第一節 複雑な肉体 三

文字数 7,139文字

 上から大きな音が聞こえた。上の階で本がたくさん落ちた音だろう。掛け布団を上げ顔を隠し足を丸めるために動かすと足の親指が何かに当たり床に何かが落ちる振動が体に伝わる。次は戸が滑る音が聞こえた。
「カスペキラはおるか」
野太いやかましい声が家中に何度も反響する。私は掛け布団を勢いよく剥がして瞼を開ける。足が短い机の下から床に転がる数冊の本が見える。一番遠くにある本には大きな影が重なり背表紙の題名が読めない。会話する気が起きない。こんな朝早く一体何のようだ。体が気怠い。最悪だ。
「五月蝿いぞ。お前はもっと声量に気をつけろ」
階段の板が軋む音が聞こえる。空喰が来たらしい。
「我が声はあまねくものに届く王の声だ。生まれながらの我がカリスマ性を抑えることができぬのだ」
「はぁ。まぁいい。要件はなんだ」
「カスペキラに追加の薬を頼みたく来た」
「そんなことのためにわざわざお前が来たのか」
「これは我が軍の根幹に関わることだ。さらにここに至る場所は決して他の物の怪や人間に口外してはならぬと約束したのでな」
両腕の影が動き重なる。きっと前に腕を組んで毅然としているのだろう。八の雷神は災いを起こすとことを嬉々とする非情な集団だと思っていたが少なくても今回降臨した黒雷という神は道義心を持っている。私の口から漏れる溜め息はいつぶりかの酒気を帯びている。気持ち悪くなり思わずえずいてしまう。
「そのようなところにいたのか」
私は口を抑え肘を机にかけ起き上がる。全身の血中に毒が回っているかのように体は重く感覚がどことなく鈍い。頭を少し動かすだけで気が遠くなり吐き気が––––––––––。気持ちわるい。
「急用か」
「どうしたんだ。その顔はまるで茄子のような色ではないか」
黒雷殿が大きな声で笑う。鼓膜が過分にそれを拾い心臓が太鼓のように鼓動を刻む。神経を逆撫でするという言葉は比喩ではなく本当だった。額の周囲の血管が浮き上がり頭痛が酷くなる。私はもうぐったりとなり顔を肘をつけた手で覆い机に張り付かないように努める。
「見ての通りあまり話したくない。要件だけ言ってくれ」
「おぉ。そなたから酒の匂いがするではないか。もしやはめを外しすぎたのか」
「はぁ」
「大将、もうすぐ朔と会う時間じゃありませんか」
一つ目が机に水の入ったコップを置く。水面が揺らぐそれを見ると途端に喉が渇きを覚える。
「なんともう昼になっていたとは」黒雷殿は瞳を丸くして言った。「ここに新たな発注を書いた紙を置いておく。今回の遠征での損害は思いのほか多くてな。我らが元々持っていた備蓄だけでは足らなくなった分が追加になった。いつできるかは明日にでも伝えてくれれば良い」
「現状は足りているのか」
コップを口につけ水を一気に飲んでいく。体内に響く喉を過ぎていく水の音はなんとも言えない満足感がある。
「足りる予想ではあるらしいが早く足すことに越したことはない」
「–––––––ふぅー」コップを置き一つ目に頷く。すると彼はコップをとりすぐに調理場に歩き始めた。「………もっともだ。善処しよう」
「よろしく頼む。ところで、朔のやつはどこにいる」
「あいつなら朝から黒雷の集合場所に行くって言ったきり見ていない」
空喰は百味箪笥を開け薬包紙を取り出している。
「フハハハハ。昨日のことがよほど悔しかったのか」
空喰は床に置かれた注文書を拾い上げ私に近づいていく。
「そう単純だといいがな」
「では我は行く」
黒雷殿は片手を振りながら後ろに振り返り外に出ていった。空喰はそれを見送ると机の上にその紙と薬包紙を置いた。今日は髪を結んでいる。
「あなたたちは気が効くな。特にあなたのような高位な存在が他に対して気遣うなんて正直驚きを隠せない」
「私の場合は人といる時間が長かった時代があるからな。きっとそのせいだろう」私は再び彼女の髪を見る。二日前にされた私の髪型に似て結ぶのに時間がかかりそうな髪だ。「私も驚いたぞ。カスペキラが下戸中の下戸だったとは」
「もう二度と私に酒を持たせるなよ」
「わかっている。少しはすまないと思っているしな」
「水持って来ましたぜ」
「ありがとう」私はコップを受け取り水を口に少し含む。私が薬包紙を開けている間、二人は私の頭上を見ている。漢方を口の中に含み水と共に喉に流し込みコップに余った水をさらに飲む。「どうした」
