三節 おもいなやむ 三

文字数 5,949文字

 朔と香凜は屋台船に乗っている。急であったが貴方位がかしきりで手配した。内装は昔ながらのものだ。畳が船の中央に敷き詰められ長机が中央に置かれている。低い天井の下で彼らは座布団に座り海鮮料理が並べられた長机を間にして向かい合って座っている。七人が乗れる屋台船なので空白が少し目立つ。夜なので川はさながら墨が流れているように黒い。故に地上に立ち並ぶ屋台の光は穏やかな川の流れにぼかされながらも端で鮮明に投影されている。川の中央をたゆたう船は光に直接照らされることなく水光に間接的に照らされている。騒がしい地上の光とは一線を画し川には船頭が水面に触れる音しか聞こえない。朔は話したい気分ではない。だが昔からの体の習慣なのか。フリーダの言葉には不思議と逆らえない。力づくな塔子とまた違う力がある。
「あぁー。歳をとりたくないわぁ」朔の隣にいるフリーダが酒気を口から吹く。両手を後ろに回し上体を後方に寄せる。「さっくん、その白身美味しいわよ」と朔の前にある寿司を指差す。船の明かりに照らされたフリーダの張りのある白い肌を前に座る凛香が眺めている。
「変わらずフリーダさんは美しいままですね」
「えぇそう?」嬉しそうに頬を触る。「香凜も香凜のままね」フリーダは机に身を寄せる。「ねぇ、どうしたらそんなに変わらずに入れるの。やっぱりアジア人だからなの」
「人種は関係ないかと。フリーダさんが変わらず美しいのが何よりの証拠です」
「いいこと言うじゃない」フリーダは朔の肩を叩く。「さっくんも香凜を見習うべきよ」
「––––––––––」
「もう、無視しなくてもいいじゃない」
フリーダは先程の白身魚にただ視線を落としている朔に顔を向ける。
「–––––––––––」
香凜はお茶を飲みながら朔の顔を伺う。
「たぁーーーーー」フリーダは両手をまた後方に置くと天井を仰ぎ見る。「やっぱりダメね。塔子に似てるわ。仕事じゃなくちゃ上手く話そうとしないところが」
「塔子の方が酷い」
姿勢を変えず朔が呟いた。
「何ガキが生意気言ってんのよ」フリーダは朔の頬を突き茶化す。朔がそっぽを向き頬を指から遠ざけるとフリーダは体を朔に寄せしつこく頬を突く。朔の不貞腐れた態度にフリーダは思わず笑ってしまう。「–––––––ふふふふ。塔子に修行されてる時はよく拗ねてたわね。懐かしいわぁーーー」
「フリーダさんと朔は雷神との戦い以前から既知の間柄ですか」
「そうよ。塔子に毎日ぼろぼろにされて泣かされて」フリーダは朔の頬を突いていない腕の肘を机に乗せて頬杖をする。「フリーダ、フリーダって言って私の影に隠れて塔子と言い合ってたわ。俺は危なくない生活が送れればそれでいいんだぁって」
香凜の視線が朔に向く。香凜はフリーダの後ろに隠れて怯えながら塔子に悪口を言う少年の姿を想像する。思わず微笑んでしまう。
「一度見てみたかったです」
「勘弁してください」
朔は顔を香凜に向け頬を突くうざい手に手を重ねて半ば強引に畳に置く。
「エェー。可愛かったのよ。いいじゃない」朔の手が離れると「あぁ〜寂しいわ。昔は一緒に手を繋いで歩いたりもしたのに」と項垂れながら言った。
「頼むからせめて二人の時に話してくれ」
「私は伺いたく存じます」
「俺の過去なんて聞いても面白くないですよ」
「そうですか。私はとても興味がありますが」
