一節 動く世界 三

文字数 11,486文字

 男が屋敷に訪れるのは年に数回だけだ。もっとも禁足地にあたるこの場所で出入りが許されているのは日用品を運ぶ者とこの男しかいない。林冠が繁茂する並木道の行く末に表情がない無骨な黒い四脚門がある。緑黄がひしめき合い様々な生き物の息遣いが風のように伝わる夏の時期でもたとえ他の季節であろうとも一年で形を全く変えたないこの門は異質が漂っている。門の前に着くと蝉の声が忽然となくなる。籔をつつく動物の気配すらもなくなる。門の影に全てが呑み込まれているせいで周囲はとても暗い。暑い空気がなくなり熱を感じていた体からは体温がなくなる。脇戸を開けると玄関に続く石畳が見える。内側はさらに物静かだ。荘厳とした雰囲気というよりも蕭条とした張り詰めた空気と言った方がいい。石畳から縁側に接する庭を見ながら歩いていると縁側でご飯を運ぶ小さな背中が見えた。男はその姿が角で消えるまで冷ややかな瞳で見ていた。

 「食事中に失礼する」
彼女が食事を終えるまで川海が待つ縁側の角の逆から男が現れた。好意的な声色ではない尖りのある語気。川海は顔を見なくても誰かすぐにわかった。顔をうつ伏せる。
「お久しぶりですお師–––––––––––」
「穢れの譲渡が間近に迫っている」
彼は川海を一瞥することなく彼女に言った。彼女は顔を彼に向けたが一瞬だけ瞳を端に寄せて川海を見た。男の顔は相変わらず気色が悪く瞳も鷹の生存本能をぬききり鋭さだけ残ったような冷淡な眼差しのままだ。
「そうか。今年は早いのだな」
彼女はきゅうりの漬物を口に入れる。彼女の後ろにある湖からは蝉の声が残響している。木陰とひまわり色の陽光が混じり合う獣道には苔むした石がある。湖を通った濡れた風がそれらに何遍も触れるので石は常に黒く苔は翠玉色に輝いている。夏の太陽が地上を暑くさせても彼女らがいる屋敷は涼しい。屋内のほとんどが影であり渓流の近くのような気持ちの良い爽やかな風が当たる。彼女がそれを心地よく思うのは当然だ。だが、神の前にいるはずなのに等しく気が落ち着いている川海の様態は男にとって気になるものであった。
「出来損ない。お前から墨のにおいがする。何をやっている」
「––––––––––––––––––––––––––––––」川海は口を開けたまま瞳を動かしている。穢れの譲渡に代わる新たな方法を模索している。そんなこと言えばどうなるかわからない。八十禍津日神の穢れを完全に半分受けとらなければ穢れが全ての土地に充満してしまう。さらに失敗すれば神の穢れが下津国と現世をつなげる可能性が大いにある。自身がやろうとしていることは一歩間違えれば世界に対しての反逆と言っても差し支えない。思案がばれてしまえばその時点で全てが終わる。顔をうつ伏せているおかげで困惑して顔を固めた姿を見られることはない。だが、言葉を選ばなければ腹の底にある思惑を引き摺り出される気がする。乾燥した喉に唾を流し込む。「服の数が少なくまた使い古した服しか持っていません。ですから、神の御前に無礼を覚えながらもこのような貴賤な格好しかできなかった次第であります」
「––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––––」
無言が続く。見下す男の瞳が川海の四肢を微細に震わせる。
 確実にお師匠が望む答えじゃないことはわかっている。だけど、お師匠は何に疑いをかければいいのかわかっていないはず。今あるのはきっと私から感じた何かを不審に思っているだけに過ぎない。この無言を乗り切ればいい。とわかっているけど。
苦辛の息を吐露しかける口を固く閉ざす。幼い頃からずっとあり続けるその瞳の恐怖は簡単に払拭できるものではない。手の先に悪寒がはしり背中や脇が異様な熱気を帯びて体を気持ち悪くさせる。彼女は焦ったく思いながら二人を意に介さないように振る舞いご飯を食べる。干渉しては余計に勘繰られる可能性がある。場は静まっているが実際は互いの動きを事細かに見合っている。中でも特出して緊張していた川海は時が進んでいるかすらわからない。この時間が永劫に続くことすら現実的だと思えるほどに体の感覚が恐怖で麻痺している。
「––––––––––––––––––––」






