二節 一なる世界 三

文字数 6,729文字

 まだ父に猟を教えてもらっていた頃の話だ。どのみち父と外で行動するのにわざわざ先に出て山の麓にある家に居着いていた。その家の二階には床が沈んでしまうほどの多くの本があった。その家の祖父が学者だったらしい。私は光が差し込む窓辺の近くでいつも椅子に座り本を読んでいた。窓から私の小麦色の肌が見えるわけにはいかなかった。だから陽光に直接当たらずその縁でいつも本を読んでいた。二階の明かりが使えればよかったがこの家の住人が二階に入らないことを狭い田舎の住人の誰もが知っていた。だから私が使うわけにはいかなかった。本の内容はとても退屈なものだった。難解な事象や専門用語、知らないおっさんの名前やおばさんの名前などに、さらには覚えのない価値観が常に押し付けられた。到底一度では理解できないし覚えられなかった。だが、大人になった今では逆にそうだったおかげでうまく時間を潰せたと思っている。
「また足を椅子に乗せて読んでいますよ」
「すみません」私はすぐに足を床につける。「小さくしてることが癖づいてまして」
「…………コーヒーを入れました」彼はコーヒーを手渡すと陽光が当たる本棚の側面に腰をかけた。外は雪景色だ。「ここは寒いですね。下の暖炉に行きませんか。落ち着きますし暖かいですよ」
「ありがとうございます。ですが、ここにいさせてもらえるだけでとても有難いです。それ以上のご厚意に甘えるわけにはいきません」
「そうですか」
彼の瞳は雪を反射させる真っ白な眼鏡のせいで見えなかった。私が故郷で唯一まともに関わった住人が彼だった。ここで生まれて育ったらしいが有色人種の私に攻撃的な態度を示すことは最後までなかった。私は腿の上に置いている本の題字をなぞった。
「私のような白くない人たちがいるなんて嘘みたいです。みんな罪を犯したからやっぱり色がついたのですか」
「あなたは罪を犯したから小麦色になったのですか」
彼は口籠もる私を尻目にコーヒーを飲む。それは長くはないのですぐに小さいコップから口を離す。
「記憶にはないですがきっとそうだと思います。その罪を思い出せない罪とその罪自体が私に色を付けているのだと思います」
「ではあなたがそう思う根拠は何ですか」
「神様に祈っても私の肌が白くならないからです。きっと神様は全てを知っています」
「盲目の羊を知っていますか」
「はい」
「あなたが勤勉で助かる」彼は口角を緩ませ頷く。「生きているうちに罪のない人間はいません。私もあなたの父親でさえもみな罪を犯しています。それが無垢が故にか、傲慢が故にかは定かではありません。ですが、イエスは人が罪なくしては生きられないことを知っています」
彼の顔の角度が変わる。光を反射している積雪の光が眼鏡の片側から消え瞳があらわになる。細い顔立ちと女性的な丸みがある儚い眼差しは線の細い体型と相まって彼を病弱に見せる。
「だからイエス様は私たちの代わりに罪を背負われました」
「イエスはそんなことをしません。彼のその説話は盲目の羊を語る彼の性格と似ても似つきません」
「ですが、優しいイエス様は犠牲になりました」
「罪を背負うことが優しさではありません。罪を識らずに罪を犯さずに生きることはできません」私は首を傾げた。本当に何を言っているかわからなかった。「人の可能性を信じた彼が人の可能性を否定する行為をする理由がありません」
「ですが清廉潔白な人生こそ私たち信者が目指すところではありませんか」
「人は弱さや罪を隠して生きたいと潜在的に思っています。その無意識の意識がそのような曲解を生んだだけに過ぎません」彼は窓に顔を向けた。そして何かを見つめた。「特に………………敬虔な信者ほどその傾向が強いのは皮肉な話ですが」
「言ってることが難しいです」
頭が困惑していくら考えてもわからなかった。眉間に皺を寄せた私はコーヒーを飲んだ。渋みが口に残らない爽やかな味のコーヒーは子供時代の私でも無糖で飲みやすいものだった。飲み終わった後は鼻から静かに息を吸いコーヒーの余韻を堪能した。すると問題は解決しないが頭はいくらかスッキリした。
