第四節 順流か逆流か水天すら知らず  二

文字数 9,009文字

数日後 夜




 朔が集落に来てから数日が過ぎた。最初に見た彼は意識が感じられない姿態に生気が消失したような瞳だった。彼のその姿を見たときは心が引き裂かれる思いがした。だけど、私は彼がそうなっているだろうと予想はできていた。集落の外に出て情勢の動向を探る傍らで朔の情報を私は集めていた。戦いが終わってからなので一年ほどだろう。私はその間で彼にまつわる情報を一つも得られなかった。それは裏を返せば彼があの戦い以降、何もしなかったことを表していた。だから私はずっと悪い予感がしていた。あの天幕の前での彼の罪に押し潰されそうな顔がずっと脳裏に浮かんだ。一人で懊悩とした日々を過ごし生きているかもしれないと。もっと悪ければ人知れず自殺したのかもしれないと本当に思った。他のものたちはそんなことがないと言っていたが私はそんな言葉を信じられなかった。あの天幕の前で私は彼の葛藤も悲しみも弱さも見た。黒雷様の封印に一助した自分自身に絶望し心が砕けた叫び声を聞いた。私にはその痛みが量り知れない。自身の掲げた理想を捨て…………友人たちに刃を向けてまで今の世界を守った彼の心を推し量れるわけがない。一人の少年が背負うにはその対価はあまりにも重すぎる。彼はみんなが思う英雄ではない。みんなが思うほど強くもない。
 だから私は久々に会った彼の姿に心を痛めながらも安堵した。もう彼は戦うことはないのだと。もう彼は背負いきれない理想のせいで傷つく道を歩まないのだと。卑しくもよかったと思った。




 川の水面に朝焼けのような真っ直ぐ伸びるろうろうとした赤が映っている。橋の上にいる私は焚き火に集まる彼らを見ている。
「この酒全く売れないの。何でだと思う」
コノハさんが朔に徳利に入った酒を朔の手元にあるお猪口に注ぐ。朔の顔は焚き火の光にやられているせいだろうか。いつもより赤く見える。彼ももうそんな年齢なのか。欄干に手を置きそんな歳くさいことを思ってしまう。朔はお猪口を口につけるとすぐに川の方に向きむせた。
「––––ごほッ–––––––ゴホっ––––––––まずい」
「どんな風に」
朔は振り返り自身と同じように河原に座るコノハさんを見る。
「すまないがそんなに酒を呑んだことがないからわからない」
「若い方が舌がいいはずなんだ。教えてくれよ」
「なぁ、なんで新しい酒を開けているんだ」
朔は怪訝そうな顔でコノハさんが新たに持った酒を指差す。
「明日は朔が旅立つ日だろ。その前に不味–––––––いろんな酒をご馳走したくてな」
「上手い酒はないのか」
コノハさんは赤子のように頭を左右に振り口を尖らせる。
「どれもうちの酵母ちゃんが頑張って造ったんだ。このままじゃ嫌なんだよ」
「はぁー」朔は頭を抱える。「俺の感想は参考にならないと思うぞ」
狸のつぶらな瞳が輝く。
「本当にお前はいい奴だな」
「一緒に呑むようにな」
「りょーかいりょーかい」
と大きな腹が揺れるほど首を縦に振り揚々と返事をした。
 焚き火を挟んで彼らの正面にいる女性たちは何やら髪をいじっている。焚き火に背を向け座る幸さんの髪をカスペキラさんがひのかさんに見せながらゆっくり結っている。ひのかさんは難しい顔をして自身の髪を結びながらカスペキラさんに確認をとっている。
「あの……………」緊張してか幸さんは声を弾ませてしまう。彼女は自分を落ちかせるためか自分の手に指を何度も絡めては解いている。人見知りの彼女がひのかさんに話しかけるなんて少々意外だ。「…………えっと…………」
ぴんと立った彼女の狐の耳が交互に折れては上がる。ひのかさんは彼女の耳とカスペキラさんの耳を交互に見始める。
