一節 動く世界

文字数 9,598文字

 物心ついてからずっとやっていた修練が今日終わりを迎える。根雪が大地を隠す上で私は正座している。足先は赤くなり地面に接している足の甲には感覚がない。膝から下はまるで石のように感じられて体の一部である感覚は到底ない。だから、もも裏が冷えた石の上に座っているかのような奇妙な肌触りだけがある。雪のように冷たくなった赤い鼻先から息を吸い吐き出す。吐き出された息に温度があまりないせで白くなることなく乾燥した冷え切った空気の一部になる。瞳を閉じて意識の底にある阿頼耶識に触れろ。とお師匠がいつもいっているけどさっぱりなんのことかわからない。現に瞳を閉じてわかることは音が一つもない寂しい雪景色があるだけ。あぁ、あと今は異様に冷たいからきっと太陽が雲に隠されていることくらい。まだ周りの景色が見られるなら銀世界を楽しめただろうに。
「出来損ない。もういい」
「はい」
私は瞳を開けて樹氷の前で本を読むお師匠を見る。お師匠はいつも私の顔を見ない。私がのぞく彼の瞳はいつも侮蔑するようでいてまた凄然としている。
「これで最後になる」
「はい。今までありがとうございました」
師匠は私のことが嫌いだと思う。五歳から今日に至る十一歳までの期間の間で稽古と座学のとき以外に話したことは一度もない。私は深く頭を下げる。互いに想い耽ることが何もなくても儀礼は大切だ。代々の家同士のしきたりで互いの意思なく決まった関係だけど師匠は仕事を全うした。なら教えてもらった側である私が謝辞を述べなくていい理由はない。
「お前は」声を聞くと心臓がびくりと一回の鼓動で多量の血流を全身に流し込みその衝撃で腰から頭が上がった。私はびっくりして顔を上げたのだ。「自分の役割を理解しているか」
「あ、えっと–––––––––」修練を終えた後に話されたことがあまりにも予想外すぎて頭がうまくまとまらない。「その––––––。あ、そうだ。屋敷で暮らす神様の世話役と監視です」
「お前は気持ちに愚直すぎる。この六年間でお前の心が常に浮ついているのは明白だ」
「申し訳ございません」
本を閉じる音が蕭条とした銀世界に響く。紙が重なっただけの音なのに師匠の手元から放たれた音は厳かで威圧的だ。それに恐ろしいことに彼が瞳を私に合わした。見慣れた瞳だけど正面から彼が私を意識して見る瞳は甚だ違う。畏怖を抱いた私は瞳を足元に向けるしかない。
「与えられた責務だけ考えろ。いいか。これは警告だ」
「はい」
こちらを向いていた足が踵を見せる。積もった雪が沈む音が聞こえる。もういないとわかっていながらも顔が上がらない。
 私は単純に師匠が私を信用してないから圧をかけて責務から逃れられないようにしたと思っていた。師匠がどこまで神様に会った後の私の心境の変化に気づいていたのかはわからない。だけど、私が裏切ることを予見していたのは確かなことだった。






三ヶ月後

 四脚門の前に立つ少女は息を呑んで青ざめた顔で切妻屋根を見る。本瓦葺きの品のある厳かな黒が彼女に緊張感を与える。切妻屋根の影に隠れてそびえる泰然とした門はとても威圧的で身長が低い彼女にとっては大きな虎の口内に入るかのような気分だ。閂で閉ざされた門の横にある脇戸を少し押すと木が擦れる音ともに扉が開く。少女は胸元まで上げた両手を固く閉ざして脇を胴体にくっつけて身を小さくしている。後方を振り向き木々が茂る一本の道を見る。今日がいつか来ると思っていたがこんなに簡単に訪れるものだとは思いもしなかった。この屋敷に一歩でも足を踏み入れれば彼女はほぼ人に会うことがなくなり屋敷の外に出ることすらなくなる。
 それにこの屋敷には神様がいる
成人男性の身長を優に超える土壁や分厚い門は紛れもなく巨大な牢獄でしかない。この日が来てしまったからにはもう変えることができない。少女は足をゆっくり上げ震えるつま先でゆっくり敷地内に足を踏み入れる。逃げ出したい思いはあったがこのためだけに育てられたこともわかっていた。逃げ道は存在しない。





