第42話
文字数 2,641文字
*
やっとの思いでつれだしたのはいいが、ユージイは、かなり臭い。彼らの部屋にこもっていた悪臭のみなもとは、まちがいなくユージイだ。
よく考えれば、ずっとベッドからおりてこないということは、水浴びもしていないだろう。大小の排泄はどうしていたのだろうか。
「アブセス。食堂から湯を持ってこい。誰でもいいから、廊下をウロついてるヤツを二、三人、手伝わせて。大至急だ」
アブセスを追いだすようにこき使っておいて、ワレスは窓を全開にする。
あの部屋の連中は、よくもまあ、こんな匂いに耐えていたものだと、ワレスがつぶやくと、急にユージイは平常心をとりもどしたのか、恥ずかしそうにうつむいた。
やがて、たらいいっぱいに湯が運ばれてくる。
「とにかく、おれは忙しいんだ。できるだけ早く、この事件を片づけたいからな。湯浴みしながら話してくれ」
ワレスが命じると、ユージイはなにやらモゴモゴ口のなかで言っている。ワレスに対する悪口らしかったので、
「イヤなら、おれは目をそらしてやるが? 裸を見られて恥ずかしいとでも言うのなら」
ユージイの態度はとたんに一変した。
「ダメです! ちゃんと見てください! 目をそらしちゃいけません。まばたきもしないでください!」
露出狂のようなことを口走って、思いきり服をぬぐ。
それを見ながら、あの雑巾のような服は即刻すてさせようと、ワレスは考えていた。
「それで、おまえはいったい何を見たんだ? ユージイ」
ユージイはもそもそと語る。
「……アイツは、どこからだって来るんです。アイツにとって壁は水みたいなもので、自在に泳ぐことができる」
「以前にも、そんなことを言っていたらしいな。だから、おまえの話に興味を持った」
「あの夜はリストンと組んで見まわりをしていました。私の任務は通常、闇の五刻から明けがた十刻までの本丸一階、西大廊下——」
「細かいことは必要に応じて聞く」
「はい。夜の廊下の見まわりが任務です。夜になると女の霊が出るというウワサは聞いていました。だから、見まわりのとき、女が立っているのを見て、すぐにわかりました。これが例の亡霊か……と」
「なるほど」
「女が話しかけてきました。今から思うと、夢のなかのような、変な感じの声でした」
「肉声ではないようだったということだな?」
ワレスにも思いあたる。
昨夜のエミールの声。たしかにエミールの声だった気はするが、どこがと指摘はできないものの、いつものエミールの声とは響きが違っていた。
姿が幻覚であるように、声も幻聴なのだ。
「女はなんと話しかけてきた?」
問うと、ユージイのおもてが急激に紅潮してきた。唇をかんで両手をにぎりしめ、全身をふるわせる。憤怒のためだとわかった。
「よりによって! アイツ、笑わせるッ。姉さんにでも化けてくれりゃ、おれだって自分からとびついていったのに!」
「知った女だったのだな?」
たずねたが、じつは聞かなくても、ワレスはその答えを知っていた。
ワレスが見たのは死んだ母だった。たぶん、ユージイも……。
「当ててやろう。おまえの母だろう?」
すると、ユージイはとつぜん叫びだした。
「うわああああッ!」
たらいの水をぶちまけだしたので、ワレスは気に入りのアルラ製の絨毯 を思って嘆息した。
「まあ、水だから、シミにはならないだろう。熱で少しちぢむかもしれないが……」
ふう、と大きく吐きだしたワレスのため息は、ユージイには聞こえていないようだ。一人でわめきちらしている。
「よりによって、アイツ、こう言いやがったんだ! 『おまえの大好きな母さんですよ』だって? バカにするな! ちくしょうッ! ずっと殺したいほど憎んでたんだぞ!」
「なぜ?」
「おれをすてて……おれや姉さんをすてて、男と逃げやがった。父さんは病気で死んじまう。姉さんはおれを育てるために、酒場で酌婦を……そのせいでヒドイめにもあって……くそッ! アイツ、殺してやる!」
ユージイはわめきながら、こぶしをふりまわしている。
ユージイの気持ちは、ワレスには自分のことのように理解できた。
ひとなみのあたたかな家庭を、ワレスが失ったのは五つのときだ。母が死んだあと、世界が百八十度、逆転した。正義は死にたえ、悪徳と強者だけが正しくなった。
世界を憎み、悪態をつくだけの日々のなかで気づかなかったが、今こうして自分と同じ痛みを持つユージイの態度を見て、ワレスは自分の憎悪の奥に秘めた、もう一つの感情を読みとった。
長いあいだ、自分自身ですら気づかなかった思いに。
「おまえが信じてほしかったのは、おまえが見た女の霊ではなく、おまえが自分の母を殺したいほど憎んでいることか?」
ユージイは静かになって、ワレスをながめる。ワレスの次の言葉を待っているようだ。
「それなら、おれと同じだ。おれの場合は父だったが」
この手で殺したことを後悔はしていない。だが……。
ワレスはユージイに歩みより、その肩を両手でつかむ。
「父が憎かった。酒に酔っては、おれをなぐった。アイツは悪魔だ。アイツはおれを悪魔だと言ったが。アイツはなぜか、母が死んだのは、おれのせいだと思っていたようだった」
ユージイは落ちつかないようすで硬直している。
ワレスはユージイの耳に息をふきこむようにして、ささやく。
「あんなのは、おれの父じゃない。おれが愛し、尊敬していた父じゃない。そうだろう?