「君、失礼なことを考えているだろ」
半目でカスペキラさんが言った。
「いえいえいえいえ」ひのかさんは頭を横に振りながら口早に言った。「耳は体と心の機微に反応しているって聞いてたのにカスペキラさんはあまり動かないんだって思って」
幸さんは両耳を針のように垂直に立てると赤らんだ顔を両手で覆った。
「私、そんなに動いていましたか」
「はい。とても可愛いですよ」
ひのかさんが微笑んでいった。幸さんはそれを聞くと恥ずかしさのあまり悶える声を出した。カスペキラさんはそれを見てさらに目を細める。
「デリカシーがないんだな。君は」
ひのかさんは首を傾げる。突然、何かを思い出したひのかさんは両手を合わせ「あ、そうだ」と呟く。
「先ほどの何を言おうとしてましたか」
「––––––––––」幸さんはまだ出る悶える声を堪えて必死に「少し……あとすこしだけまってください」
と頑張って言った。
 朔の背にある赤い川で石切をしている男性が二人いる。
「で、どうなんだ」
藤田さんは真面目な顔つきで林田さんに言った。林田さんは投げようとした手を止め恐らく今日初めて見るであろう藤田さんの顔を見る。
「何がですか」
「おいおい、俺が聞くと言ったらあれしかないだろ」
彼の低い声が燃え上がる焚き火を映す水面を揺らす。彼の雰囲気に林田さんは固唾を呑む。
「…………あれって」
「…………い」
震えた唇で彼は呟いた。
「もう一度お願いします」
「…………おっぱいはどうだった」
林田さんは聞き間違いだと思ったのだろう。不快な顔をすることなくただ眉間だけを上に上げる。
「………もう一度お願いします」
「幸さんは大きかったか」
「ちょ………そういう話は––––––––」
「四十八手!」
夜を払うような潔い声が響く。気迫ある言葉に林田さんは完全に呑まれてしまう。
「…………。」
「これが何の数字かわかるか」
「さっきの話と関係があるんですか」
「………………」彼は無駄に黙る。その顔はまるで賢者のような厳格さがある。「…………よく気づいたな」
林田さんは真面目な男性です。藤田さんは………良くも悪くもそんな男です。––––––––––これ以上聞くのは野暮ですね。
 土手から物の怪と人がポツポツと見え始める。彼らは先に点いた焚き火を見ると河原にいる彼らに声をかけて土手を下っていく。朔はフードを慌てて深く被る。様子を見るに知り合いしか集まらないと聞いていたのでしょう。新しい篝火が朔たちから少し離れた場所から現れる。それは一つだけじゃなくて二つや三つほど点きまるで一つの明かりように夜を明るくさせる。雷神軍で見たあの大きな焚き火とはかなり違う。そこにいる数もかなり少なくなってしまった。だけど、そこにある光景はあの時と変わらずとても輝いている。
 私は彼が起こした雷神軍での軌跡を忘れたことがない。大きな焚き火を囲い人や物の怪が酒を呑み合い、互いの家族や夢を語り合っていた。その焚き火が届かない影で私とシンセイも取るに足らない話をした。………………………………。思えば、酒呑みのあなたが一滴も呑まずにあの光景を見ていたのはあなたなりの葛藤があったのでしょう。光が届かない間際の闇で欄干を握る手だけが光に照らされている。私はあの時のように闇と光の狭間で光を見ている。あれから三年ほどが経った。
 シンセイ、彼が見せた理想が彼の手元を離れ形を成しています。それを見た彼自身も忘れていた世界の可能性を信じつつあります。……………彼はあの時と変わらずまた歩こうとしています。
私はあの時の奇跡以上に忘れられないことがたくさんできた。
「行かないの」
蛍の声だ。こういった催しがある時は決まって彼女はここにいる私のところに来てくれる。
「はい。ここはよく見えますから」
