第一節 複雑な肉体 十

文字数 9,369文字

数十日後

 千雨が本陣のテントに入ると一人とすれ違う。顔を伺えば挨拶もせず足早に出ていった。またかと千雨は思う。黒雷がいる机の上に持ってきた地図を広げる。くるまった地図を中央から角に手を滑らしてきっちり伸ばして重石で止める。それを全ての角にやる。
「今度はどのような理由ですか」
「自分は今の権力基盤が気に食わないから入っているだけで物の怪どもと仲良くするためではないと申しておったぞ」
作業を終えた千雨は目を細め机から手を離す。目にかかった前髪を鬱陶しそうに耳にかける。
「強制した記憶はないです。身勝手な意見です」
「だが、やつが言わんとしていることもわかる。多くのものが関わりあえばまだ納得してないものが孤立してしまう」黒雷は腕を組み顎髭を触る。「まぁ、その雰囲気ができる以前は関わりを持ちたかったものには肩身が狭いものであったがな」
「ですので気は配っているつもりです」
「何も貴様が気を使うことはあるまい。それぞれの意見とものの考え方がある。それを曲げることはそうできん」
「わかっています。ですが」千雨は思わず手を握る。宴の光景が彼女の胸を今だに熱くさせている。炎のように鋭くそれでいて凛然とした眼差しが黒雷を見る。「可能性を知ったからにはできうることはしたいと存じます」
黒雷は頷く。
「良いではないか」口角が上がり嬉しそうに言った。「我を通してこそ我が軍の副将に相応しい」
千雨は微笑んだ。黒雷の瞳や心はいつも正直だ。だからこそ彼女はいや他のものたちも彼を心で理解できる。だからこそ理屈を超えて黒雷の理想の一片を見られる。
「さぁ、軍略を練るとするか」
黒雷の一言で千雨の雰囲気が変わる。黒雷の顔つきも威厳にあるものになる。
「はい」
多くのものは彼が優れた思想家であることを実感はせずとも理解している。だが、彼が優れた為政者であることを知るものは一部しかいない。大業をなす犠牲の多さを知りながらも彼は旗を振る。夢を見て死ぬものの顔が非業なことを知っている。敵が自軍と変わらないことも知っている。しかし彼は止まるつもりはない。非情であるが故にか。私欲を肥やすためにか。それとも我が理想のためにか。














 根雪が溶け始め若い芽がまだらに広がる大地に朔は居合抜きの体勢で立っている。冬を越えかけ陽光はすっかり暖かくなっているが雪がある地面は今だに冷たい。柄を握る手の拳は皮が薄く伸びているため骨が直接冷えた外気に触れ漠然とした痛みを感じる。彼の鼻から厳かに出される息はやや白んでいる。瞳を閉じた彼は体を自然に落とし始める。肉体が感じる感覚の限界を捨て精神が持つより直感的な概念にすら満たない微かな変化を感じるようにする。自然と自身の隔たりはやがてなくなり希薄化していく肉体と対照的に精神は膨大な情報量に晒される。遠くの湖が揺れる波紋や虫の羽音や陽光が数日かけて溶かす根雪が溶ける音など枚挙にいとまがない。
「そこまでだ」木の幹に背もたれ座る男が言った。朔の瞼が上がる。少し間を置くと潜水した後のように口を大きく開け息を吸っては吐く。居合の姿勢のまま肩で息を吸う朔の両手は震えている。「次は実戦だ。準備ができたら言え」
「わかった………。」
ヘドロが全身についたような重みを感じている。朔の足は崩れ仰向けに倒れた。彼曰く先ほどやった瞑想は一に近づくためのものらしい。それを終えた後は朔は毎度肉体に煩わしさを感じる。もっと言えば肉体が殻のような気がしてならない。
「お、いたいた。朔―」
「聞こえてるかー」
返事を出そうとしたが喉が動く感覚が嫌に実体的に想起された。慣れない感覚に抵抗を感じた朔は口を閉じ鉄のように重い片手をふらふらとあげる。地面を伝い聞こえる濡れた新緑を踏む足音の間隔は短い。片方の息は朔とそう変わらない高さから聞こえもう一方は上から聞こえる。