「神はあなたを見捨てたから褐色にしたわけではないです。私はあなたの肌の色は綺麗だと思いますよ」
「だから私に優しいのですか」
「私は彼らと同じ立場にいながら彼らと重要にしている点が違うだけです」
彼はコーヒーを飲んだ。窓を見る瞳が何かを見つめ動いている。私はそれを見るとあの人が来た合図だと思った。
「どういうことですか」
私はコーヒーを一気に飲だ。手渡された時は湯気が立っていたが今では口内の温度以下だった。少し酸化した冷えたコーヒーを急いで喉に通すときは毎度胃が重くなった。泥でも飲んでいる気分だった。
「私は白人の文化を守ることを重点に置いています。ですがそれは他の州国家や都市国家などに行けば白く見られます。ですから暫定的にここにいます」彼は本棚から背中を離して空いた片手を近づけた。眼鏡の奥にある両目は雪のように冷たそうで静かだった。「最近ではそれよりも大切なことがあるかもしれないと思うようになってはいますがね」
私は頭を下げて空になったコーヒーカップを差し出された彼の片手に手渡した。そして立ち上がり
「ありがとうございます」
と慇懃になるように努めていった。図書館のような本棚で挟まれた狭い通路を歩きドアに手をかけた。私が扉を開け体が廊下に出た時に彼は言った。
「一つ訂正し忘れていました」
一階からノックが聞こえた。私は思わず一歩踏み出し階段に近づいた。
「なんですか」
「私のは優しさではなくあなたに同情しているだけです。あ、ついでにあなたの父が十秒以内に私かあなたが出なければ毎度勝手に部屋に入る意味も考えておきなさい」
「え………」私は彼と階段を交互に見た。その十秒はもう間近だった。「わ、わかりました」私は急いで頭を下げた。「今日もありがとうございました」
私はろくに彼を見ずに急いで階段を下った。父に迷惑をかけてはいけない。これは子供だった私がずっと心掛けていたことだった。玄関の扉を開くと肌を刺す冷気が突風のように体を過ぎた。背筋には氷柱の先がゆっくりとなぞり落ちるような悍ましさがある。鼻から入る冷気は氷の破片が肺に絡まっているような痛さを覚えさせる。父の胴体が見えた途端に私は頭を下げた。子供の時の私は父の瞳の意味を今と違い心で理解できていた。
 私はいつしか父を憎むようになった。その時から私は父の瞳を見られるようなった。

 「寒いな」
焚き火に最大限近づき立っているシンセイがつぶやいた。赤い両手を火先にかざしているがいまいち温度を感じない。朔は石の俎上で生レバーを切っている。
「俺は拠点に戻ろうって言ったぞ」
「それだとレバ刺しが食べられないだろ。千雨が感染症対策で禁止にしているせいで。あいつはいつも憎たらしいくらいに真面目だ」
解体された猪が川にさらされている。血はもう流れなくなり下流の川は澄んでいる。水面にはふすま雪が映されている。それは冬日向に表面をわずかばかりとかされ鏡面のように光を反射させている。シンセイは腕を組み体を震わす。光沢がある雪原は一見すると暖かそうだが体感温度は氷点下に近い。
「当然だと思うが」
「私は美味しいものを食いたいだけだ」
「それでも坊主の端くれか。肉ばかり好みよって」
焚き火の前で座るシオウが言った。彼はかつて大きな土地を持っていた高明な物の怪だ。
「世の中には破戒僧って言葉があるからセーフだセーフ」
「アウトだろそれ」朔は切ったレバーを小皿に乗せる。「シオウは塩だけか」
「この前、カスペキラ殿が作った植物油が大変美味しいと聞いた。今日はお前たちと同じように食べよう」
「それにしてもシオウ」シンセイは朔の隣に座る。そこの座席の斜向かいにシオウがいる。「人間嫌いのお前が私たちとまた狩りをするなんてどうしたんだ」
朔はシオウを見ているシンセイに小皿を渡す。だが、気づかなかったので肘で軽く彼女に突いた。
「いつまでも今が続くわけではない」シオウはシンセイからレバ刺しを受け取る。そして鼻を近づけ匂いを嗅ぐ。「それまでにもう一度くらいはお前たちと狩りをしておきたかった」
朔は石の俎上に残る生レバーに直接塩と油をかける。そしてシンセイと自分の間にまな板を置き直す。
「もう本格的な戦いが始まるってことなのか」
朔が言った。