私は微笑んだ。すると蛍は私の顔を横目でじっと見る。彼女の瞳は川のように焚き火の光を眩しく映している。かつての少女と今の彼女は全く別人に思えるほどに蛍は成長した。
「……………」蛍は欄干にある私の手に自分の手を重ね緩く握る。「今日はずっと雲行きが怪しいのによく外で収穫祭をしたよね」
普段よりすこし明るい声で言った。私は視線を落として橋が映るやや暗い水面を見る。水面に細波が立っているせいで自分の顔が確認できない。
「………蛍はいかないのですか」
「泉さんが帰ってきてからまだ一回しか一緒に外にでてないでしょ。だから今回はここでいいの」
「私に気を配らなくて大丈夫ですよ。ほら、朔がずっと集落の手伝いをしていたからまだ彼と話し足りてないしょう」
「うん」蛍はあぁ〜と気怠そうな声を吐き出し頭を下げる。「本当にそう。だけど、その方が朔兄らしいと思う」
「ふふ。はい、そうですね。らしいですね」
蛍は顔を上げ焚き火を見る。その表情は態度と違いどこか嬉しそうに見える。
「だけど、また来るって言ってくれた。それでいいかなぁーって思ってる」
「多少、強引にでも引き留めたら家で話せたかもしれませんよ」
「泉さんがそんなこと言うなんて意外」
「そうですか」
「うん、うまくは言えないけどそんな感じがする」
「………………そうですね。私らしくはないかもしれません」
蛍は私の手を握る。力はあまりなかった。私は手を動かし彼女の指の間に指を入れる。そして蛍の手が痛まないように大切に握る。
「………………………」
焚き火からご飯の匂いが漂う。焚き火から声が聞こえる。私たちはそれらを見る。
「…………………………」
「………………今回はちゃんとさよならが言える」
「………はい。」
「だから、次にいつ会えるかやっと約束ができる」
「…………………。」
「もう、突然の別れはないんだね」
「………………………………………………………。」
蛍が私の手をちゃんと握る。そして、私に微笑んだ。
「どうしたの?」
「あ、いえ………………。」
「何かあったら言ってね。話を聞くことくらいはできるから」
「…………ありがとうございます」
私が微笑んで言うと蛍は今度は一瞬だけ顔を曇らせた。そして顔をうつ伏せると私の体に自身の体を寄せた。そして、笑顔で
「家族なんだから当然だよ」
と明るい声で言った。私は蛍のその奥ゆかしさに気丈な振る舞いに言葉を失くし逃げるように下っていく暗い川に顔を落とす。

 シンセイ、あなたの師は低きに下ることはあってはならぬとよくおっしゃっていました。私があなたより先に家を離れる時も叔父は何かを察して私にそうおっしゃいました。そしてあなたはこの世界に罪はないと私に言いました……………………………。
忘れられないことがある。
私の仲間たちの叫び声を仲間たちの傷を私は忘れられない。
朔の叫び声が今も響く。戦場で墓場で絶望にうちひしがれた朔の手の感触が今も残り続けている。
「シンセイ………………。私はあなたのようになれません」
私はもうこの世界に可能性を見いだせない。

















 集落を立つ朝は曇天であった。カーテンから差し込む光は冬の早朝のようにくすんでいる。上体を上げ布団から出る。冬隣を感じる乾燥した冷ややかな空気に寒さを覚えはしたが震えはしなかった。目を開けた時から朔はさめていた。曇天がもたらす湿気ったやりきれない空気がそこはとなく気力を削ぐ。その空気に触れる体には倦怠感があるせいで動くのが億劫に感じられる。しかしながら、今日の出立はあの冬の日に比べれば遥かに気分がいいものだ。下の階から陶器が割れる甲高い音が聞こえた。
「うわ!大切にしてた皿なのに‼︎」