「洞窟にいるときはその耳が内側にくるまっていた。だが今は力なく倒れているのが気になってな」
「洞窟のときは寒いからくるまっていたと思いますよ」
「私、そんな癖があるのか」
「今度外に出た時に触ればわかると思いますよ」
「……………彼は着込んで外に出たか」
「なんだ急に」
空喰は小首を傾げる。
「水を浴びたら外縁地の駐屯地に行く予定だ。その時に余っている衣服があれば譲ってもらえるか聞こうと思って」
手を膝につき重苦しい足に懸命に力を入れ踏ん張り立つ。息が少し荒れ頭痛がぶり返す。思わず眉間に皺が入ってしまう。身体中から酒の臭いがして気持ちわるい。本当に今日は最悪だ。








時間が少し戻り早朝
 朔は床について眠れていたが一度目が覚めるとそれっきり寝つけなかった。一階に下りた彼は調理場で水を飲もうと思ったが格子戸から漏れる曇天を透かしたような陽光が瞳に止まった。前触れもなくふと川が頭をよぎると清らかな水を飲みたくなった。格子戸を開け外に出る。陽光が山の峰をなぞり始める明るくも暗くもない森は虫の吐息すら聞こえない静寂なものだった。石畳の道から逸れ川に近づいていく。足元は朝露がついた草に触れたため水でも被ったかのように濡れた。そのおかげで足先が氷のように冷たくなるが彼はそのことに気づかなかった。川辺に着いた彼は滔々と流れていく流水を見つめる。愚かなことに本当の川を見るまで喉が渇いてなかったことに気づかなかった。流れに従い顔が下流に向いていく。低きに従う水の先を彼は見る。川の流れる音や水車が延々と回り続ける音。終わりなく終わりなくそれらはまわる。上流を見る。水車が邪魔をして先にある光景はほとんど見えない。歩を進める。脳裏にはよくある身の上話をする一つ目の顔が浮かぶ。耳を丸めたカスペキラが上着を貸そうしてくれたことや芋を美味しそうに頬張る黒雷の顔が浮かぶ。また彼の脳裏には違うことが浮かぶ。同じ身の上話をした人が殺された事実が同じ優しさを持つ人や同じように笑った人が戦いの中で死んだことが。牢獄に囚われた自身を痛めつけている彼らの瞳に映る自分の姿はまさしく彼らそのものだった。何も考えたくなかった。何を考えればいいかわからなかった。だから歩くことを選んだ。顔をうつ伏せ渓流を目指す。下流に行くのはただなんとなく恐ろしく思えた。




 草木に囲まれた狭い川沿いの道を歩く。陽が昇り朝露が気化しても渓流には未だに辿り着けていない。無気力な彼の歩みではその道は遠く果てなく思える。鬱蒼とした木々の中から抜け陽光が直接照らす枯れた平原に出る。ずっと続いていた川は湖になっている。彼は顔を上げ水面に映る青空と山の紅葉を見る。
「この景色を退屈そうに見るとは我に勝つことを諦めたのか」
湖畔に毅然とした黒雷の姿態が映っていた。
「この湖の先に続く川の道を知っているか」
「なるほど。確か下津国にいる時に体技の会得は川、いや、水の流れだったか……。まぁなんでも良い。ともかく、我に勝つために新たな技を会得しようというのか。殊勝な心掛けだがここにいる素晴らしき師に学ぶ方が遥かに良いぞ」朔は対岸にある湖畔から川を見つける。黒雷の前を横切り彼は歩き始めた。無風だが水面に映る彼の姿は揺らいでいる。「ここからは我との訓練だ。それが貴様を自由にした条件であろう」
「訓練してどうなる」
「強くなれる」
「強くなってどうする」
「貴様のしたいように振る舞える。それに強者との熱き戦いもできる。いいことづくめだ」
「力で全ての物事が解決するのか」
黒雷は差している刀を抜き取り投げる。それは朔の進行方向に刺さり彼の足を止めさせた。
「それはその道を極めたものが決めることだ。歩まぬものには生涯かけてもわからぬ」
「ならお前はわかったのかよ」
「我が極めた道を口で説くことはできぬ。故に我は導くことしかできぬ」
背筋から鋭利な刃が空気を切る寒さが疾る。瞬時に刀を取り後ろに振り返る。視界に入った黒雷の瞳は感じた殺気から程遠いものだ。戦うとは到底思えない力のない姿態だ。だが、朔は計り知れないそれらに冷や汗をかく。
「どうして誰も教えてくれないんだ。正義とか悪とか簡単に教えるくせにそれ以外の答えはどうして教えてくれないんだよ」
「始めよう。歩き始めたものよ」
戦力差は歴然である。彼の吐息のみがただ漏れていく。惑う刀はそれでも振るわれ続けた。死にたくないからか。強くなりたいからか。憎いからか。そんなことわかるはずがない。唯一確かだったことは苦悩から逃れたい気持ちだけだった。