 長い長い長い縁側を歩く。屋敷の中は門と打って変わりとっつき難い雰囲気はなくただの大きな家といった感じだった。今歩いている縁側は光陰が目立つ造りとなっている。縁側は完全に影に隠され庭には光が差し込んでいる。土壁の近くには雑草が生えた大きな枯山水がある。それは光を反射させ本物の水面のように輝いている。通常ならそれを見ながら歩けただろうが彼女は極度に緊張して歩いている。縁側の角に一歩一歩近づけば近づくほど歩幅は狭くなり脹脛が固くなり腿が重くなる。吐き気がないのにまるで嘔吐をするかのように胃から食道にかけて空気が押し上がり口内から出て行く。その度に彼女は片手で唇を隠して苦しそうにその空気を吐き出している。大人たちが畏れている神が角を曲がった先にいる。自分はこれからその神様に会い、これから一緒に過ごすことになる。気が重いどころの話ではない。曲がり角についた彼女は手を壁に置き手に口を添える。体は自然と前屈みになり膝も曲がる。肺に溜まる空気を全て吐き出して拳を作り腰が反れるほどに頭を真上に上げて息を吸う。気持ちはできてないが無理矢理に伸ばした背筋がまた折れ曲がらないうちに彼女は歩き出す。角を曲がると陽光に照らされた縁側の廊下が近くにある満開の桜の木を映し出している。障子の中浅あたりには水面のようにたゆたう淡い光の線がある。縁側の中央に繋がる踊り場に目を向けると柱を背もたれにして片足を立て欄干に座る女性がいた。光を一身に受ける金色の髪は陽光と溶け合い菜の花色になっている。緩んだ襟元を一縷の髪がなぞり落ちる。丸みを帯びた艶美な鎖骨から溝の深い谷間に毛先が入る。均整が取れた姿体を持つ女性は妖艶を思わせながら魅惑的ではない。それを見ていた少女はさながら麗しい仏像を見ている気分に近い。彼女は違う意味で近づくのがおこがましいと感じた。
「お初にお目にかかります。わたくしは橘 川海(せんか)と申します。先代の橘 小河に代わりこの屋敷に勤めさせていただきます」
––––––––––––––––––––––––––
––––––––––––––––––––––––––
返事はなかった。川海は辞儀をした頭を上げて返事をしない神をもう一度見る。大禍津日神が目の前にいる。言伝と字面では大変悍ましい印象を受ける不浄の神だ。まさかその神が人の形をしていると誰が思えるだろうか。その神が彼らが思う完美な神と何一つ変わらないと誰が信じるだろうか。川海は想像だにしない事実に言葉を失い見ることしかできない。そうすることでしか現場をゆっくりと呑み込めなかった。
 一片の桜が風と戯れながらひらひらと落ちていく。太陽を透かせて落ちるそれは淡い薄紅色となっている。桜の木の根元に点在する背の低い植物たちは樹冠の縫い目から差し込む陽光と花弁を透かした鱗状の光に照らされている。枝が落とす放射状の細長い影や幹の太い影がそれらの光の明度を抑えているおかげで華美にならず風情があるものとなっている。微動もしない彼女が見つめる先に視線を移す。並木道が少し続いた先に環状の湖が見えた。見晴らしはとても良く一目で湖の全容が掴める。凄清とした風が肌に触れると一瞬だけ水光が煌めく。それがあまりにも眩しくて川海は顔を後ろに向けて瞼を閉じてしまう。顔を伏せ瞼をゆっくり開けて瞬きをする。障子に顔を向けていた川海は中浅に映し出される光の波に気づくと自分の胸元にも映るそれを手でなぞり楽しそうに微笑んだ。ひとしきりそれをやり満足した川海は再び顔を彼女に向ける。明るい光ばかりを目にしていたせいなのか踊り場の中がとても暗く思える。物寂しい思いをした川海はそれを埋め合わせるように太陽が当たる外の景色を眺める。
 太陽を遮る屋根の下で彼女たちは明るい景色を見つめる。川海はこの意味をこれから理解する。外を見続ける女性はその意味をこの屋敷で生活した時から気づいている。