「修行でコッテリ搾られたか」
まん丸いたぬきの顔が視界に入る。この物の怪は酒呑みで大食漢なので相当な肥満体になっている。しかし今の彼の体型は変化術によって、ただの肥満体に収まっている。本来の姿では腹が地面について歩けない。
「うへぇー…………」あまりの酒気に朔はすぐに顔を横に向けえずく。「千雨さんに酒は造るなって言われていただろ」
吸ってしまった気持ち悪い暖かい息を肺から吐き出す。
「あれは隠れて造れっていうサインだよ」
狸は変化を解き尻尾を地面につけどっぷりと座る。脂肪が揺れる音が水面に落ちる一雫のようにぽちゃんと鳴った。
「そうだぞ。大きな問題さえ起こさなければ千雨副将は見逃してくれる方針だと思うぞ」
真上には腕を組んだ男が大きく頷いている。朔はため息を出す。つい二日前に千雨さんが気が弛んできたものたちを縛り上げると言っていた。
「………節度を超えているようにしか思えないが」
「まぁ、そう硬いことを言うなって」男が手を差し伸ばす。「立てるか」
朔は手を伸ばし男の手を握る。そして繋がりを頼りに起き上がりたち上がる。
「ありがとう。助かった」
「いいさ。お前に礼を言われるのも悪くない」
「そうそう。気にする必要はないない」
「肥満たぬきは何もやってないだろ」
「俺様のカワチイお手てじゃ無理なの」
揶揄い合う二人は楽しそうだ。見ているだけの朔も少しだけ楽しく思える。
「で、俺に何の用が」
「あぁそうか、そうだったな」
たぬきを見ていた男の顔が朔に向く。たぬきも立派な腹をかきながら朔を見上げる。
「俺たちもここから出ることにするよ」
たぬきが普通に言った。朔に驚きはなかった。彼らが初めてではなかったからだ。
「どうして」
「こいつも俺も話し合えばわかりあえたから戦わなくてもどうにかなるんじゃないかって思ってな」
「互いにどんな奴か知らないから敵だとか怖い奴だとか自分とは違う奴だとか勘違いしてるんじゃないかって思ってな」
続けてたぬきも言った。そして次は男が言った。
「やり方はまだわからないが酒でも呑みながら考えるさ」
「そうか」
朔は寂しく思いながらも新たな道を選んだ二人を強く尊敬している。
「お前はどうするんだ。ここに残って戦うのか」
「俺は––––––––––––––––––––––」
頭が真っ白になる。何も考えずに日々を過ごしたわけではない。彼は自らの意思に従い行動してきた。しかし、それはあくまで自分の道となるまで固められたものではなかった。
「藤田、それは」
たぬきが少し声を低くして言った。含みある言い方やたぬきの深刻な表情に男は忘れていたことを思い出した。
「あ………えっと」藤田は朔に顔を向ける。彼の指は言葉を出せない心情を述べるかのようにぎこちなく動いている。「………その、悪い」
「いや、捕虜と謂う身分のせいじゃない」朔は顔を横に振る。「俺はまだこれからのことを単純に決めきれていない」
男とたぬきは顔を見合わせる。互いに眉を上げて驚いた顔をしている。すると突然、たぬきは立派な腹を叩きながら笑う。それを見て男は「だよな」と言った。
「俺たちはもう行くよ」
たぬきは恰幅のいい体を深いため息と共に動かし前足を地面につける。そして気張った声を出し腹が地面につかない程度に変化した。男は朔に手を差し出す。
「次会えた時は酒でも呑もうぜ」
朔が男の手を緩く握ると彼は朔に対する感情を出すかのように強く握った。熱を帯びた固い握手に朔はただ圧倒され等しく返すことができない。
「わかった。藤田もコノハも元気で」
またこうして朔は慣れてしまった言葉を言う。交互に見る二人の瞳は彼にとって朔日に見る星のように見える。
「じゃあな」