 「どうだ。よいものであろう」
「––––––––」
焚き火の近くで座る黒雷は素焼きしている川魚を見ている。朔は黒雷から目を背け焚き火の灯りと夜の暗闇の境界線を見る。彼は全身の筋肉に力がもう入らないので無気力に横たわっている。
「塔子との修行が終わってからこのように魚を焼いたことはなかろう」
「塔子?」朔は黒雷に顔を向ける。「知り合いなのか」
「ワクイの奴が先導してある約束を取りつけたんだ。その時にちとな。我にとっても悪くない話であったのでそれに乗った」
「どんなことを塔子が取りつけた」
「あの女が神としてではなく自分として選んだものだ。故にあまりにも他愛無いことだ」
水面に映る鰯雲の隙間から月が見え隠れする。湖の月から漂う月気はまるで浅い霧のようだ。彼らは赤い炎に照らされながらも青い冷めた月光にも照らされている。彼は串焼きにされた魚を取りかぶりつく。身の油が串を伝い地面に垂れ落ち身の内側から湯気が上がる。炭火された皮の香ばしい匂いと油が広がる。朔は溢れだす唾液を飲んだ。
「うまい。うまいぞ!やはり体を動かした後の飯は格別だ」魚を骨ごと平らげた黒雷が続けて言う。「貴様も早く食べてみろ。これは美味だ」
「いや、俺は––––––––」
腹が高らかに飢えを叫ぶ。一食も食べずに朝からずっと体を動かしていたのだ。無理はなかった。朔が改めて口に出そうとするとまた腹の虫が叫び始めた。
「生きるものの宿命だ。逆らうことはできぬ」
鳴り止まない腹を片手で抑えながら上体を上げ座る。不思議なことに食べ物のために動くとなれば体の倦怠感や筋肉痛は一切感じられなかった。朔は二匹目の魚を美味しそうに頬張る黒雷を見る。
「ありがとう」
言葉を言う寸前に瞳を魚にずらして癪そうに言った。
「見ての通りたくさんある。思う存分食らうが良い」
「いただきます」
素焼きを取った瞬間に朔は食欲が抑え切れなくなり黒雷と同じように豪快に魚にかぶりつく。口内では魚の油にコーティングされた白身がほろほろと解れ唾液と溶け合っていく。飲み込んだ朔はふぅーと満足げな吐息を漏らしてしまう。その気前のいい食いっぷりに黒雷はおおいに喜ぶ。
「この時代に降臨した時にもう海の魚が食えぬと聞いて愕然としたが川の魚だけは食えてよかった」
「そうなのか。川魚が食えるものだから海も食えると思っていたが」
朔はもう二本目を取る。
「お主たちが食べる魚の殆どは人工で育ったものだ。長年人が投棄したプラスチックが微粒子になり大海を覆っているらしい。それをプランクトンが体内に取り込みプランクトンを食べる次の生物がそれをまた含むらしい。その連続で魚が体内にプラスチック–––有害物質を含むわけだ。故に肉体を主とする生物たちにとっては歓迎されたものではなくなった」
「どこからその話を聞いたんだ」
「それは港にいる者たちから聞いた。降臨して最初に海の魚を口にしたったができなかった」朔は五本目を取る。腹がようやく落ち着いてきた。「しかし、我を不憫に思った者が家に招待しご馳走を振る舞ってくれたのだ」黒雷も素焼きを取る。「そこは大家族でな。それはそれで良い時間が過ごせた」
コクライはガサツな笑い声を出す。気持ちのいい顔を前に朔が持つ素焼きが口から遠ざかる。空いていた口が閉じ腕が下がる。
「君たち予定の場所からかなり離れているがどういうことだ」
朔の肩を掴んだカスペキラがふつふつと熱くなる喉を懸命に抑えて言った。不意に現れたカスペキラの態度は朔にかなり切れたフリーダを思い出させる。彼は条件反射で「やばい」と思い咄嗟に顔を伏せる。
「多少場所が変わっただけではないか。そう硬いことを言うではない」
「予定の時刻が大幅に遅れていることをどう説明しますか」
長髪の女が黒雷の肩に手を置く。彼女らはちょうど焚き火が当たらない闇に佇んでいる。彼女らの冷えた手が焚き火で温まっていた彼らの体を急激に冷やしていく。
「君は自分の体がまだ完治してない事を自覚してないのか。朝からどこかに行ったそうじゃないか。それもそのような薄着で。今の時節を着物一枚で乗り切れると思っているか。それに昨日のあれはなんだ。固形物は良くないから消化に良いものを別に作ると言ったのに君ときたら–––––––––––––––––––」