一ヶ月後
 ツバメが囀るころに川海の朝は始まる。中廊下に繋がる小さい窓しかない部屋ではあまり採光がないため暗闇が覆っている。外廊下に出なければ昼夜がわかり難いが体が規則正しい時間を覚えている。大きなあくびをして枕元にある紐を手に取り両手をできるだけ上に伸ばして勢いよく上体を上げる。腹筋に力が入りふっと息が口から抜ける。頭は醒めないが動かなければ寝てしまうことが明白なので意地でも立ち上がる。紐を左肩に垂らし背中から右脇に回して紐を前に出して振袖を斜めにし背中に張り付いている紐に引っ掛ける。そして右肩の上に紐を回して今度は左の脇下から紐を出す。背中では紐がばつ印に交わっている。同じ容量で左の振袖も紐に引っ掛けて左肩で紐の端と端を重ねて蝶々結びにする。たすき掛けを終えると彼女の長い一日が始まる。
 陽が完全に登るまで中廊下の清掃は暗くてできないので縁側から掃除を始める。山に囲まれたこの土地の朝は淡墨のようなまた燻んだ淡い天色のような暗さが漂っている。彼女はそんな何と言えない明るさの外に出て井戸に水をくみにいく。鶴瓶を落とす。少し立てば木が水面に弾かれる音が底から響いてくる。川海は両手を擦り合わせた後に「よし」と自分を鼓舞する言葉を放ち右足を前にして左足を後ろにして体を大きく後ろに反らし滑車にかけられた紐を引っ張る。張った紐が川海を井戸に引っ張るが負けじと足を後ろに運び鶴瓶を懸命に上げる。息が荒れ始める頃にやっとの思いで鶴瓶が井戸から顔を見せる。
 水が入った桶を両手で持ち片足を引っ張りながら縁側に持っていく。歩くたびに水面はたぷたぷと揺れ時折、雫が廊下に零れ落ちる。しかし進むことに一生懸命な彼女が気づくことはない。縁側の角に着くとそれをおろして中に入った雑巾を手に取る。とても冷えた水がここに至る道中で体を熱くさせた彼女を少しでも冷ましてくれる。それを絞り雑巾掛けを始める。屋敷の中は使う用途がないのに無駄に広い。朝食を作る前までの時間を全て費やしてようやく全ての縁側の掃除が終える。その間、彼女に休む暇は一つもなくひたすら長い縁側の一辺を行ったり来たりする。その一辺が終わると桶の横に置いた竹筒を取り胸と肩を大きく上下させ息を吸う口内に水を流し込む。水が体を潤わせて汗に水分を取られて乾燥した体内に新たな活力を与える。息を止めて飲んでいた川海は竹筒を口から離すと爽快な息を吐いて鼻から大きく息を吸う。この時には東の山の峰から出てきた太陽の光が山の斜面をなぞり盆地の中を照らし始めている。塀の上から見える木々の葉が黄緑色になっていく。日の始まりを感じながら彼女は忙しなく次の縁側に移動する。




 今日は川魚がある。–––––––––––––––––––––川魚かぁ。
食料は脇戸の前に置かれている。朝に一回と昼と晩を兼用させた分の計二回で食料が置かれる。野菜や魚が入った竹ざるを持ち上げて台所に向かう。野菜や魚や肉などのほとんどの食材はこの屋敷に住む神様に神饌として山から近い集落の人が送ってくるらしい。私に対するお布施も含まれるから本来は穢れを忌避して口に運んではいけないけど貰い物なので食べなければならない。今では多くの宗派がお布施であっても宗教的理由で食べられないものは断っているらしいけど奈良時代はどこも私たちのようにもらったものはなんでも食べていたらしい。と言っても私自身、教えが神道なのか仏教なのかは良くわかってないからなんとも言えないけど。だって、お布施は仏語だし神餞なんて明らかに神道の言葉だ。他の門弟––––いるかどうかわからないけど––––に会えればわかったかもしれない。



 朝食を作り終えた私は三方に朝食を乗せて湖が見える踊り場に歩いている。縁側に自分の姿が鏡のように映し出さされるのを見ながら歩くのは達成感があっていい。掃除が終わったと実感できるし後少しでご飯が食べられるとも思える。些細な幸福な時間だ。