二人が話している最中にフリーダは膝で立ち上がり机の中央にある酒瓶を取る。手足がふらついているわけでもなく頬が赤いわけでもない。だからフリーダは酔った気になれず酒を欲する。それに後で介抱してくれる人間がいると思うと嬉しく思いつい酒に浸ってしまう。尻を座布団につけおちょこに目を向けるがそれでは分量が足らないと思いお冷が入っていたグラスに酒を注ぐ。そしてフリーダは口をつけ仲良く話す二人を見る。遊覧船が突然影に隠れる。もう空になったグラスを机に置き一瞥もせずにコップについた口紅を指でなぞりとる。遊覧船が影から出ると水面にうつる屋台の光が楽しそうな香凜を少し暗くさせ困る朔を少し明るくさせる。フリーダが過ぎ去った道に顔を向けると橋があった。橋を渡る三人組は腰を少し曲げ歩いている。きっとやっと仕事が終わったのだろう。このまま帰る雰囲気だ。彼らとすれ違う一人の女性は缶ビール片手にまるでスキップするかのように歩いている。欄干に腰をかけ立ち止まる男性の横には年老いた男性と女性が屋台を見ながら何やら話し合っている。最近の照明器具が使われてない飲み屋街は仄かな暗さがある。そんなところを狭い通りを雑多な人たちがすれ違う。古くさい雰囲気だと言えばそれだけだが華美ではない橙色の光が照らす光景はどことなく人情味を感じさせる。
 自己防衛のために始めたことが多くのものの命を守るための手段に変わるなんて……………。弱いままの方が良かった。
私はかつての少年の頭に手を乗せる。そして顔を向けた。
「なんだよ」
うざったいと言わんばかりの懐かしい顔で私を見る。雷神との戦いが始まってからこんな風にじゃれたことは一度もない。感慨深く思い頭を撫でてしまう。私たち大人が不甲斐ないばかりに英雄になってしまった青年に戦いが終われば子供に戻れなんて身勝手だとわかっている。だけど–––––––––––。そんなことを言ってしまいたくなる。
「ひのかちゃんに感謝しなきゃね」
「––––––––なんだよ。急に」
舌打ちでもしたそうに唇を仄かに動かす。本当は悪態をつきたいといったところかしら。
「……………………ひのかちゃんがあなたの体の治りを早くしてくれたわ」
さっくんはゆっくり腕を動かし私の手を頭から離す。そして顔をうつ伏せわかっているといった。それは地上にいる人たちの声に隠れるほどの小さな声だった。
「聞かせてくれませんか。会った時から様子がおかしいです。何か悩み事でもありますか」香凛は正座している両腿の上に手を乗せる。朔の顔が少し上がる。「ただ言葉にするだけで頭は整理されます。私たちにその手伝いをさせてくれませんか」
「––––––––––––––––」
風が吹く。水面の冷たさを纏わせた澄んだ風が体を優しく冷ます。始めにあった蕭条とした静けさはない。私と香凛は互いに顔を向け困ったような嬉しいようなわけのわからない顔をしてしまう。あえて朔を見ることはない。風が弱まり耳から離れていた私の髪が元の位置に戻る。
「–––––––塔子もね。さっくんのように世界がとか信念がとかでよく悩んでいた」さっくんはとても驚いた顔をして私を見る。当然の反応だと思う。彼にとって塔子は完成された人間だもの。「だけど、ある日から悩まなくなった。それはもうキッパリと」
「それは塔子が強いから」
さっくんは後ろめたそうに瞳の輪郭を瞼で隠す。
「本当にそうなのかしら」
「なら、どうして迷いなくあいつは行動でき––」
「迷いがないことが強さじゃないと私は思うわ」さっくんの語尾に重なりかけて私は言った。「こうして、今のように私は何度も塔子の話を聞いたわ。それはもう過去の話だけど–––––」私はさっくんの手を強く握る。私を見るさっくんの瞳はもう私の知れるものではない。「私はあの時の塔子の方がずっと強かったと思う。だってすごいと思わない。苦しいのに頑なに悩み続けてるなんてよほどの馬鹿かそう––––––––それこそ「信念」がなくちゃ為せるものではないと思うわ」
