第一節 複雑な肉体 五

文字数 5,659文字

 解体を終えた私たちは近くにある河原に移動した。そこには私がたてた拠点がある。私たちは腕やナイフについた血を川で洗っている。彼の教え方は懇切丁寧でとてもわかりやすかった。最初に尿道を外に出すやり方には深く頷いてしまった。
「朔の師匠はとても誇らしいだろうな」
彼はナイフを陽光にかざし汚れや刃こぼれを確認している。
「それはないです」
ナイフについた水をきり納刀する。彼は平らな石を川につけ洗い始める。
「人に教えられるほど師に教えられたことを深く理解している。これほど弟子冥利に尽きることはないと思うぞ」
「物事の側面を知るだけで知識や技術の模範は反復すればできます」
耳が痛い話だと思った。腕を洗い終えた私は水を拭き取る。立ち上がり焚き火の前に座る。焚き火の周囲には四等分に切り一つずつ枝にさしたハツがある。ハツに脂身はほとんどなく臓器系特有の癖のあるえぐみもない。
「朔は真面目だな」
彼は私の前に座ると綺麗になった石にレバーを載せる。そしてナイフを取り出し火に近づける。
「普通だと思います」
「多くの人間は一つの側面だけ知れば満足するよ。さまざまな見方ができる事象が多い中で平等にそれらに向き合うことは人のキャパシティーを超えている。だから考えられないし考えない」
熱消毒を終えたナイフでレバーを切り始める。私はもう焦げ目がついたハツを全て取り立ち上がる。等分されたレバーを挟み私は彼の隣に座る。私が二本のハツを渡す。彼はありがとうございますと言い受け取った。
「私、生のレバーを食べるのが初めてなんだ。ありがとう。朔」
興奮して私が言った。私に近い朔の手がハツを持ってなければ肩を叩いていたと思う。
「––––––––」私の顔を映している瞳が鬱らに伏せる。彼は顔を焚き火に向ける。「…………シンセイさんはどうして私が敵軍の兵士のみに見えないのですか」
「どうしてだと思う」
これから何かに染まるであろう純粋な声は辛そうに思えた。だが、私は彼を助けてはならない。石の俎板に置かれたナイフには火に炙られ乾燥した血が付着している。
「わからないです。私は雷神軍に所属する物の怪が私を庇い命を救ってくれるまであなたたちが世界を壊すただの悪だと思っていました。…………自分達と全く違う生き物だと思っていました」
「私は親がそうだった。………今でもそうかもしれないが––––––。」彼の口から微かな息遣いが聞こえた。私に振り返る挙動を見せたがすぐにそれは止まった。鹿の瞳を布で隠した時も思ったがつくづく彼は他の痛みに敏感だ。私は彼が言葉を探す前に続けて話す。「だけど師の下でいろんなことを学んでいくうちにふと父は親だけではなく人間でもあるのかと思った。だから朔のことも敵軍の兵士としてではなく一人の人間として見られた」
「俺は何もしらなかったです」力んだ震え声だ。「雷神軍にいるものたちが俺たちと変わらないことも何かを守るために戦っていることも。俺は彼らがただの悪だと思い殺した」
「朔にもそうしてまで守りたいものがあったんだろ」
「…………………もう………わかりません。この世界の本当の価値も友人の命すらも……………………………………。何も………。」
「山は黎明を臨み海は斜陽を映す。しかし水は低きに流れる。故に流れに逆らえず。故に渓流は海となり。水に川となる自覚はなし。水に海となる自覚はなし。故に低きを知らず」私はハツが刺さる枝を河原の石の隙間に挟み立たせる。そして両手を後ろに回して胡座をかき上体を少し後ろに倒す。「私が日本を訪れた時期は外国人に対して当たりが特に強い時だった。その時の私は擦れていてな。どこに行ってもそんなやつらばっかりだったから私が偉くなったときに同じようにしてやるってポロッと師匠に言ったんだ」当時のことを思えば苦笑しか出ない。「それも師匠に助けてもらったその日に言った。そしたら師匠にその言葉を独り言のように言われた。私は今もその言葉の本当のところの意味は知らない。だけど、まぁ、なんとなく意味はわかる。………………今の私がその言葉に準じている自覚があるくらいには」
俎上の淵から血の滴が垂れ落ちる。私の体は暮色のような焚き火の色に染まっている。燃える木はカチカチと指先に慣れ親しんだ音を出している。
「––––––––––––––––ここは斜陽しか見えない」
彼が私に振り向く。声に出したつもりはなかった。彼はたとえ私が人間ではなくてもきっと振り向いていた。
「おかしいですよ。誰もが違いがないと知りながら戦うなんて」
呟くような声だった。だがそれは紛れもなく嘆きだった。
「朔、お前の目には世界がどう映る。お前の目には私がどう映る。おかしいのはどっちだ」
「–––––––––––。」
彼の口が閉じる。悲しみを深く感じさせる顔が焚き火の前で落ちる。
 正義という他を蔑ろにするための正当な手段をなくした彼は全ての価値が等しい世界に投げ出された。そして手元に残ったのは自分が直に触れた事実のみとなった。どんな言葉で塗りたくろうとも決して隠れない本質は今の彼には残酷な側面しかみせない。死んではいけないと思った者たちがたくさん死んだ。殺さなければいけないと思ったものたちはそんな彼らと違いがなかった。