湖の蝉の声がなくなる。





「-––––––––––––––––––––」
積乱雲が太陽を隠す。
「–––––––––––––––––––––––––––––––––––」



「––––––––––––––––––––––––––––服の手配をしとく。必要であればその都度、お前から頼めばいい」
「え?」
川海が顔を上げ思わず言葉を漏らすと男はもう反対側にある縁側の角を曲がっている最中だった。川海は正座したままうたた寝するかのように腰を少し曲げ瞼を閉じる。息を吸うたび頭が少し揺れ動いている。食事を終えた彼女は膝を立て座りくたびれた様子の川海を眺める。通り過ぎた積乱雲が太陽に薄い雲の幕を残す。ややひかえめな陽光が地上を照らし始めると蝉たちは控えめな声で鳴き始めた。彼女は川海が座る縁側の面にある庭の土壁を見る。
「出て行ったようだな」
川海の首が座らなくなり頭が左右に揺れる。頭の重さに引っ張られ体も左右に揺れ最後に頭を角の壁にごとっとぶつけて止まった。川海は体を壁に寄せていき肩と頭を壁に支えてもらう。
「どうしてかまをかけたのかな」
眉間に皺を寄せ深いため息を出す。
「思いのほかあいつはあいつでお前を見ていたのかもしれんな」
「そりゃ、お師匠は仕事に真面目に取り組む方ですから」
「嫌いなのか」
「え?」気怠さに負けて伏していた川海の瞳が彼女を見る。「–––––––––––」そして瞳をまた落とす。瞳は腿の近くにある小さな手を写している。「考えたことないです。好きとか嫌いとかで言い切れる関係でもない–––––––––––気がしますから」
 知ることに貪欲なやつだ。自身のことについても幾らかの調べたかもしれないな。いや、しかし調べるにしても方法がないか。あるとすれば––––––––––––。
彼女の視線が川海の口で止まる。
「–––––––––––––––––着物を調達できるようになったな」たすき掛けされた淡い鼠色の袖口に視線を移す。「これからは着物に盛大に墨をかけても問題がなくてなりよりだ」
「はい。本当によかったです」
彼女は強く頷きこたえた。ひまわり色の陽光が再び地上を照らす。蝉が高らかに鳴き始める。鳥はその声を聞くと顔を忙しなく動かし木々に擬態する蝉を探し始める。縁側の壁にもたれている川海の足元に光が当たる。仄暗い屋敷内が全体的に明るくなるとその分を埋め合わせるように欄干の影が濃く廊下に映し出される。
「時間のゆとりがある時は上等な着物を着て過ごせばいい。その髪を生かさないのは勿体無いからな」
「ありがとう。私もつつじに同じことを思っているよ」
「私の髪は死の国の色だ。そんないいものではない」
「なら私の髪は人の骸を漁る鴉の色になるけど」
つつじは仰向けになり腕枕をする。
「思ったよりお前は頭の回転がいい。話していて感心する」
呆れた息を鼻から出す。