「だが俺が知るものたちは悩んでいなかった」
「あなたは塔子になれないし雷神たちの誰かにもなれない。朔–––––––––––––。あなたはあなたなの。だから、朔は朔の信念を持って生きるの」
朔は首を力なく横に振る。まるで自分が無力だと言わんばかりに。
「戦いの中で考えたんだ。俺が守る世界は………。俺が守りたいものが何なのか。だが、答えは見つからなかった。見つかりそうな気がした時にいつも答えが遠ざかる」
「大丈夫よ。いつか答えが見つかるわ」苦衷を見せる瞳が私を見る。弱かった少年の時の方がその瞳には力があった。自分のことしか見えなかったあの瞳には迷いがなかった。「さっくんの中には自分だけじゃない、いろんな想いが複雑に絡み合ってる。ただ今は痛みが強すぎて本来の想いを忘れてるだけだわ。だけど孤独になるとその想いたちが本当に痛みだけになる。だから忘れないで。さっくんの近くには私や香凜やみんながいることを」
私にはわからない。朔が抱く葛藤や罪や焦燥感……枚挙したらキリがないでしょうね。若いときは何も答えれなかった。……………力を持つ者の宿命だと勝手に決めつけて真摯に向き合えなかった。自分ではない誰かの悩みなんて解決できない。ましてやその規模が生きてるうちで思うことがない壮大なものであれば取り合うのも馬鹿らしくなる。だから愚かな私はかつて彼女の手を離した。いえ、掴むことすらしてなかったかも知れない。わからなくても聞くべきだった。共感ができなくても共に肩を寄せ合うことはできた。根本的に人と人との関係は互いを理解しなくても想えば支えられるものだと知っていれば塔子は今と違う人になれたかもしれない。悩みを共有できなくなった人間はもう悩むことすらなくなる。自分だけで考えるには必ず限界がある。だから、自分が想うように行動する以外の方法ができなくなる。自身でしか背負えない責任だと思い、誰にも何を委ねられず孤独な道を終わりなく歩み続ける。
 誰かが一人になるときはいつも誰かが違うものだと思うことに始まる。
私ができることは決して多くない。私が示せる道もない。ただ苦しむ朔を近くで見ることしかできない。だから私は思ってしまう。もう立ち止まって欲しいと。遠くに行ってほしくないと。弱いままのあの頃の姿が良かったと。
 もう何もできない。
 ––––––––––––––––––もう、何も教えてあげることもできない。
瞳が人肌の温もりになる。視界が緩み凪いだ風に当たる鼻先がほのかに冷える。青年になった朔の体にたまらず抱きつく。私を剥がそうとするけど昔みたいに全力じゃなくて私の体を気遣いながら優しく振り解こうとする。
「子供の成長は早いものね」
濡れた声で言った私は顔を上げて鼻を啜る。
「酔いすぎだ」
できることは多くない。
「いいじゃない。今日は介抱してくれるんでしょ」
「そんなことを言った記憶はない」
「そう言いながらイヤイヤやってくれるじゃんー」
「やらない」
だから、せめて近くにいよう。いつの日にか朔がずっと先に行ってもその背中だけは絶対に見失わないように。それが数少ない朔のためにできる行為だから。
「香凛、今日は飲むわよ」
私の声に反応して香凛の瞳が少し大きくなる。そして凛香は苦そうな微笑みをする。
「ご相伴に預かります」
「断るべきです」
「いえ、私にはフリーダさんのノミニケーションから学ぶべきことが多いので学ばしていただきます」
凛香は立ち上がり机の中央にある一升瓶を手に取ると封を切りラッパ飲みをする。私たちはあの香凛がラッパ飲みする姿に度肝を抜かれた。半分くらい飲み干すと顔を真っ赤にした香凛がぷはぁと酒臭い息を出した。