二人は口を揃えてそう言うと歩き始めた。決して振り返らずに陽光に満ち足りた雪解けの道を歩いていく。林冠が重なる巨大な影から朔はその姿を見る。片手には熱がある。それは手には一時しか残らないが心に篝火のように淡くも屹然と残り続ける。また星のよう輝き永遠に彼の双眸に残る。なぜなら彼の瞳は一度も星座を忘れたことがない。
「お前はチェ・ゲバラのようだな」
木にもたれていた男は立ち上がり太刀を佩く。
「彼に例えられるほど偉大じゃない」
「偉大か…………なるほど」長髪の男は端正な顔立ちだ。だからか滅多に表情を変えない彼が細く微笑むだけで皮肉に思える。「偉大な思想家であったが為政者ではなかった。だからカストロに上手く扱われ最後には死んだ」
「何が言いたい」
「お前はもっと人や物の怪の心を理解した方がいい。いや、習性と言う方がいいか。出なければいつかお前は「あいつは俺を象徴にした」と叫ぶだろう」
男は片手に持っている朔の刀を投げる。
「それは忠告か」
朔はそれを受け取り左手で持つ。
「……………………道を示せるものには相応の信念がある。それはお前の刀身を強くさせる」男の周囲の空気が乾く。際立つ男の風格に朔は身構える。「そしていつの日か俺が求める強者になる」
 男の名前は鏖刀(オウトウ)。朔に刀の使い方を教えた師になる。朔の知る刀使いの中で生涯比肩する使い手が現れることはおそらくない。











 駐屯地に設営された一番大きなテントは病室のテントになる。最後の遠征から一ヶ月が経つ頃には半分以上の患者はここを出て健常者と変わらない生活を送る。満床だった頃にはテントの近くに行くだけで話し声が聞こえていた。だが今では細長いテントの中で寝返りをうつ患者の音が目立つ。数ヶ月前なら残ったものたちは先行きの見えない長い治療に辟易していたり病状の悪化を陰ながら怯えていたりしていた。
「今日の調子はどうだ」
「普通だよ。先生」
彼は栞を挟まずに本を閉じる。そして反り返った本の上に手を置き平にさせる。聞き慣れた言葉に呆れながらも私の言葉にしっかり返事をする。
「今日は外出する気分になれるか。外が凍て解けている」
「別にいいよ。ここにいなくても春は感じられる」
「この老体は春を五感で感じたくて仕方ありません」彼の病床の向かい合わせのベッドから一つずれたところに長い髭を持つ蛇顔の物の怪がいる。彼は戦いで片腕を失いさらには人間で言うところの心臓が酷く損傷した。今は一命をとりとめているがいつ急変してもおかしくない。「ですが口惜しいことにこの身はまだ立てそうにありません。誰か私に春を話してくれるお方がいらっしゃるといいのですが」
二人とも仰向けで全く顔を合わせていない。だが青年が苦笑すると物の怪のお爺さんはそれを見たかのように意地の悪そうな笑みを浮かべる。互いの反応はさながら顔が見えているようだ。私は視線を感じテントの一番奥を見遣る。少女の猫耳がピンと真上に立つ。すると慌てて私から顔を背けた。
「先生、俺ずっと気になっている人がいるんだけど」
彼女の顔がすぐに彼に振り向く。だけど私と顔を合わせるとまた驚いて顔を背けた。
「誰が気になるんだ?」
私は少し大きな声で言った。
「朔ってやつに会いたい」
「朔に?」私は顔を彼に向ける。「どうして。奴は男だぞ」
「どんなすごいやつかなって」
彼は付け足すように「別に男が男を気にしてもいいだろ」と言った。
「すごいやつだがそんなに凄いやつじゃない」
私は「失礼な発言だった。すまない」と付け足した。
「それってどう言うことだよ。あと、俺の性自認は男だ。勘違いしないでくれよ」
「あぁ、そうなのか」私は咳払いをして話の本筋を話す。「───そのままの意味だ。あらゆることから目を背けないただの人間だ」彼は私の目をじっと見る。それも無言でだ。「––––––––––––なんだ」むず痒い気になる。
「先生ってそいつのこと好きなの」
「そんなものじゃない。もっと複雑なものだ」
「大人の恋愛ってやつか」
私は思わずため息をだしてしまう。