送り出してもらえる朝にはいささか縁起が悪いように思えた。




 
 二階に続く階段の一段目に荷物を立てかける。料理をする蛍の後ろ髪には昨日の焚き火でひのかが一生懸命に結んでいた髪型が結われている。ひのかは一足先に外に出た。唐辛子畑にいる彼らの元に寄ると言っていた。朔は恐らく気を使ったんだろうと思っている。
 貸しばかり増えていくな。
階段の近くにあるスイッチを点ける。薄暗い居間が明るくなる。机には卵黄と卵白が完璧に混じり合った淡黄色の綺麗な卵焼きがある。その横の小皿に青々しいほうれん草のおひたしがある。蛍が作る料理は自身の粗雑な料理や美味しい料理が定期的に出ないひのかの料理と大きく違い全てにおいて洗練されている。素材の色を褪せさせることなくかつ食材の味を美味しく調理している。湯気がたっている皿が机に乗る。醤油と砂糖に出汁が混ざった彼にとって嗅ぎ慣れた匂いだ。
「手伝えることはあるか」
「ご飯をよそってもらっていい」
蛍は先ほど皿を置いた席から正面の席に魚の煮つけを置きながら言った。
「わかった」
「ありがとう」
台所に朔が歩き出す。
「怪我はないか」
「怪我?」
蛍も歩き出す。後ろから見る朔の背中は以前と変わらず大きい。
 かなり成長したからもしかしたら同じ身長かなって思っていたけどやっぱりそうはいかないか。
一番右端にあるコンロの真反対側に幅広い空間が空いている。そこには炊飯器、レンジ、トースターが並べられている。蛍はその下にある棚を開けてお茶碗を取り出し炊飯器の近くに二個おいた。そして汁椀も二個取り出してコンロに歩いて行った。
「皿、割れたんだろ」
「あー」蛍はお玉を手に取り味噌汁を汁椀に注ぐ。「なんかね。皿を運んでたら急に真っ二つに割れて床に落ちちゃった。もう粉々に割れて大変だったの」
「そうか––––––」朔は二個目のお茶碗にご飯をよそいながら蛍の指先を見る。「呼んでくれればよかったのに」
「来たら危なから呼ばないよ」
二人とも同時に中身が入った器を持つ。蛍の瞳が朔に合わさる。
「俺の手の皮は厚い。気にすることはない」
「それでも見てる方は嫌だから」蛍は苦笑するような複雑な微笑みをする。「だからそれでいいの」
朔は少女の面影がいずれ消えそうな蛍の瞳に成長を感じ見入ってしまう。その感覚はなんとも不思議で恍惚感があるようで荒涼が抜けていくような言い表せない寂さがある。彼女の体は自分が知る時よりも大きくなったと今更ながら感じる。
「だけどそれを見ている側の方のことも考えた方がいい」朔は俯いていた自分に話してくれたものたちのことを思い出す。心を解きほぐすような彼らの口調を思い出しながら言う。「見ている方も蛍と同じように大切に蛍のことを思っている。だから、些細なことでも当然、大きなことでも一人で抱え込むのはよくない」朔は微笑んだ。恥ずかしさを誤魔化すようなむず痒い顔だ。「これはずっとそうやって俯いて俺の経験談だ。一人だけだと同じ考えしかできないからよくない」
「そうなんだ。ふふ………」蛍は見たことがない朔の顔に笑みが溢れる。なぜだかわからないがそれがとても嬉しく感じてとても好きだと感じる。「…………うん。わかった」
無邪気な笑顔で蛍は言った。

 煮魚に箸を挿れる。身はまるで箸を迎え入れるように割ける。すると仄かな酒気を帯びた魚の身から油が流れる。艶のある油は透き通った黄金出汁のような黄色と醤油の黒に限りなく近い赤が混じり合い均質に薄く広がった汁に落ちそれの水面に浮く。箸で上げた白身の表面にはその汁の色が染み込んでいる。香りと見た目から美味しさを誘うそれを口に入れる前に涎を飲み込んだ。一方、蛍は朔が食べるまでの時間が長く感じて心配になる。朔が口に入れると蛍は待ち切れずすぐに
「どう?」