「規則を守らないだけではなく時間すら守らないとなればいよいよ他のものたちに示しがつきません。もっと自覚を持って行動してください。そのような横暴な態度が続くようならあなたを慕うものたちが減少する恐れがあります。あなたのカリスマ性のみが私たちをまとめ上げる要因になっているのです。それに疑いがもたれる事態に陥ればあなたの理想が–––––––––––––––」
彼女らの声が永遠に続く。たまに一呼吸したかと思えば勢いが衰えることなくまた次の言葉が連綿と流れていく。刀を持ち黒雷は立ち上がり後ろにいる女に素焼きを渡す。女はすぐに断ろうとしたが「うまいぞ」とたいそう機嫌よく言われ何となく断り切れずに受け取った。
「我はこれから用事があるのでな。次に会うときは一ヶ月後になろう。その間は剣の指南をできるやつをつかわせる」
「どこに行くんだ」
顔を上げ黒雷を見る。
「来るであろう大きな戦に備え協定を結びに行く」
立ち上がった朔は拳が内側に反り返るほど強く握る。しかし、その力は次第に薄れ瞳が細くなる時には力のないただの拳になった。全てを等しく映す黒雷の曇りない眼が月気に埋もれる何も定められない瞳を冷酷なまでに鮮明に映す。
「………………………。」
「達者でな」
黒雷が背を向け歩き始める。魚を一口食べながら女性もついて行く。
「私たちも帰ろう」
上着をかけているカスペキラの腕が力があった朔の腕にそっと当たる。彼の腕が些か大仰に見えるほどに揺れる。朔は片目で自分が慕う人に似た叱り方をした雷神軍に雇われた物の怪を見る。寒そうに耳を丸め鼻先は腫れ物ができたように赤い。上着をかけた腕の先にある手は水面に映る雲のように白い。
「雷神軍にいる人も物の怪もみんなあんたみたいな感じなのか」
「多くのものは君が一つ目に感じたものと変わらない。同様に私のようなその時の流れにそう主体なき個体もいる。ただそれだけだ」
風が吹き上着が激しく揺れる。綺麗に整われた彼女の髪が少しほつれ睫毛がでる。乾燥した冷徹な風が止水の湖を傷つけていく。炎の輪郭が削れた焚き火は内側から音もなく消えた。肌に感覚はなく瞳すらも何も映さなくなる。ただ闇があり光がない。
「最後の主体なき個体はどういう意味だ」
「みんなが憎いから憎いといい。みんなが戦うのがいいと言うから戦う。みんなが正義というならそれを正義とみなす。それらが起こす悲劇を知りながら無実を気取るか自分はその流れに沿っただけで罪ではないというものがいる。そういったさも自身の意志があるように迎合する責任のないものたちのことだ」
「…………どうしてあなたは自分がそうであると思った」
「………私は罪や痛みを知るのではなく体感しなければその重さを理解できなかった」暗さに慣れた朔の瞳が闇の中で滑らかな月気に照らされたカスペキラの顔を映す。微かに開いた唇の隙間は闇が深く根付いている。「一つ目が君の命を守ってくれなければ、空喰が君を想ってなければ。………私は少年である君が嬲り殺しにされるのを気に留めなかっただろう」
「そんなの当然だ。俺は人間で雷神軍の敵だ。本来あなたが罪を感じる必要はないはずだ」
朔は自分の声をよく聞きながら言った。あたかもその姿は彼女に言うのではなく自分に言っているようだ。カスペキラは腕にかけている服を両手で持ち広げる。そして寒そうな朔の肩にそっとかけた。
「私たちはあらゆるものに意味を付帯させ分類することでそれを理解しようとする。曖昧なままでは正体がわからない不安に襲われてしまうからだ。そして同時にあまりにもこの世界には情報量が多いが故に自分にとって一番わかりやすい言葉で聞き慣れた言葉で理解しようとする。しかしそれは諸刃の剣だ。一つの見方のみに限定させもっと違う意味を–––––––普遍的な本来の本質を見えなくさせる」
「なら俺はあなたにとって一体何に見える」
上着をかけられた体は少しだけ暖かくなった。
「君が私に思う感情と差して変わらないだろう」
カスペキラが歩こうと言った。そして彼女が先導して歩く。道程は行きと同じで川沿いの道を下っていく。彼女たちの道中は水車がある家で止まるが川はさらに低きに降っていく。意識なく流れていく水の集合体が行き着く先は–––––––––––
「雪でも降りそうだな」
十月の終わりなのか十一月の中旬なのか。冬に少し近く冬よりは暖かい気候だった。


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