「君はもっと見聞を広めた方がいい。本ばかりではいらない外側の知識だけになるからな」
「同意ですな」
おじいさんが言った。
「じいさんはこの前は本を読むことが大切だって言ってたじゃないか」
「ではある程度大事だと付け足しましょう」
「これだから大人は」
彼が口を尖らせて言った。
「まぁ、話はまとまったところだし外に出よう」
「いや、まとまっていない」
「彼女一人に行かせるつもりなのか」
「え?はぁ?彼女?」
私は顎先を前に動かす。彼が横を向くと上体を上げた彼女が背を向けていた。テントの中が静まりかえる。彼は私に向き直り瞳を彼女がいる端に一瞬だけ寄せる。私は一度だけ頷いた。すると目を細め「本当かよ」と言わんばかりの些か憎たらしい表情になる。何度も顎先を前に出し彼が彼女を見るように半ば強引にしつこくやる。彼が再び顔を横に向けると彼女と瞳が合った。彼女は目をぎょっとさせ首が心配になるほど高速で動き顔をあさってにやる。
「あの………。外に行きたいですか」
彼が言うと彼女の耳が飛び上がるように立つ。彼女の顔がゆっくりゆっくりと動く。ようやく顔の半面が見えるとこくこくと何度も頷いた。

 二人が出た後のテントにはお爺さんと私が残った。私はかつて満床だったテントを見渡して寂しくなった今を少し誇らしく見てしまう。
「それにしてもあなたの変わりようには驚きを隠せない」
「おいさきが短いとわかり名声よりも私の名前の知る誰かに何かを残したいと思っただけです」
私は彼の病床の横に椅子を置き座る。彼との時間は嫌いじゃない。
「あなたが嫌っていた人にそれを望むなんておかしな話だ」
「朔という人間が今の潮流を造る以前から彼と彼女は関わりあっていました。それをたまたま何度か目にする内に奪うよりも築き上げる方が尊いことだと思っただけです」
彼は穏やかに言う。私はうたたねするかのように曖昧に相槌を打つ。テントを透かして体を温める春光が時間の経過を鈍足に感じさせる。
「どうして」
「奪うには時間がかかりませんが後には憎悪しか残りません。ですが築き上げることは時間を要しますが後には憎悪ではない何かを残します」
「曖昧だな」
「ははは」彼は小っ恥ずかしそうに笑う。「この年でそれを言うには躊躇いがあります」
「何だそれは」彼の笑みにつられて私も微笑んでしまう。「ところであなたの歳は」
「おおよそですが五百くらいかと」
「五百か……………………。」
私は顔を見上げて明るい天井を見る。短期間で急激に変化した今の時間は私の人生の中でもにわかに信じ難いことだ。当然、皆が仲良くなったわけじゃない。患者が溢れかえっていた最初は人間嫌いも物の怪嫌いも混在していた。それは人間側の陣営のテントも物の怪側の陣営のテントでも同じだった。しかし、患者の数が減少していくと明確な棲み分けがされた。その中で私が受け持ったテントは人間か物の怪か気にならない患者たちの集まりになった。静かだった病室は外からの活気に溢れる声が日に日に大きくなるにつれ徐々に騒がしくなった。それにあてられ精神病を患っている彼や彼女のような患者ですら口数が増えていった。
「そういえば藤田殿とコノハ殿には会いましたか」
「あぁ、もう出立すると言っていた」
「またいつか彼らに会いたいものですね」
「そうだな」
こうして誰かと関わることをいつしか好いていた私自身にも驚きも隠せない。だから想うことは多く一言で表すことはできない。しかし、一つだけたった一つだけ明確に思えることがある。私はそれを口に出さずに密かに思う。

 私の方が倍以上も年上だ。














 午後七時。家に着いた私は入って最初に土間にある靴を見る。今回は綺麗に並べられた二足の靴がある。式代に座り靴を脱ぐ。調理場からすき焼きの匂いがする。口には出さないが家に帰って誰かがご飯を作ってくれるありがたさを思うことが多い。