一年と三ヶ月後

 話は伊邪那美命と伊邪那岐命の時代まで遡る。二人は様々な神を生み出していたが火之夜芸速男神を生み出したときに事件が起こる。火之夜芸速男神の出産を終えた伊邪那美命は火の神である火之夜芸速男神の炎で女陰に傷を負った。それが元となり彼女はこの世からさり下津国–––黄泉の世界に行く。伊邪那美命がいない現し国––––現世を悲しんだ伊邪那岐命は黄泉の国に行き伊邪那美命に会いに行った。二人が出会うことはできたが伊邪那美命は黄泉の国の食べ物を食べてしまい現世に戻ることができなくなったと伊邪那岐命に告げた。だが、こうして会いに来てくれたのだから黄泉の神に掛け合ってみましょう。その間に私の姿をご覧になってはならないと言った。伊邪那岐命は御殿に入った伊邪那美命を待っていたが待ちきれずに御殿に入ってしまう。そこで彼が目にしたのは身体中に蛆がゴロゴロと這いずり回る彼女の惨たらしい姿だった。
 伊邪那岐命はあまりの恐ろしさに逃げ出してしまう。それに気づいた伊邪那美命は恥をかかせてくれたなと怒り予母都志許売たちに命じて後を追わせた。彼女らの追跡を振り切るが新たに八の雷神と黄泉の軍勢が送り込まれる。命からがら現世と黄泉の国の境界線である山の麓の坂道に辿り着いた伊邪那岐命に伊邪那美命が自ら追いかけてきた。伊邪那岐命はその道に岩を引き据えその岩を挟んで伊邪那美命と向かい合った。
 あとは有名な話でその後が私たちの本題になる。
 私とつつじとお師匠は儀式が行われる檍原地の最奥地に向かい歩いている。私たちが住む屋敷があるのは檍原の縁辺地にあたる。そこから奥に行くまでは四日間かかる。今は三日目。樹海はどこも草木が密集しているせいでとても歩き難い。日頃から人が立ち入ることが決してない禁足地は幻想的というより自然の強さを肌身で感じることの方が多い。見上げなければ全容が掴めない木々は少し威圧的で鬱屈とした気分になる。蛇のように木に縛りつく茎は私の手より遥かに大きい葉を節操なく生やしている。樹冠に樹冠が重ねられた大地に光が入り込む余地はほぼない。道はいつも仄かに明るく湿った黒い土が足をからかってくる。たびたび道を阻む倒木した巨木は自然の法則を姿だけで語りかけてくる。内側から虫に食い散らかされたものがあれば腐った幹からキノコが生えたりしている。中には私が体重を乗せるだけで瓦解するものもあった。私はその倒木の姿に自然の法則を強く感じた。つつじと毎日空を見てなかったらきっとあまり法則と意識することはなかったと思う。木が育ち老いて腐るとその木は様々な生物の温床となる。きっと土に還るまで使われ続ける。他の生物も同じで生きているうちには捕食者となり死んでからはそれまで取っていった命を自然に還元させる。地上が円環しているのならこの自然も大きな円環を有していると容易に考えられる。密教の曼荼羅は本質をついているかもしれない。
「円環が摂理を綺麗にあらわしている」
先を歩いていた二人が立ち止まった。一番奥にいるお師匠は手元を見ている。その後ろでは右側を指差すつつじがいる。歩くのが遅い私と二人の距離は少しあったけど私が近づくまで何やら話しをしていた。私の足元からぺしゃりとぬかるみを踏む音が鳴る。つつじが反応して私に振り向く。お師匠がいるときは本来の距離感でいなくてはならない。先にお師匠が歩き始めるとつつじもすぐに歩き始めた。


 朝か昼かもわからない暗い森の中を歩く。変わる景色はなく視界を遮る無常の木々が延々とある。死臭がすればその近くには紫色の肉を覆うほどの虫が集っている。ここで死ねば自分もああなるのか。汗ばんだ体には常にしけった熱が体に張り付く。最初こそは渇いた時に水を飲んでいたが今では喉が渇いた感覚はないが時間の空き具合から飲んだ方がいいと判断するようになった。大人の歩幅に無理矢理合わせて自然の道を独り歩く。先導を見失えば自分も円環の一部になる。この森にいる限り続く仄かな死の空気にいつまで自分が堪え続けられるかわからない。