「俺らはそのために集った」
赤い炎が彼らの双眸を染める。より一層赤い火の根元は足元を紅にさせている。背中から伸びる影はまるで鉄錆のように色黒い。朔は乾燥した汗に似た何かが皮膚に張り付いている気がする。
「だけど今はみんな戦う以外の道があることを知っている。人が敵だともう断定していた時とは違う」
シンセイは生レバーを食べながら生真面目に話す二人を見ている。
「お前の言い分は正しい。少なくてもここにいる物の怪は人間だというだけでかつてほどの敵対心を覚える奴はいないだろう。しかし、それだけの話だ」
「それだけって–––––」朔の声が些か強くなった。動揺しているようにも思える。「相手も自分と変わらないと知りながら戦うのか」
シオウは揺らぐ火影に被る彼を見据える。冷静な瞳に朔はすぐに浅慮で言っているわけじゃないとわかった。
「この世界には絶対的な現実がある。根本的に俺たちが同じかろうとも立場や理念が噛み合わなければどちらかが消失するしかない」
「だけど、その違いをうまく統合できれば争わずにすむ」
「それは無理だ」シンセイが言った。「朔、お前が言っているのはリベラリストの論理でしかない。お前が勝手に想像した誰かが本当に多く存在するなら本当に平和になれる。しかし現実にいる名前のある誰かたちは難解な過程を好まない」
「そんな難しいことじゃないはずだ。ここにいるほとんどの者たちは現にできたじゃないか」
「それはここにいる奴らには明確な敵や目的が共有されていたからに過ぎない。本来、他を理解する行為は難解だ。共通点が少ないと互いが思えば思うほどそれは遠ざかり個々人の持つ偏見が強ければ強いほど心体共に強い拒否反応を示す。私たちの敵だったお前ならそれら払拭させる難しさを知っているはずだ」
焚き火を見る彼女は彼女の知る現実を言った。その目はただ炎の揺らぎを投影させている。その瞳に朔は言い繕えない確かな現実を感じる。言い得ない無力が朔の拳を堅牢に作り上げる。
「分かり合えないから戦うじゃ……同じことを繰り返すだけだ」
無気力な声だ。朔が構想する理想は朔の瞳にはとても近くに見える。しかし、それは誰かに話すと途端にとても遠く感じる。どうしてか同じものが彼らの双眸には映らない。自分に近い大人ほどそれは顕著になる。
「………………………………。」
「–––––––––––兎も角だ。朔、下手なことはするな」朔の顔が上がりシオウを見る。「お前を大切に思うものを傷つけたくなければこの争いに参加するな」
「………………………。」
朔の顔が垂れ下がる。俎上に転がる赤いナイフが虚しさとどろっとした油のような血を思い出させる。朔はかつて雨が弾かれるほどに体に染み付いたそれがもう悪ではなく誰かの命だと知った。
 それでも俺は…………。
いただきますと言うとシオウはレバ刺しを口にする。臭みのない柔らかい肉が口内で簡単に解け油と混じり合う。そこに塩の風味が仄かにしてレバーの旨みを引き立てている。美味いものだった。美味いものだったが喉を抜ける時には言い得ない虚しさが胸底に音もなく広まった。シオウは白く輝く雪原を見渡す。木陰が薄れるほどの光に満ち足りた風光に浸ることはもう何度ともできない。
「美しいな」
それは旧友との別れを惜しむようなぼやきだった。














 駐屯地の様子が慌ただしくなり始めると千雨殿から朔の軟禁を言い渡された。それを期に彼は二階に篭るようになった。最初はその扱いに傷ついてそうなったと思っていたが唯一部屋を出入りする空喰によると何か考え事をしているらしい。
「それなら部屋から出てできるだろ」
と私は少しツンケンな態度で言った。
「あいつにもあいつの考えがある。少し様子を見てくれ」
彼女は穏やかな口調で言った。朔の話になるといつも彼女の表情や声は柔らかくなる。そんな彼女はいつも一人でしていた晩酌をここ三日間ほどやっていない。晩御飯を私と二人で食べ終えたが今も例にならって片手には酒がない。代わりに緑茶と膨らみが足らないパウンドケーキがある。
「過保護じゃないようで過保護だな。空喰は」
「適度に関わらなければあいつのためにならないからな」