おれも忘れようとしたさ。アイツが食事を作る母のかたわらで、おれに読み書きを教えてくれたこと。暦の読みかたや足し算、引き算。ファートライトの物語を聞かせてくれたこと。祭りの日には肩車をしてくれた。
一人で生きていくために、おれはそれらを忘れた。いや、忘れたふりをして、思いださないようにしていた。心にかたく鍵をかけて」
ユージイはうなだれた。
「…………」
「そうだろう? ユージイ。一心に憎んでいられるのなら、そのほうがいい。そのほうがずっと気持ちがラクだ。ほんとは愛していたから、裏切られたことが悔しいのだと……愛されなかったことが悲しいのだと、認めたくはなかった……」
ユージイの目から涙がこぼれおちていくのを、ワレスは自分のことのように見つめた。
(こんなバカらしいこと、おれに言わせるな。ハシェド。おまえのせいだぞ? おまえが、おれの心をすっかり弱くしてしまったんだ)
愛を知ると弱くなる。
薄汚い宿なしのドブネズミと蔑まれようと、女にたかるヒルと罵られようと、図太く、たくましく生きてきたのに。
やっとの思いでつれだしたのはいいが、ユージイは、かなり臭い。彼らの部屋にこもっていた悪臭のみなもとは、まちがいなくユージイだ。
よく考えれば、ずっとベッドからおりてこないということは、水浴びもしていないだろう。大小の排泄はどうしていたのだろうか。
「アブセス。食堂から湯を持ってこい。誰でもいいから、廊下をウロついてるヤツを二、三人、手伝わせて。大至急だ」
アブセスを追いだすようにこき使っておいて、ワレスは窓を全開にする。
あの部屋の連中は、よくもまあ、こんな匂いに耐えていたものだと、ワレスがつぶやくと、急にユージイは平常心をとりもどしたのか、恥ずかしそうにうつむいた。
やがて、たらいいっぱいに湯が運ばれてくる。
「とにかく、おれは忙しいんだ。できるだけ早く、この事件を片づけたいからな。湯浴みしながら話してくれ」
ワレスが命じると、ユージイはなにやらモゴモゴ口のなかで言っている。ワレスに対する悪口らしかったので、
「イヤなら、おれは目をそらしてやるが? 裸を見られて恥ずかしいとでも言うのなら」
ユージイの態度はとたんに一変した。
「ダメです! ちゃんと見てください! 目をそらしちゃいけません。まばたきもしないでください!」
露出狂のようなことを口走って、思いきり服をぬぐ。
それを見ながら、あの雑巾のような服は即刻すてさせようと、ワレスは考えていた。
「それで、おまえはいったい何を見たんだ? ユージイ」
ユージイはもそもそと語る。
「……アイツは、どこからだって来るんです。アイツにとって壁は水みたいなもので、自在に泳ぐことができる」
「以前にも、そんなことを言っていたらしいな。だから、おまえの話に興味を持った」
「あの夜はリストンと組んで見まわりをしていました。私の任務は通常、闇の五刻から明けがた十刻までの本丸一階、西大廊下——」
「細かいことは必要に応じて聞く」
「はい。夜の廊下の見まわりが任務です。夜になると女の霊が出るというウワサは聞いていました。だから、見まわりのとき、女が立っているのを見て、すぐにわかりました。これが例の亡霊か……と」
「なるほど」
「女が話しかけてきました。今から思うと、夢のなかのような、変な感じの声でした」
「肉声ではないようだったということだな?」
ワレスにも思いあたる。
昨夜のエミールの声。たしかにエミールの声だった気はするが、どこがと指摘はできないものの、いつものエミールの声とは響きが違っていた。
姿が幻覚であるように、声も幻聴なのだ。
「女はなんと話しかけてきた?」
問うと、ユージイのおもてが急激に紅潮してきた。唇をかんで両手をにぎりしめ、全身をふるわせる。憤怒のためだとわかった。