「ご飯を持ってきました」
神様?かのじょ?は日のほとんどを踊り場から湖を見て過ごす。最初はそれだけで威厳のあるお姿だと思っていたけど一ヶ月もそうだと流石になれる。高尚なことを考えられておられると思っていたが最近では呆然としているだけではと思い始めている。私は一礼して踊り場に入り音を出さないようにゆっくり正座をする。普通の三方では魚や副菜や主菜などが入りきらないから折敷が大きく作られている。その分、台も大きく作られているおかげで私の手より大きいため持って運ぶことはできず胴を両手で挟み押さえつけて運んでいる。だから、それを床に置くときが一番神経を使う。雑に落としてしまえば汁物が僅かでも折敷に落ちてしまう。置き終えると両手を床につけて頭を深く下げる。そして、立ち上がり縁側の角で正座をして食事を終えるまで待つ。彼女はお決まりの場所から踊り場に置かれた朝食を見る。彼女の瞳は仄かな群青を含んだ宵の色をしている。本物は見たことないけど檳榔地黒はきっとこういう澄んだ綺麗な黒のことだと思う。彼女が正座して箸を手に取る。三方で食事を取る神の姿を眼前でこうして見られることが日常になるなんて思いもしなかった。焼き魚を見た彼女の片眉が浅く内側に沈んだ。無情の顔が初めて見せた動きに私は肝を冷やす。私には思い当たる節がある。一週間前に出した魚の塩焼きがかなりしょっぱかったからだ。それを知ったのは私が同じ食事をした後だ。先に食べられたら失敗した料理を出さずにすむけど食べ物を口に入れた直後に御前に会うことは禁止にされている。
「魚の味付けの確認をしたのか」
私はすぐに頭を深く下げる。大変申し訳ありませんが人と神との会話は固く禁じられています。やっぱりかなり辛かったんですね。本当に申し訳ございません。と心の中で伝わることのない釈明を懸命にする。
「禁則事項に触れていることは自覚している。だが、それはお前たちが想像した神に対しての定義にあって事実は違う」彼女は箸を三方に置き伊万里焼の皿に乗る魚の塩焼きを手に取り観察する。「私はお前が来るまで人間はみんな料理ができるものだと思っていた。日頃から体験することは常識になりがちになるいい例だと思った」三方に皿が置かれる音が聞こえた。「ところで、よく観察する人間は好奇心が強い現れだ。かつて私をお前のようによくみた人間はいない。子供であるが故の好奇心か。それとも畏怖を知らない馬鹿なのか。まぁ、どっちでもいい」彼女は膝を立て手を背中の後ろに置き開放的な体勢になる。「山の麓に住む住人がどうして神道と仏教の区別が曖昧なのか興味がないか。あるなら顔を上げろ」
私がついさっき思ったことだ。心を読まれているのかも。やっぱり神様だからそんなことができるのかな。興味はあるにはあるけど師匠に念を押されたからなぁ。あれがなければ––––。
「多くの人間が神を見たことがないのに神を信じるなんて不思議に思わないか。多くの常識や習慣は実際にどこまでの意味かあるか気になりはしないか。あぁ、それともお前の師匠の話の方が気に–––––––––––––––––––––––––」
気がついたら彼女と視線が合っていた。
「–––––––––––あ、えっとそのその」自分でも訳がわからず手を意味もなく前方に泳がせて顔を真後ろに向ける。焦りで喉が微細に震えている。「今のは無かったことにしてもらえませんか」と無駄に大きな声で言ってしまった。
「どうだ、禁則事項を破ってお前に変化はあるのか」
「今はないかもしれませんが後で起こるかもしれません」
「なら、もう話しても同じだと思わないか」
「そんなこと––––––––––––––––」あ、ほんとだ。
そう思った瞬間に体の力が抜け落ち体が廊下に落ちた。頭部から鈍い音が響いたがそんな痛みよりやってしまった後悔の方が遥かに大きい。