土間にある竈門の火は消していない。炎があるとこの部屋はそこそこ暖かい。一応電気はあるにはあるが部屋の明かりを点けるだけの電力しかない。何かと彼女たちには不便を強いているが文句を言うどころかいい家だと言っている。私は冷えた足先を重ね擦る。去年の冬は一つ目と朔もいて食べていた。そうじゃない日がたった一週間続くだけでここは思いのほのか寒い場所だと思うようになった。
「私はもっと近くでいろんなことを言っていいと思うが」
お茶を持った私は椅子に深くこしかける。そしてコップのそこに手を添え湯気が立つお茶を飲んだ。
「いいんだ。今は近くで見てくれるやつがいるからな」
火が薪をわる音が聞こえた。薪はまるで氷がゆっくり溶けていくように炎の中で時間をかけて灰になっていく。部屋の中は風にさらされることがないから炎はずっと一定の熱さを保ちとろとろと燃えている。緑茶が内側から体を温め始める。加えて彼女の聞き心地のいい声が気持ちを妙に落ち着かせる。私は口を大きく開けてあくびをしてしまう。
「–––––ふぁ〜。………祈りことか」
「祈りか…………」彼女の視線がパウンドケーキに下がる。「あいつはその逆だ」
「そうは見えないが」
「近づけば自分が甘えてしまうと思っている。だから、適度な距離を保っている」
「なんだそれ」私はお茶をコトッと置いた。すると彼女の視線はテーブルから私にゆっくりと上がっていった。「男同士の関係というやつか」
「男同士。考えてもみなかったな」彼女は微笑んだ。私は和菓子切でパウンドケーキを切る。「確かに対等に見られたい気持ちもあるかも知れない。だが、一番にあるのは友を思う気持ちだろう」
「全くわからない」
「まぁ、色々あるということだ。あいつらは歳の割に合わない経験をしてしまったが故の関係があるからな」
釈然とはしないがそう言われると言葉が詰まる。切ったパウンドケーキに和菓子切を差し込み口に突っ込む。私はそれをまるで噛み砕くように食べる。
「思ったよりうまくできたな」
「祈りが作ったのか」
口に残るパウンドケーキを飲み込む。
「朔がいつも作っていたからこの前、教えてもらった」
「朔が?」彼女の姿勢がやや前のめりになる。すると銀色の髪はらしくなく大きく動いた。「あいつに菓子作りができたとは………。」
「そんなに驚くこと」
「あいつとの付き合いはそれなりに長いがそんなこと知らなかった。いや、むしろ甘いものはあまり好まないとまで思っていた」
「それはないと思うけど」
「そうなのか」
「甘口のおかずを普通に食べている」
彼女は腰掛けに背中をつける。そして唸るような声を漏らす。
「意外だな。この前まですき焼きが苦手だと言っていたのに」
「それいつの話」
「六年前だ」
「六年って………そんなに前なら子供の舌は変わっているだろ。私なんかたった一年で身長を抜かれたぞ」
「その話は関係ないだろ」
「そのくらい子供にとっての一年は早いってことだ」
「あぁ〜」彼女は肘を机につけ頬杖をする。顔は土間にある竈門に向いている。「そうだな。全くもってその通りだ」
「ところでそのパウンドケーキを食べないのか」
「欲しいならやるぞ」
「私、そんなに大食いに見える」
彼女が私に振り向く。
「見えないが」
「………ふぅ」私は腹に溜まった微妙なむかつきを吐き出す。彼女はたまにこういう無駄な会話をする。特に距離が近くなってからは会話の流れが私となんとなく合わないと思うようになった。「感想を聞きたいから食べて欲しい」
「教えてもらったと言っていたな」
瞳を下げて膨らみの足らないパウンドケーキを見る。因みに焼き加減もいい加減だったので表面が美味しそうに焦げていない。
「失敗した料理ほど他人から感想を聞きたくなる」
「祈りも同じようなこと言っていたな」
空喰は頬杖をやめ肘を机から離す。和菓子切を指先で掴みパウンドケーキを切り始める。彼女の最初の口に入れる前の一言は
「硬いな」
だった。二言目は
「うん、甘いな」
という淡白な感想のみだった。私はその日から洋菓子をかなり練習した。
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