「おかえりなさい」
朔の声だ。階段から降りる音を鳴らしながら挨拶をした。
「ただいま」
こうして挨拶をすることにも感慨深いものがある。人が多く住めば騒がしくて嫌な半面、家が生きているような気になる。
「先に座って待っている」
「私もすぐに来るから先に食べといていい」
「どうせすぐなら待っとくよ」
私が立ち上がり後ろを向くと朔が暖簾をくぐり調理場に入っていく姿が見えた。最近の彼は暇を見つけては上階にある積み重なる本を読んでいる。一昔前に私が外側から社会を観察しようと思いかき集めた歴史や政治や思想や経済などの本がある。結局、根本的に書かれているのはほぼ同じだったため一度読んだだけで終わった。私自身としては偏屈な人間になってほしくないので読んで欲しくない。

 「お疲れさまです。カスペキラさん」
「そっちもおつかれさま」
私が調理場に入ると祈りが声をかける。朔の友人らしい。何でも捕虜になった朔が心配になって黒雷殿と取引をしてここに来たとか。仔細な内容は知らない。とりえず、朔が脱走しようとしない限り身の安全は保証されるらしい。朔が取り皿を並べている。祈りは両手で持つ鍋を中央に置にある台に乗せる。
「今日は勝てたのか」
私は椅子を引き座る。その隣には朔が座る。
「勝てるわけがないだろ。あれで俺に実力を合わせてやっているから嫌になる」
祈りは彼の正面に座る。
「なら別に修行をすることはないだろう」
祈りが鍋の蓋を開けると白い蒸気が部屋に溢れかえる。肉の油とすき焼きのタレが交わる濃厚な匂いが胃袋になだれ込む。私は顔を上げネギや肉や白菜などの具材が入った鍋を見る。朔は顔を上げることなく祈りが具材を取り終えるのを見ている。
「そうだな。そうなんだが何故かしなくてはいけない気がする」
「まさか彼らの戦いに加わるつもりか」
「それはない。絶対に」彼はすぐに否定した。祈りがお玉の持ち手を朔に向ける。彼は私の取り皿をとりお玉を持つ。「どの勢力にいる奴らも単純に一括りにはできないが似てない奴らはいない。権力に固執する奴らが争う分には構わないが守るために戦うものたちが争うのは見てられない」
具材が入った取り皿が私の手元に来る。中には私が見えなかった牛蒡がある。私がありがとうと言うと別にと気のない返事をする。十二月を越えたあたりから彼が代わりに取ってくれるようになった。子供の成長は想像していたより早かった。
「朔らしいね」
祈りは頬を緩めて言った。
「そんなことない。それが俺らしいなら初めからもっと多くのことが気づけていたはずだ」
「そうかな。僕が出会った頃の朔と今の朔は紛れもなく同一人物だと思うよ」
自分の分も取り終えた朔は両手を合わせ頂きますと言った。祈りと私も遅れて合掌して言った。祈りの料理はしばしば甘いと感じる。食べるものによっては好みの明暗がかなり分かれる味付けだ。本人もそれを知っているようで一つ目や空喰がいるときはあまりご飯を作らないようにしている。
「君たちはいつから友人なんだ」
私はその味付けが祈りにとっての母の味だと聞いて納得した。
「八年前からだったと思う。初めてあった時は塔子の仕事について行った時だ」
祈りは先ほどから機会を見ては少しずつ食べている。
「懐かしいね。こうして今も昔も一緒にご飯を食べて、さらに一緒に星を見られるなんて半年前ではとても考えられなかった」
「……………」私は何気なくでそうになった「どうして」を喉に押し込む。彼らの時折見せる表情は子供のそれではない。割れ物を扱うかのように尊く当たり前の日常を思っているとわかる。「ところで、上の本は君の興味をそこまで掻き立てるものなのか」
止まっていた朔の箸が動き出す。汁を絡ませた肉をご飯の上に乗せる。
「興味もなければ面白くもない。できれば読みたくない」
「ならどうして読んでいる」
「事例を知りたいからだ」
「何の」
祈りが言った。