 引き戸から夕日が差し込む時間に彼は帰ってきた。血の臭いを仄かに纏わせた彼は猫背で前より顔を下に向けていた。二階に上がったと思ったら十分も経たない内に一階に戻ってきた。私は肘をつき本を読んでいたが彼の落ち着きのない態度に視線は自ずと動いていた。
「もうすぐ晩御飯だと思うが」
引戸を開けた彼に言った。彼の体の幅と同じくらいに開いた引き戸から家に入る夕陽は床をべったりと赤くしている。彼の影はその上に淡く重なっている。
「今日はいい」
「………遠くに行ってはダメだぞ」
「わかった」
引き戸が閉まり室内に硝子が揺れる音が残った。私は視線を本に落とす。そして頁の角を触り字を追いかける。引き戸がまた開く。今度は戸を気遣うようにゆっくりと。
「先生、聞きましたよ。副将と口論したそうですね」
「少し戸を開けといてくれ」
一つ目は戸を閉めている手を止めた。そして式台に座り不慣れな履き物を脱ぐ。
「なにを話してたんっすか」
「鎮痛剤が欲しいと言われた。それで完全に私が管理下に置くならいいと返答した」
「他の薬と同じように現場の医療班に任させればいいじゃないですか」
「私の薬は薬包紙に包む性質状、知識を持っていれば誰でも調合した葉を分離できる」
一つ目は床に座り式代に足を置いた。
「どういうことですか?あ、もしかして先生の薬を疑っているものがまだいると思っているんっすか」
「はぁー」
ため息が出ずにいられない。外に行っても家に帰っても考えることばかりだ。一つ目は立ち上がり意気揚々と腕を組み
「大丈夫ですって先生。いざとなれば俺が説得して信用させますよ」
と言った。その明るい姿に安堵感は覚えないものの気分は軽くなる。
「いざというときがあれば頼らせてもらうよ」
「大船に乗ったつもりでいいですよ」
私は立ち上がり頭に入らなかった本を閉じた。
「今日のご飯の支度は私が手伝おう」
雑然とする頭に心地いい風がすぎ思考の通りが良くなる感じがする。
「先生の得意料理はなんですか」
「薬膳だ」
「確かにうまそう」
光明も何も浮かばないのでとりあえず今はそれから離れよう。なんとなくだがきっとその方がいい気がする。きっと自分だけでは絶対にそうはならなかっただろう。