 陽の光が弱まる夕時はすぐにわかる。汗にまみれた体が急激に冷え始め悪寒が走る。芒洋とした闇が背後から広がり間が経たない内に視界の全てが漆黒に変わる。二人の姿はもう見えない。そこから私は顔をあげる必要がなくなるから顔をうつ伏せて木を伝い歩いていく。重度な疲れからそうせざるをえないという理由もあるが全く何も見えない闇の中では方向感覚がなくなるからでもある。横に行っているのか真っ直ぐなのかまた後退しているのか比喩ではなく本当にわからなくなる。だから、私は二人が焚き火をし始めるまで静かにゆっくり歩くしかない。枝が折れる音がどこからか残響してくる。視線を感じる。動物がじっと私が倒れるのを待っているのだろうか。籔の高さくらいの位置から冷気のような銀色の光が一瞬だけ視界に入る。林冠が柳の木のように幽鬼的に揺れる。だけど地上は凪いでいる。夜の樹海は神秘が漂う。見えない動きが私に畏怖を植え付け信仰という強迫観念を連想させる。祈るものはそこにないと理性は理解しながらも精神がそこにないはずの何かに赦しを乞うように言ってくる。昨年はこの闇の中で涙を流してしまいそうになったけど今年は乗り越えた安心感がまだある。それの根元には二人が私を置いていかない確証がある。
 そろそろかな。
少し離れたところから炎の光が見える。同時に火の息吹が鼓膜を揺さぶる。同時に静音になっていた心音が暖かくなる眼前に呼応して高鳴る。闇を吹き飛ばす烈火の炎はまさしく閃光だ。だけど、それだけの衝撃を与えながら瞳がそれに慣れれば心に安らぎを与えてくれる。私は闇の不安を全て取り除いてくれるこの炎を見ていると昨日と昨年とも同じく空海の話を思い出す。二年で留学を切り上げた空海を都が赦さなかったため彼は太宰府で時間を過ごすことになる。その時に彼は滞在していた寺院に多くの人を集めてその人たちに神秘を感じさせる。
 夜に多くの人を集めて全ての明かりを消させ視界に闇しかうつさせないようにさせた。最初は静まりかえっていたが闇の中にいる恐怖から次第に人々は口を開け始め動揺を広めていく。その時、寺院から火柱が立った。人々は一瞬にして口を噤み眼前にある輝かしい聖なる焔を見つめたらしい。空海は意図的に人に神を感じさせた。それはもしかしたら彼自身が唐で見た拝火教に影響されたかもしれない。私自身も今、その当時の人々のように拝火教を信仰する人々のように炎に魅せられている。白く塗られた聖の道を歩いていくとそこには二人がいる。

 「今日もご迷惑をおかけして申し訳ございません」
焚き火についた私は深く頭を下げる。体の節々の動きを気にする気力はもうないから私が思い描く動きより実際はかなりだらしない姿になっていると思う。お師匠は取れた川魚に竹串を刺して一度も直接魚に触れないように捌いている。
「こいつは私の食事を拵えているから先に川で身を清めてこい」
とつつじが言った。私は淡々と作業をするお師匠を顔を下げたまま見る。当然、反応はない。
「ご好意に感謝を申し上げます」