と言った。話せない朔は相槌を打つように何度もこくこくと頷く。しかし、その動きに反して口の中の動きは遅い。思わず蛍の上体が前のめりになり太腿の上に置かれた両手に大きく体重がかかる。正面にいる朔はまだ口を閉ざして噛んでいる。


 朔の口の動きがようやく止まる。すかさず蛍は
「どう?」
と今度は神妙に聞いた。彼女にとってはあまりも咀嚼時間が長く感じたので嫌な感想しか頭の中で想像できなかった。
「美味しい」
「ほんと?」
「うん。美味しいよ」
蛍のかたまっていた口角が溶けるように緩む。喜びの最中で蛍は不意に自分の顔が子供のように緩んでいると思い慌てて手で口元を隠す。そして顔を横に向け大人っぽい咳払いをする。蛍は先ほどの顔を思い出して大変恥ずかしく思い顔が赤らみ始める。彼女は複雑な成長時期だ。
「い、……祈りさんに甘い魚の煮物は朔兄の母の味だって聞いたからそれで作ったの」
「それでか」
「うん」蛍は手を下げ顔を朔に向ける。「多分……味は似てないけど」
「かなりの量の砂糖を使っていただろ」
「そう!そうだよ」蛍は深く頷きながら言った。「初めて祈りさんの量を見た時は冗談だと思った」
朔は母の甘い味付けを思い出しながら仄かに苦笑を浮かべ言う。
「それが本当に祈りの量が俺の母親の量に近いんだ」
「祈りさんは朔兄のお母さんに煮付けを教えてもらったの」
「あー。」朔の瞳が少しだけ動き過去の何気ない光景を思い出す。「そうか、そう言われるとそうだな」そして蛍の瞳に戻る。「あいつが来るときにたまたま母親の有給が続いた時で五日ほどだったかな。祈りが優しい味だって言って毎日教えてもらっていたな」
「へー。そんなことが。朔兄の家ってそもそも祓除師の家系なの」
「普通の家だ。母親はいつも適当な人だったけど子供を不自由にさせないように仕事を頑張っていた人だった。おかげで家を空けることが多くて寂しく思うことは多かったけど–––––」朔の瞼が仄かに落ちる。「まぁ、働いてくれていたことが愛情の一つの表現だと気づけた時からそんなこと思わなくなったな」
「何だか泉さんと似てる…………。」蛍は机に並ぶご飯を見る。「泉さんもいつも家を開けてるから」
「–––––––––––––そうか」
「……朔兄はお母さんと話し難いことがあった時、どうしてた」
「––––––––」朔は蛍の顔を見る。寂しそうな顔をしているかと思っていたが物憂げな表情をしている。これから起こる不幸なことを予見しているように思えて心がざわつく。「–––––母親とはそんなことがなかったけど他の人たちとは何度もそんなことがあった」
「………そうなんだ」
「……………だから俺は何も話さなかった」蛍の顔がゆっくり上がる。彼女にとって朔からそんな言葉が出るのはとても意外だった。「後に残ったのは後悔と禍根だけだ。だから、良い助言はできないが今だからこそそういったことを誤魔化さずに話すべきだと本当に心から思っている」
蛍の瞳が心を述懐するように力無く伏せる。
「……………」
「そんな俺が言えることは過ぎ去った今は二度と戻らないことだけだ」
「…………うん」
短い小さな返事に朔は自身が情けなく思う。
「すまない。人付き合いが上手なひのかなら助言ができただろうに」
蛍は頭を横に振る。
「うーうん。そんなことない。……………。」蛍は瞳を閉じる。そしてか細い息を吸う。「…………うん」彼女は重そうに瞼を上げると朔を見た。「……話してみる。後悔はしたくないから」
「……………そうか」
「今日の午後に帰ってくるから気合を入れないと」
蛍はよしと両手で腿を叩き体を奮わせる。
「………………」
「食べよう」
蛍は重い空気をあっという間にかき消し朔に明るく言った。朔はその声に押し上げられるように