 ご飯を食べ終わった私は服を着込み真っ暗になった外に出る。鍋を食べた後の体はとても暖かい。そのせいで私の吐く息が白み余計に寒く思える。和服を着ている今日は両手を袖の中にいれ歩く。また遠くに行ったと思うと億劫でしかないが––––––––––。
「今日は近くにいてくれたか」
石畳から斜面を下り川沿いにいた彼に近づく。彼の足元から無形の光が見える。そのおかげで闇に同化する彼を見つけられた。息遣いが感じられない静止した肩に近づけば近づくほどその体が虚だと感じる。どれだけ近づいても私が枯れ葉を踏む音と川の音しか聞こえない。
「今日は近くにいてくれてよかった」
彼の横に並び川を見る。水面は鏡面のように星々を鮮明に映し出している。輝く川はまるで星屑が底に落ちたと錯覚してしまうほどに形だけではなく輝きすらも取り込んでいる。彼が私を少しだけ見る。それも順番は決まって頭上と鼻だ。そしてそれが終わると最後に悲しそうに私の瞳を見る。
「まだここにいる。だから先に戻ってくれ」
「この川に情緒を抱かないほど私の感受性は廃れていない。だからまだここにいる」
「…………………。」
「…………………。」
「…………………。」
「……………空を見上げはしないのか」
「顔を上げる気にはなれない」
彼の中にあった私たちに向ける憎悪や闘志は完全に消失した。そして彼の意志はさもそれの対価のように儚げになった。あの牢屋を出て救われたのは彼ではなく私だった。
「星を見るのが好きだと空喰から聞いた。私にはわからないがそんな人間にはきっとたまらない夜空だと思うが」
「もう星なんて見てない」
「どうして」
「……………空を見ることに意味なんてなかったから」
虫の声や木の葉をさらう風の音さえ聞こえない今宵でようやく彼の声が聞こえる。空喰から聞いた星を見る少年の話は出来の悪い作話にしか思えない。私にとっては皆に可能性を感じさせる少年と言うより優しいただの少年にしか見えない。
「見つけて欲しい星座がある」
「そんな気分じゃ–––––––」
「死んだ母に聞いた星座なんだ。見つけてくれないか」
「––––––––––––––––」彼はそんな偉大な存在じゃない。だから一般的に言われる優れた為政者のように私を誰かたちではなくカスペキラとして見る。私はそれが彼の美徳だと思う。しかしそれは同時に名前のある誰かの痛みをずっと心に刻んで生きることを意味する。「星の名前を」
そう言った彼は顔を上げる。微小な光の粒子がちりばむ輝輝とした光の霞を越えた先に星が見える。今宵は銀河の見取り図が投影されていると言っても過言ではない。朔の瞼が開き白眼の全域が輝きを受け止めている。瞳は言葉を失いただ無垢に星の光を受け止める。
「––––––––––––––」
背負った全てのものを忘れた瞳に私は彼がここに来てしまった理由を知る。
「名前を教えて欲しい」
彼の声に気づき私の瞳が空を見る。
「カスペキラ」
「──すまない。力になれそうにない。その名前は初めて聞く」
「…………私と同じ名前をした星座だ」
「名前なのか……。」
「朔は自分の名前が好きか」
「……………人からはたまにいい名前だと言われる」
「名前は生を受けたものが持つ祝福だ。たとえそれの始まりが呪われたものだとしても本人と関わっていく誰かが絶えず意味を付帯させいつかそれが祈りとなり自身となる」私は彼の瞳を見る。およそ十代半ばの少年が持つには早すぎる影のある眼光。その中には一体どれだけの誰かがいるのか。誰かと関わることで傷つくことを極度に恐れていた私には到底わからない。「朔は月の初めの日を表す。一日の神は邪を祓うとされる桃の神–––大加牟豆美神。それに新月という意味もある」
「大加牟豆美神………。俺と繋がりあったのか」
彼は呟いた。何か理屈に合うことがあるらしい。
「新月には月がない。だからこうして私たちは一つの一つの星の輝きを取りこぼさずに見られる。しかしそれは夜光がないと無理だ」
「夜光?」
「この夜を照らす星よりも輝く光のことだ。それがなければ私たちは星を見ることができない」灯火がある。風前のそれは黎明に似つかないはずなのになぜかそれを想起させる。「今の朔にはきっと夜光がない。だから今は何も見えなくなっているだけだ」
「違う」か細い千切れそうな息が微かに聞こえる。瞼が下がり瞳をいきぐるしそうにする。「見えるようになったから俺は何もかもわからなくなった」
「今の朔の立場が視界を狭めているに過ぎない。敵軍の兵士や雷神軍の捕虜なんかじゃない。朔だからこそもらった多くのものがあるはずだ」
「––––––––––––」
私の手を彼の心部に––––––いや……心に触れさせる。朔は心にある私の手を見ると自ずと顔を私に向けた。
「交錯した肉体より朔の心が触れた世界に耳を傾けてほしい。ちょうど、この星々を見たように思い出してほしい」
「そんなことしても」苦しそうな吐息が微かに聞こえる。「何も変わるわけない」
「大丈夫だ」私の顔が微笑む。「かつて朔が見た星々は今も瞬いているはずだ。だから変わらないわけがない」
私は心に触れている手を下げる。水面の銀河に私と彼が淡く映っている。他が傷つくことを異常なほどに嫌う彼は私の瞳には憐憫にしか映らない。自分以外の誰かを知っていく度にその在り方はこれからも彼を悩ませ傷つける。朔、君はいつか気づく。
「–––––––––––––」
この世界は誰かを傷つけずには何かをなすことができないことを。それを知った朔は多くのものたちのように仕方ないと犠牲を誰かに強いるだろうか。それとも私のように悟ったふりをして孤独に生きるだろうか。
「明日もこうして空を見ようか」
それとも他の痛みとずっと向き合い続ける修羅の道を選ぶのか。
 私は顔を空に上げる。私が彼にここまで構う理由は罪悪感だけかもしれない。しかし、それだけではない気もする。正直、自分でもよくはわからない。昔、私を育ててくれた薬師は大人は勝手に子供と過去の自分を重ねると言っていた。だからそんな気もしなくはない。
 闇と光が溶け合うなにものでない夜。どんな生あるものが見てもみんな同じことを思う夜。誰の目にも平等に映る星々に抱く根底の想いはみんな一緒だ。ただそこから枝別れするいくつもの感情がある。歪な世界が見せる美しさに皮肉を思うものや世界すらも自分のものだと思うものやただただ感銘を受けるもの。挙げきれない感情がある。その中で私は願う。


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