 もらった炎で川の近くで焚き火を作る。そしてその近くに洗った服を置き私は川に入った。汗まみれのどろどろの体から解放されると生の喜びを感じて満面の笑みを浮かべてしまう。川の穏やかな流れが膨れた太腿や脹脛を解してくれる。背中にある焚き火が程よく体を温めてくれるから体が底冷えすることはない。
「天の川」
川沿いは林冠に被れてない。だから顔を上げなくても水面にうつる星々を観測できる。手で水をすくえばかつてないほどに星が私に近づく。日頃は私が星に近づいている分それが余計にこの光景を感慨深くさせる。いつかはあの空の向こうに行って本当に星が触れるかもしれないと酔狂な想像をしたくなる。
 名残り惜しいけど今はするべきことがある。
私は瞳を閉じる。服が乾くまでの短い間に明後日に行われる儀式について考えなければならない。
 下津国から伊邪那岐命は葦原の中つ国に帰り着く。だがその身は下津国の穢れが付いていたため禊ぎをしてそれらを清めなければならなかった。そこで彼は筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に行った。そこの川の上流に着いた彼は禊ぎをするために身に付けていたものを次々と投げ入れた。その時に十二柱の神々が生まれた、次に彼は川の中流に行き身を投じて禊ぎをした。そしてさらに五柱が生まれた。底津綿津見神、中津綿津見神、上流津綿津見神。残りの二柱は神直日神と八十禍津日神となる。
 神直日神は八十禍津日神の禍つを直すために生まれた神とされる。そのため檍原家の頭首はその神に由来する名前か特出すべき才のある者が頭目であった場合は直日と名が与えられる。
 では八十禍津日神とはどんな神なのか。屋敷にある文献や檍原家の文献を借りて調べてみたけどわかることは禍神(まがつのかみ)であることのみだった。また私がともに過ごしている大禍津日神はたびたび八十禍津日神と同一視されることが多く彼女に関することも謎が多い。となると、参考になる文献は伝記物ではなく私が属する橘家とお師匠が属する檍原家の成り立ちに関することになる。両家がどのような経緯で八十禍津日神を監視するに至ったか。
 それは現世と黄泉の国との間で周期的に起きている戦いが起因するらしい。現世と下津国との境界線が曖昧になる時期が存在するらしくそのたびに現世と下津国を繋げたい勢力とそれを阻止する勢力に分かれて争っているらしい。両家が関係しているのは争いそのものではなくその周期に下津国から現世に流れる穢れが齎す災いについてだ。穢れが現世に分散されるたびに元々封印されていた八十禍津日神が力をつけていった。それはその時のみ力が上がるのではなく日頃から力をため特にその周期がくるたびに穢れを内側に溜め込み力を肥大化させていった。それから数百年の月日が経つとついに八十禍津日神は封印を破り現世に降臨している数少ない禍神として猛威をふるった。力をつけ過ぎた神を殺すことができなかった人たちはあることを考えた。禍神としての性質があるならそれに反する性質もその神は持っているはずだと。荒御魂と和魂を分離させ和魂の神に理性を保てる範囲で穢れを受容してもらえればこのようなことが起こることはないと。画して行われたことは功を奏する。その魂の分離の成功を導いたのが檍原家の一介の従者でしかなかった橘家の祖先である。功績を挙げたその人物は檍原家から橘という名を与えられともに八十禍津日神を封印するようになる。檍原家は主に八十禍津日神の穢れを外に漏らさないために結界を張り橘家は和魂である大禍津日神の監視役となる。橘家から屋敷にくる人間は大禍津日神の穢れに影響されない清浄なる器が常に求められた。そのため屋敷に勤める人間は川、河、海などの言葉が使われている。
 つつじは人が想うような神はおらず特異的な成り立ちまたは個体の枠組みを超えた生物がそれと呼称されるだけだと言っていた。現に大禍津日神と八十禍津日神という名前は明らかに神話の影響を受けている。加えて大禍津日神と八十禍津日神を別個体として扱う時の性質も神話と同じになる。八十禍津日神は悪神とされ大禍津日神は罪を戒める神とされた。両家の文献では八十禍津日神の出自については触れられていない。いつから封印されるようになったか。いつから檍原家があったのかについても知ることはできなかった。だけど、神話と実話の関係性が名前のみに留まるかについてはまだ断言できない。今日まで樹海を歩いていたけど明日からは景色ががらりと変わる。山の麓を歩いていることに変わりないのに本当に変わる。木々はなくなりだだっ広い平原がひたすらに続く。そこの中央には川があり目的地まで続いている。葦原中つ国という地名が神話で出ている。原という漢字は広大な平らな土地を意味して天子が住む宮殿を建てることができる土地を指す。さらに葦原の中つ国は黄泉と現世の境界と考えられている。これは拡大解釈になるけど私たちが歩いた昼夜を問わずに暗い樹海は黄泉の国を指していると言っても歩いた私から見たら無理のない考えになる。それら以外に類似性はなくまたここは日向ではない。読める文献を全て読んだ結果はよくわからないで終わった。
 ならつつじを屋敷から解放するためにどんなことをすればいいのかに焦点を当てて考えた。つつじの使命は八十禍津日神が穢れを溜め込み封印を解くのを抑制するために八十禍津日神から穢れを受け取ること。もしこれが定期的に行われなければ封印が解かれさらに世界の均衡が崩れ周期を満たしてないのに二つの世界の境界線が繋がることになる。簡素に言えば神の穢れを受け取れる新たな枠組みを造ればつつじの役割はなくなる。目的は明確だけど事態はそう簡単なことじゃない。神の穢れを受け取れる存在でかつ境界線を揺るがしかねないほどのその穢れを自然の循環の中で消化できるように抑制して外に放出する存在でなくてはならない。因みにつつじに穢れの受け取り方や抑制の仕方を訊いてみたけどわからないと一蹴された。
 次に考えたのはそもそもどうしてつつじがここから出られないのか。つつじが言うには魂に刻まれた契約印がありそれが行動を抑制させているらしい。その契約印の検討はついているけどとても巧く造られている。契約を破棄させないように造られたせいでそもそも触れられないようにできている。これは年に数回でしかも一瞬しか見られないからその時に観察して対策を練るしかない。
 一年と半年が経って分かったことはこの役目はつつじにしかこなせないこと。契約破棄は第三者がいなければ成り立たないこと。だから当分の間は数年間かけて契約印を明文化できるまで観察を続けることと穢れそのものについての実証的な研究を行うこと。後者に関しては穢れの神様がいるからできることが多い。
 やっぱり現状の状況下ではいくら考え直しても新しい手法は出てこないか。私は夜空を見上げる。聡明に輝く天の川は肉眼では捉えられないほどの小さな星が密集している。地上の川は触れられるが空の川は触れない。彼女はたった三十年で空を地上におろした。彼女の多くの日記が示したのは地道な探索の軌跡だ。今は一しか見えなくてもいずれ全が見えるようになる。それが知れたことは幸運だ。焦らずゆっくりやろう。持てうるものを全て尽くして……………。