「どうした」
「今、本当に私は役立たずだなって痛感しています」
「確かに歴代の中で一番料理が下手だな」
「味見をせずに料理ができていた歴代の人たちがすごいんです」
「本当なのか」
起き上がった私は訝しい顔でご飯を見つめる彼女が見た。私の気持ちは半ば投げやりだった。一ヶ月間、ずっと気を張っていたせいの反動もあるけど人としか思えない神様を神様として見るのが限界だったからという理由も少なからずあった。
「生き物の死骸を口にすることが死穢に触れることと考えられていまして御前に会う前にそれがあってはならぬと禁則事項の一列に」
「だが料理をしている時点で無意味だろ。触れているのだから」
「厳密には口が元々穢れているとか–––––––ここからは私もよくは。同じことを思いまして読むのを止めました」
「なら今度からは味見した後に料理を出してくれないか」
彼女は顔を上げ私を見つめ言った。
「わかしました」
「思ったより融通がきくな。私が言うのも可笑しな話だがそれでいいのか」
「せっかくの貰い物ですから美味しく食べていただきたいです。それに私が魚なら美味しく食べて欲しいと思います」
「なんだそれは」彼女の頬が緩んだ気がした。少し愉快そうな呆れた声に私はなんだかいい気分になる。誰かとこうやって会話したことは初めてだ。「あぁ、そうだ。お前はどの話が聞きたい」
違和感なく会話が進んでいく。考える前に口が
「山の麓の人たちがどうして神道と仏教を混ぜているかについてです」
動く。萎縮することなく面白いなと思いながら話してしまう。
「そのことか」と彼女は嫌な顔一つせずに頷いた。きっとこういうのが会話が弾むと言うのだろう。心の底がくすぐられるような言い難い楽しさがある。「これはあくまで私の見識だ」と言い口を止める。私が浅く頷くと再び話し始める。「神道とは誰かが教えを唱え始めたからあったわけではない。言うなれば一つの共通認識であったという方が正しい。この土地に住まうお前たちの祖先は動植物に常に囲まれて住んでいた。狩猟を行い自生する植物を餓えなく食べられる豊かな生活があった。だから自然は最大の友であった。だが、同時に氾濫や土砂崩れやまた熊や狼などの人を捕食する生き物の脅威があった。ここで大切なのは多くの人間がどこにいても等しく自然の恩沢に浸りかつ自然に対する畏敬の念があったことだ。そして多くの人が恐ろしくも良き友人である自然を理解するために自然現象の原理に理由をつけ始めた。それが神の始まりだ」
「疑問ばかり出てきますが」私は瞳を閉じて何度も浅く頷いている。「それが混在するきっかけに何の関係が」
「皆が一様に持っている考えは常識であって信仰的な意味合いはない。例を挙げるなら生まれた時から八百万の神がこの世にいると何となく思っていたりお前がさっき言った魚の気持ちの話は本質的には食材に感謝しているからこそ出てくる発言だ。お前は自分のその思考が神道的だと思ったことはないだろ」
「はい。ですが、言われてみれば自身の常識はそれらに当てはまります。それに仏教的な因果応報や輪廻転生なども否定するほど馴染みがないわけではありません」
「神道は上の人間が編纂した信仰の物語だ。しかしながらその理念がこの土地にいるお前たちの気質を概念から文字に落とし込んだものでもある。だからわかりすい神道が人々に伝わった。だが、そこには信仰としての神道と民間人が慕う神道的な考えの間には乖離性があった。大衆がそれを宗教としてではなく常識として認知したため特別なことではなくなる。そんなところに特別なことを謳う考えが入ってくる。端的にいえばその教えは祈りを捧げれば死後の世界で幸福を約束するものであった。そしてそれは拡大解釈され現世でのご利益も約束された」
「ですが祈ること自体は以前からありましたよね」
