活動を始めた。患者のほとんどは衛生環境に起因する病が多かった。現代の医療水準であれば取るに足らない病が過半数を占めていた。だが現場はそうではない。常に医薬品はなく運営する資金もほぼない。増えていくのは患者ばかりで完治する者はほとんどいなかった。時間が経てば風邪であろうともやがて重病になり死ぬしかない。彼が開業して半年も経たないうちに患者の死んだ数はもう数えきれなくなっていた。現実は想像よりも悲惨で一人で到底どうにかできるものではなかった。現状の改善が望めずただ救えたはずの命が果てる日々を何百回も繰り返した。そこから時間はそう経たなかった。自身が抱いていた想いを失い自身が外区で治療していく意味すら消失していった。それは次第に患者に対して関心すら薄れさせていった。
 彼がタバコを吸い始めて七年が経過した。ニコラたちに医療器具の修復を頼んだ帰りゴミ山に住む少女を見かけた。当時はニコラたちの店に続く道中にゴミ山を取り囲む家々はなかった。だから歩道沿いにある柵がゴミが車道に出ないように抑えていた。少女は数台のCDデッキと大量に捨てられた教科書をさわっていた。彼はたまたま一面だけなくなっている柵の鉄格子を見かける。それは気まぐれであった。逆さまにして本を持つ少女の元に行き教科書に付属していたCDをデッキに入れ電源を点けた。そして、彼は朦朧とした老人のような足取で名ばかりの病院に帰って行った。
 そこから一周間後にまたニコラたちのところから帰っていた。今度は自分のラジオが壊れたせいだ。タバコをふかし歩いていると以前に自身が点けたラジオから日本語の発音練習が聞こえた。それに重なる不恰好な声も。彼はタバコをふかしながらゴミ山の横を歩く。もうずいぶん、タバコしか口にしてない気がした。
 一ヶ月後。ようやく部品が揃い修復が完了したと連絡がきた。動作の確認のために行ったその帰りに音読をする声が聞こえた。生気のない機械の声ではない。小学校にいる子供のような滑舌が少しあまい少女の声だった。タバコを吸おうとしたがちょうど空になっていた。無性にムカつき舌打ちをして箱を地面に投げ捨てた。外区は変わらないが彼は変わってしまった。

 半年が経った。消毒液がないだけで治療を受けに来た子供が十七人も死んだ。何も変わらない。いつも通りだ。


 一年が経った。ラジオがまた壊れた。ニコラたちには取り替えた方がいいと言われたが修復はできると言われたので直してもらうようにいった。少女の声が聞こえた。硬貨を鳴らし数を数えていた。タバコが吸い終わり道路脇にあるヘドロとゴミが溜まった用水路に投げた。タバコを口に入れライターをつけようとしたが着火時の音が少々うるさいような気がした。だから彼は闇市につながる角を曲がるまでタバコを吸わなかった。
 二ヶ月が経った。病院を訪れる子供の数が激減した。タバコの本数が増えた。一週間後に医療器具を点検しにきたニコラの姉からゴミ山に面白い子供がいると聞いた。その話題に興味はなかった。どうせ半年も経たずに聞くこともなくなると思った。
 一ヶ月がたった。牧師が挨拶に来た。牧師はここの子供たちは思ったより綺麗だと言った。彼は笑いながら大半の奴らがゴミに住んでいるのにかと言った。すると、牧師は雨水を溜め定期的に体を綺麗にしていると言った。彼は患者にそんなことを感じたことはないと断言した。それは憤りを思わせるほどの強い否定だった。牧師があなたは本当に医者なのかと言い残しどこかに行った。彼は机を蹴り倒した。
 二日後に雨が降った。この二日間に大人は来るが子供は来なかった。タバコをふかしライターを振る。オイルはまだあったがもう少しでなくなると思った。傘を持ち雨が降る外に出かけた。闇市を抜け空を隠す背の高い団地が所狭しと立ち並ぶ通りを抜けた。右側に曲がりずっと進むとニコラたちの店がある。彼は車道を挟んだ歩道からゴミ山を見るが今日に限って一段とゴミが積み上がり鉄格子と同じくらいの高さになっていた。彼は何も期待していない。首を伸ばしてゴミ山を見たが山積みになっているゴミのせいで何も見えなかった。足が水たまりに入り弾かれた水面が下腹部のほとんどを濡らした。さらに露先から流れる雨水がタバコに当たり火種が消えるばかりか口からこぼれ落ち雨水とともにゴミが詰まった排水溝に流れていった。
「おじさん、何か探し物でも」
腰の下から声が聞こえた。横に顔を向けると露先の下に少女がいた。彼は水溜まりで立ち止まっていた。
「………………………いや、何も」
「なら、そこで立ち止まって何をしていますか」
少女は錆びまみれの骨組みにゴミ袋を貼った傘を持っていた。彼女が顔を見上げた。銀色の光沢を帯びている黒髪が揺れ前髪が顔にかかった。首を傾げると前髪が横に流れた。探究心が渦巻くうぶな瞳が眼鏡を過ぎ彼の瞳の一面を覆った。
「………………不用意に大人に近づくのは良くない。ここは強いだけの世界だ」
「わかってます。けど、大きな貸りが私にはあります」
「俺は何もやっていない」
水溜りが音を立てた。少女が行く道に立ち塞がると彼はすぐに引き返した。
「覚えてないですか。ラジカセを起動してくれたことを」
少女は足早に歩き始めた。
「知らん」
「私そのお礼が少しでもしたくて」
「人違いだ。それに何も探してない」
「それならそれでいいです。ならせめて手伝わしてください。どうして立ち止まってましたか」
「––––––––––––––」
彼が団地が立ち並ぶ角に曲がった。すると少女の足が止まった。その日の帰路はポケットに入れたタバコが全部濡れていた。久々に嗅ぐ雨の日の外区のにおいは変わらず臭かった。

 一年が経った。ゴミ山から訪れる子供は大人や他の場所にいる子供たちより減少した数字を維持し続けていた。ラジオの修復を頼んだ帰りに二人の少女の声が聞こえた。
「星に名前があるっておかしくない?少しだけ違いはわかるけど、どうせ次の日になったらわかんなくなるじゃん」
「うん。本当そうだよね。いくら本を読んでもわからない」
夕焼けに染まる路上に鉄格子の影と重なる彼女らの影があった。歩道を歩く二人が一つの本を喰いいるように見ていた。彼はそんな光景を一度も見たことがなかった。




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