 四日後の早朝。彼女らは八十禍津日神が封じられている場所に近づいていた。平原を流れる川沿いから遠目で見て緩やかに上がっている丘を登り終えたところだ。登り終えた先を見下ろすと環状の巨大な湖があった。彼らが登った丘が環状にその湖を囲んでいる。その姿は典型的なカルデア湖にあたる。その湖の中央に小山がある。その中に八十禍津日神の神がいる。湖を取り囲む丘の斜面はどこも苔のような木々の緑があり波のない水面がそれらの倒景を鮮明に映し出している。さらに空に浮かぶ雲も余すことなく詳細に映し出されている。三人は丘を下り湖に近づいていく。丘によって完全に隔離された湖の世界に他の生物の音は一切ない。湖畔についた二人は草履を脱ぎ足首付近にある着物の褄を膝までたくし上げる。草履を手に持った男が湖に素足で踏み入れる。水面の水が軽く跳ね返りその水が水面に淡い波を立てる。男は陸に残った足も湖に運ぶ。男は沈むことなくくる節あたりまでしか水に浸ってない。最後尾でその姿を見ている川海の視点からは男が水面を歩いているように見える。つつじも水面を歩き最後に川海が水面を渡る。湖の中には小山に続く石畳があり彼らはその上を歩いている。湖の中には生態系が存在しない。なので石畳に苔は生えていないし魚や虫すらもいない。石畳を外した水の底は空の光が届かないのでとても暗く底が見えない。ここには何もないが故に彼らの足が水を弾く音ですら残滓になり長く響く。太陽が小山の峰に隠され影が彼らの道程に被る。丘から見下ろした小山は巨大な湖に比べて印象が残るものではなかった。しかし、小山の影の中からそれを見上げると異質なものだと瞬時に理解できる。丘で見た時も眼前で大きく見える今でも山は等しく存在感がない。目から溢れるほどの大きな造形が目の前にあるのに何も感じない。さながら霧が創り出した幻影かと思えるほどに何も実体が感じられない。存在するのに存在しないように感じる理解の範疇を越えたその感覚が狂気的な神秘性を思わせる。だからこそ川海は改めて思う。この地には神がいるのだと。