「私も負けてられないわ。朔は退院したばっかからだからまた今度ね」
「え?二人も–––––––」
私も立ち上がり酒瓶を手に取る。
「きょうはとうほうい様のぐちをいいます」
「なら、私は患者の愚痴を」
私と香凛は同時に朔を見る。もちろん、年上としての圧をかけて。朔はたじろぎながらえっとと言葉が詰まっている。
「––––––––––––––––––なら、ひのかの愚痴でも」
「はぎれがわるいですよ。おとこならひっかりしなしゃい」
呂律が回っていない香凛が言った。
「……………」朔が困惑した顔で私を見る。私はそれを鼻で笑い一升瓶を飲み始める。すると朔は頭を抱え「地獄だ」と呟いた。

 そこからは記憶にないわ。えぇ、全くもって。楽しかったような記憶しかないわ。お酒って素晴らしいわぁ。






 昨日は二人の介抱をした。幸いにもホテルが近かったおかげで道中に吐かれることはなかった。
「開けますよ」
隣室のドアをノックする。かなり強めで。フリーダだけならノックはしなかった。確実に寝ているからだ。結局、昨日はいつまで付き合わされたのかわからない。ホテルに入ってからフリーダがトイレに籠るまで続いた。ドアが少し開き止まる。ドアの隙間に近づこうとしたら突然勢いよくドアが開き俺は慌てて体を後方に逸らす。
「ふぁい」
大きな欠伸をかきながら香凛さんが出てきた。いつもは毛先まで綺麗に整われた髪が飛び跳ね硬そうな前髪が顔の半面を隠している。服装は昨日のままだ。だけど、俺の知るどの大人たちより泥酔した二日目の状態がいい。ゲロ臭くもなければ目つきも悪くない。しかも返事ができる。
「今日は午後二時から貴方位の爺さんが現状の確認を取るために俺やバルドを屋敷に呼んでいます。香凛さんも同席すると送られていたので一度、家に戻った方がいいと思って声をかけました」
「ありがとうございます」片手で口を隠し背を伸ばして大きな欠伸をする。「私、初めてあんな吞み方をしましたが悪くないものですね」
香凛さんは部屋から出るとドアを閉め背もたれする。気が抜けた隙がある香凛さんの姿は新鮮だ。たまに抜けていることを言う人だと思っていたが仕事がない日は存外にこんな感じなのかも知れない。
「呑み始めてからも覚えていますか」
「今はうまく思い出せません。酒が完全に抜けたら思い出せそうな気がしますが」
「フリーダは完全に忘れていますから昨日の話はできませんよ」
「ふむ、なら思い出せたらまだまだ呑むべきですね」
「それは……やめたほうが」
香凜さんは微笑んだ。
「半分冗談ですよ」
「半分」
「はい」頷き。「半分です。話は変わりますが」ドアから背中を離すと足がステップを踏むように少しふらついた。「私のこともどうか呼び捨てで構いませんので」
「いえ、申し訳ないので」
「私からの願いを無碍にするほうが失礼だと思いますが」
唐突にいつもの圧が戻る。俺はつい反射的に
「はい」
と言ってしまった。
「では私は一度自宅に戻ります」
「付き添いますよ」
「お気になさらず。家が近いので」
香凜さんはそう言うと歩き始める。
「お気をつけて」
「どうも」
足が地面につくたびに微妙に足首が揺れる香凜さんの後ろ姿を見る。危なっかしいがいつもの立ち姿に似て背筋はまっすぐ伸びている。心配な足取りだったが倒れる素振りがなく長い廊下の角に行き姿が見えなくなった。俺はドアを開けフリーダの部屋に入る。どうせゲロ臭くて酒臭い。状態を見てすぐに風呂に入れるか考えないとな。枕を抱いて体を丸めて寝ているフリーダを見る。
 本当に何も変わってないな。こいつは。
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