「そうだな」
と彼なりに返した。




 「忘れ物はない」
「多分大丈夫」
私は一人になるのが怖い。靴を履いた朔兄が立ち上がる。湿った冷たい空気が漂う暗い玄関で私たちはさようならをする。この前と違ってそれは突然じゃないけどとても寂しく思える。朔兄が土間を一歩、二歩と歩く音が響く。そして彼はいとも容易くドアノブに手をかける。彼がドアノブを回して扉を開ける。曇天を透かした眩くない鈍色の光が入り込む。朔兄の一歩が家の外を踏み出した時、私はどうしようもない不安に襲われ突発的に足を踏み出す。強引にとった手からは乾いた音が鳴る。土間に接する素足は薄氷を歩くような冷たさと危うさを身に覚えさせる。
「––––––––––」
驚いて振り向いた朔兄の顔を見て私自身も驚く。
「あ、いや、–––––––」私は慌てて手を離してこの体が動いたのに素知らぬように頭を横に振る。「勝手に…………体が」
「不安なことが他にあるのか」
「違うの。………………………いや、そう………かも………しれない」
「言ってくれるか」
朔兄は手を差し伸べるように優しく言った。私は震える手を見る。まるで極寒に身を置くように体は震えている。
「わからない。………………誰もこの家に戻らないような気がしたから」
「午後には千雨さんが戻るだろ」
「そうだけど…………不安なの」
「……………………。」
私は顔を上げ朔兄を見る。朔兄の顔は私を安心させるために仄かに微笑んでいる。だけどその微笑みに親しみは覚えれずとても遠いものに思える。
「––––––––––。」
外から雨の音が聞こえる。その小雨はとても静かに始まる。
「もう大きな戦いは終わったんだ。心配することはない」
「嘘だ」
私は声を出さず心で漏らした。
「戻ってきね。絶対に」
だけど、私はそんなことが言えない。
「わかった」
「絶対だよ」
「約束だ」
絶対なんてない。
「絶対に絶対にだよ」
「必ず果たす」
「今度は泉さんと一緒にどこか行くんだから絶対だよ」
「あぁ、絶対だ」
そんなことわかっている。私はただそう言って不安を隠してるだけだってわかっている。私は朔兄に抱きつき顔をうずめる。
「絶対だから………絶対だから」
震える声を懸命に隠し泣きそうな顔を隠す。気持ちよく送り出したいのに私の心はこんなにもわがままだ。自分が子供だと思ってならない。
「–––––––––––––また一緒にご飯を食べよう」
朔兄の手が私の頭を撫でる。狐の耳が痛くならないように優しく撫でてくれる。暖かい手が暴発しそうな私の心を緩ませる。だから私は急いで身を引く。そして歪む顔に針金を通すように表情を強引に固める。
「…………いって……」あぁ、だめだ。どうしてこんなに不安なんだろう。泉さんと朔兄が二度と戻らない気がする。こんなことおかしいのに。心に栓を閉めるように体に力を入れる。「いってらっしゃい」
顔を上げた私は笑顔で言った。
「年が明けたら必ず行く。あぁ、それに連絡も–––––––」
「うん。わかった。また今度ね」
「––––––––––ごめん」
「……………………………………………………。」
扉が閉まる。鈍色の光が閉ざされ玄関が暗転する。ごめんと言われたからすぐにわかった。体の力が抜け壁にもたれる。私は瞳を閉じる。
「––––––––いってきますだよ………………………ばか……………………………」
雨の音が聞こえないのに外では雨が降っている。不安なことがないはずなのに私の心は不安しか積もらない。今日はなんて悲しい日だろうか。そんな言葉をまるで旧友を想う詩人のように呟いた。
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