 彼女らは時間感覚がわかない摩訶不思議な空間の到着地点に辿り着いた。小山に着きすぐにある切り抜かれた山腹の中の道を通り抜けると火口湖がある。周囲はほぼドーム状に上に伸びている剥き出しの岩が一帯を囲んでいる。そのため天井にある小さな火口からできる一柱の光しか光源となるものがない。だが、この中は狭いのでその光だけであたりは十分に照らされている。男がつつじを見やる。つつじが男の前を過ぎて一人だけ湖に入っていく。腰の高さまで体が浸かるとつつじは立ち止まり瞳を閉じた。彼女がいるところを越えた先は更に水が深くなっている。湖の底は彼女たちが見ている水面より数倍も深い。彼女が掌を水面にかざしてその片手を水平にあげる。黄昏の髪の毛先がほのかに浮き揺れ始める。湖の底には八十の柱がありそれらの中央に社がある。八十の柱から黒い電流のようなものがで始める。透度の高い湖の底で発生する黒い光は水面を超えて彼女らがいる地上でも閃光のような鋭い光を断続的に見せつける。湖の水面の波紋が幾重にも重なり広がっていく。それは次第に不規則に発生し互いに打ちつけ合い小波となる。突然、湖の底から雷の如き黒い光が湧き上がる。遅れて巨大な水飛沫が蒸発しながら飛び上がり轟雷が鳴り響く。雫が飛び散る中で彼女の瞳が開く。黒い瞳の奥には金糸が放射線状に広がっている。ほのかな鼠色がかかった彼女の視界には水飛沫の中央から枝を張り巡らした黄土色の菩提樹のようなものが見える。水が霧散していく中で水飛沫が水面に落ちる。大きな波が立ちそれは彼女の全身を呑み込み一瞬にして過ぎる。湖畔にいた川海たちはその波が湖畔にまで及ぶことを知っていたので近くの岩にしがみついている。間もなく全身が波のうねりの中に晒される。波が気骨な石の壁にぶつかり岩石海岸で波が岩に衝突するに近い音が響く。そしてその水が今度は湖に後退していく。川海の足元はまるで無数の手に引っ張られているような強い流れに足元を崩されてこかされる。
「今の湖に入れば穢れに殺されるぞ」
男がつつじに細心の注意を払いながら警告した。その声に鼓舞されるように川海は岩を握る手をさらに強め歯を食いしばる。二人の瞳からは湖が黒く澱んでいるように見える。波を堪え切った川海は息を吐き出し素早く立ち上がりつつじを瞳に映す。つつじと川海の本番はここからになる。男はその川海の行為を一瞥すると眉を顰めた。
 つつじの瞳には黄土色の菩提樹が湖の至る所に根を張っている姿が見えている。瞳の輪郭に黄土の光がはしる。瞳の中にある金糸がか細く何度も割れていき瞳一体に広がった時、輝きはさらに強まり純然たる黄金の瞳に変貌した。彼女は歩き始める。黄金の根を伝い菩提樹に歩いていく。それは神と言われるものだけに与えられた特権と言ってもいいだろう。神が理を知る木の幹に触れる。しかし、彼らの目には彼女が水面を歩き手をかざしているようにしか見えない。
 つつじを中心にして三重になった円が現れる。それぞれの円の間には空間がありその間間には梵字のようなものや草書体か象形文字のようなものが書かれている。さらにつつじの心臓部から線が広がりそれは一瞬にして彼女を取り囲む環状の物体となった。それにも似たような文字が施されている。川海はそれを必死になって凝視する。一度の瞬きすらしない。瞳の表層がそれらの形に凹む勢いで粒さに見る。
 もしかしてと思って梵字を読めるようにしてよかった。読める部位と読めない部位が存在するけど解読するための大きな手がかりを掴めた。
穢れの譲渡がなされる直前につつじの魂が解放されなければ穢れを取り込むことができない。故にこれは決められた機会の中でしか見られないものだ。神を縛るほどの契約印を施す場合はそれそのものの存在に紐付けなければ成立しない。普通ならば魂の領域に施された契約印を見ることは不可能だ。だが、契約そのものに契約が解放される条件が規定されていればその期間だけは契約印が外に出される。つつじ自身がその間に環状の外に行けば契約印は無くなるのだが穢れを譲渡されている間は彼女の意識は肉体に存在しない。湖の中にある穢れた黒がつつじの手中に収まっていき湖が透明に戻っていく。そして契約印は彼女の胸中に戻っていく。つつじが意識を戻す頃には完全にそれらは収束した。つつじの眼前にある菩提樹に亀裂がはしり枝が折れ湖に落ちていく。幹の中央に大きな亀裂がはしるとそれは裂け金粉となり湖の中で溶けて消えていった。
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