「よりによって! アイツ、笑わせるッ。姉さんにでも化けてくれりゃ、おれだって自分からとびついていったのに!」
「知った女だったのだな?」
たずねたが、じつは聞かなくても、ワレスはその答えを知っていた。
ワレスが見たのは死んだ母だった。たぶん、ユージイも……。
「当ててやろう。おまえの母だろう?」
すると、ユージイはとつぜん叫びだした。
「うわああああッ!」
たらいの水をぶちまけだしたので、ワレスは気に入りのアルラ製の
「まあ、水だから、シミにはならないだろう。熱で少しちぢむかもしれないが……」
ふう、と大きく吐きだしたワレスのため息は、ユージイには聞こえていないようだ。一人でわめきちらしている。
「よりによって、アイツ、こう言いやがったんだ! 『おまえの大好きな母さんですよ』だって? バカにするな! ちくしょうッ! ずっと殺したいほど憎んでたんだぞ!」
「なぜ?」
「おれをすてて……おれや姉さんをすてて、男と逃げやがった。父さんは病気で死んじまう。姉さんはおれを育てるために、酒場で酌婦を……そのせいでヒドイめにもあって……くそッ! アイツ、殺してやる!」
ユージイはわめきながら、こぶしをふりまわしている。
ユージイの気持ちは、ワレスには自分のことのように理解できた。
ひとなみのあたたかな家庭を、ワレスが失ったのは五つのときだ。母が死んだあと、世界が百八十度、逆転した。正義は死にたえ、悪徳と強者だけが正しくなった。
世界を憎み、悪態をつくだけの日々のなかで気づかなかったが、今こうして自分と同じ痛みを持つユージイの態度を見て、ワレスは自分の憎悪の奥に秘めた、もう一つの感情を読みとった。
長いあいだ、自分自身ですら気づかなかった思いに。
「おまえが信じてほしかったのは、おまえが見た女の霊ではなく、おまえが自分の母を殺したいほど憎んでいることか?」
ユージイは静かになって、ワレスをながめる。ワレスの次の言葉を待っているようだ。
「それなら、おれと同じだ。おれの場合は父だったが」
この手で殺したことを後悔はしていない。だが……。
ワレスはユージイに歩みより、その肩を両手でつかむ。
「父が憎かった。酒に酔っては、おれをなぐった。アイツは悪魔だ。アイツはおれを悪魔だと言ったが。アイツはなぜか、母が死んだのは、おれのせいだと思っていたようだった」
ユージイは落ちつかないようすで硬直している。
ワレスはユージイの耳に息をふきこむようにして、ささやく。
「あんなのは、おれの父じゃない。おれが愛し、尊敬していた父じゃない。そうだろう?
おれも忘れようとしたさ。アイツが食事を作る母のかたわらで、おれに読み書きを教えてくれたこと。暦の読みかたや足し算、引き算。ファートライトの物語を聞かせてくれたこと。祭りの日には肩車をしてくれた。
一人で生きていくために、おれはそれらを忘れた。いや、忘れたふりをして、思いださないようにしていた。心にかたく鍵をかけて」
ユージイはうなだれた。
「…………」
「そうだろう? ユージイ。一心に憎んでいられるのなら、そのほうがいい。そのほうがずっと気持ちがラクだ。ほんとは愛していたから、裏切られたことが悔しいのだと……愛されなかったことが悲しいのだと、認めたくはなかった……」
ユージイの目から涙がこぼれおちていくのを、ワレスは自分のことのように見つめた。
(こんなバカらしいこと、おれに言わせるな。ハシェド。おまえのせいだぞ? おまえが、おれの心をすっかり弱くしてしまったんだ)
愛を知ると弱くなる。
薄汚い宿なしのドブネズミと蔑まれようと、女にたかるヒルと罵られようと、図太く、たくましく生きてきたのに。