「今までは神との直接的な対話はできず仲人が必要であった。その点仏教が革新的であったのが修練を受けていない個人が直接神との対話が可能であったことだ。これは祈るという行為が民衆に幅広く伝わる契機になった。その対象は仏のみならず古くから認知されていた神道の神々にまでも広まった。元々、八百万の神がいたおかげで仏も難なく馴染み気がつく頃には祈ることすら何気ない習慣の一部となった。加えて仏教の性質も良かったのだろう。神道の考え方と摩擦を起こさずに理解されやすかったのが二つの境界線を曖昧にさせたかもしれない」
「そうして二つの言葉が混在するようになったと」
「あぁ、だが他の土地は少し違うかもしれない。ともかく、ここの場合は神道の言葉より仏教の言葉の方が民衆が想像しやすいからそう呼ばしてるだけだろう」
「え?そうなんですか」
「お前の師匠は形式より合理性に焦点を置くからな。多分、そうだろう。現に神道の言葉にない言葉や曖昧な定義をなされた言葉が仔細に仏語で説明できるのであれば使っているだろう」
 あ、ほんとだ。そう考えたらうちは純粋な神道というわけじゃなくなるのかな。
「なら、神様のような神様はどうなりますか。さっきの説明だと本当にいると認知されたわけではない神様が多くいることを意味します。神様のような存在はどのように神様として扱われるのですか」
「私たちのような存在は人が創った神話から近い性質を持つ神から名前が名付けられる。中には本当にあった話を元にしたものもあるが多くの場合がそうなる。次にどのようにして神と定義されるかについてだ。これは先ほどと同じだ。人理を超えた力を持つものを人はそう定理する。それだけだ」
「最後に–––––––––––」
私のお腹がおっきな音をたてる。
 もうそんな時間なの。
空の胃袋が小刻みに震えて胃液が激しく動いているのがわかる。私は瞳を閉じてただ腹の虫が治るのを待つ。恥じらうことはなかった。そんなことよりこれからの雑務のことを考えれば朝食が取れなくなることで頭が一杯になった。話した内容はとても興味を持てるものだったし規則正しい日々に不規則なことがあった方が刺激的でとても楽しい。だけど、この気持ちと同じくらいに些細な幸せを噛み締められる日に三度しかないご飯を一度も逃すことになるのは本当に悲しい。「––––––––––––––貴重なお話をありがとうございました」腹の虫が泣き止みむと深い一礼とともに言った。「恐縮でございますが昼食の折に朝食の食器を下げられるご許可を頂きたく存じ上げます」
「別に構わない」
「申し訳ございません」
私が立ち上がると朝食を眺めていた彼女が頭を俊敏に動かして私を見た。
「魚だ。魚。これは結局塩をかけすぎているのか。いないのか」
「ご心配に及びません。どうぞごゆっくりお召し上がりください」



 川海がいなくなり箸をすすめた彼女は魚以外のご飯は食べおえていた。魚を一瞥しては箸で何度も突こうと思っていたが決心がつかず最後に残ってしまった。以前と違い強い塩の臭いこそしなくなったが結局のところ口にしてみるまではわからない。彼女は深いため息をつく。皮を裂き身を掴みあげる。皮の表面には粗目のようなものはない。鼻に近づけにおいを確かめる。
 塩の匂いが全くしない。素焼きにしたのか。
遠くから陶器が割れる音が聞こえた。続けて川海の慌てふためく叫び声が聞こえた。彼女は魚を食べる。味付けはされてないが魚についた油味や炭の風味が互いを立たせ味を重厚にさせている。桜の花がなくなり新緑が真緑に変わっていく成長の過程にある季節。この時期の風はこれからの一年をほのかに期待させる。
「塩焼きが出るのはもう少し後になりそうだな」
小麦色の髪の毛先が水面のように音もなく揺れている。着物をすぎていく黄緑色の風は気分を新鮮なものさせてくれる。彼女は再び響く破壊音と叫び声をよそにいい風だと思った。
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