「おそらくこの戦いの根本的な要因は資源の問題だ。種族間の争いに関しては指導者層が煽っている表層的な部分にすぎない」
「資源というのは土地や森などのことか」
「そうだ。それらの資源を共有できる方法があれば少なくても大きな争いは解消されるはずだ。それをやった一つの事例がEUになる。元々は欧州石炭鉄鋼共同体から始まっている。そこから拡大させ苦境を乗り越え現在でも参加国は減ったが保っている」
「だがそれは当時のヨーロッパの状況がそうさせたに過ぎない」
「そうなのかい。僕が習った話ではもう二度と争わないために平和に基づく思想で結成されたと聞いたけど」
私が続けて話す。
「二度の世界大戦を終えたヨーロッパの土地は荒廃していたんだ。どの国も争う余力がなかったに過ぎない。加えて冷戦を迎えた時代でもあった。超大国の争いに巻き込まれる危機感が常にあったんだ。大陸で繋がっているソ連がいつ侵攻してきてもおかしくなかった。同じ危機に晒された国々が一種の共同体としての感覚を持つようになった結果が成立につながっただけだ」
「あぁ、わかっている。両者が妥協する一番決定的な瞬間も。だから俺は今、困っている。そんな強大な第三者がいないし、たとえいたとしても対立を煽ったために生まれた結束でしかない。そんなものは現状を改善した行為とはいえない。それにEUと同じ体制を整えるならどちらの陣営にも属さずかつより上位の存在を造らないといけない。お互いを罰せられる組織がなければ条約を反故することが容易になるからな」
私は素直に彼に感心した。本の知識にただ受動的になるのではなく能動的に考え自身に必要な論理を立てている。それでいて机上の空論にならないように実例を基準に物事を考えられている。
「朔、君は本を読むのが上手いんだな。感心するよ。ちゃんと物事を繋げて自分で考えている」
「そんなことない」彼は私に振り向く。彼の方が視線が上なのにまるで私を下から見ている気にさせる。「カスペキラの置いている本が多角的な見方を可能にさせている。カスペキラの本棚がなければ俺はここまで考えられなかった」
私の口が緩む。緩まないことはできない。だからあまりはしたなく頬が溶けないように努める。
「その世辞は快く受け取るよ」
「あぁ」
彼はいまさら恥ずかしそうに顔をプイッと横にそらして正面に向き直る。そして箸を取りようやくご飯に乗っけた肉を食べる。私は彼に褒められたことも確かに嬉しく感じた。しかし、何よりも嬉しく感じたことはそんなことじゃない。
「朔、具材が少なくなっているな。取り皿をよこすんだ」
「自分でやる」
「祈りもくれないか」
「はい。ありがとうございます」
立ち上がった私に祈りは素直に渡した。私は取り皿いっぱいに具材を入れ祈りに返す。
「ほら、朔も」
私が手を伸ばす。すると彼は「ありがとう」と言って渡した。彼の分も当然、具材をいっぱい入れる。そして彼に渡す。
「多すぎる」
「大人は子供の成長を強引に願うものだ。押し付けがましくても受け取るんだ」
それを聞いた祈りは笑った。
「確かにそうかもしれません」
「自覚があるなら自重できるだろ」
「それは無理だ。朔も成長すればわかる」
「何だよそれ」
雪はもう溶ける。春が来る。そして夏が来る。秋や冬もまた訪れる。どこまで続くかは知らない。いつかに訪れる旅立ちまで私は寂しくも嬉しくも近くで見る。そしていつか歩き始めた彼を遠くから見守る。
「祈り、朔」
「なんだ」
朔はご飯を食べる。
「はい」
祈りは私の顔を見る。
「長生きしてくれ」
「………………」
 祈りは瞬間に苦しそうな顔をした。朔はそれに被せるように「わかった」と返答して祈りに「生きるぞ」と力強く言った。すると彼はそうだねと精巧な笑顔で答えた。

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