第73話 ワレスの秘密 5
文字数 2,132文字
ワレスを壁ぎわに追いつめて、青年はくちづけてきた。そのキスは不思議な甘さを持っていた。官能的であると同時に、心の奥に刺さった
ワレスは口中に固い粒が凝っていくのを感じた。青年が舌をぬきだすと、その上に小さな赤い石が乗っていた。小さいが血のような色あいの紅玉だ。
「これは、あなたのアーチネスに対する想い。まあ、私のコレクションのなかではクズ石ですね。紅玉としては最上級だが、この世にある、ありきたりの石にすぎないし、この大きさではね。アーチのあなたへの想いにくらべたら、かわいそうなくらい小さい。これではアーチがつらくなるはずだ」
「おれの想いを奪ったのか?」
「あなただって、アーチのことは忘れてしまいたいでしょう? 弄んだうしろめたさがあるから」
「…………」
「次はもっとつらい想いを忘れさせてあげましょうね。あなたのもっとも深い奥で、今も血を流している」
ふたたび覆いかぶさってきて、青年は唇を重ねる。心というものが体のどこにあるのかわからないが、まるでその深奥までもぐりこんできた青年の舌に、犯されているような気分になる。だが、それでも抗いがたいほど心地よい。
——そう。それでいい。忘れてしまおう。天使の羽がこんなに深く心臓に突き刺さって、あなたは死にかけている。かわいそうに。つらかったでしょう?
ルーシサス。おれの天使……。
この十年、ワレスがずっと苦しみ続けてきた想いだった。
ワレスを自暴自棄にしてジゴロに
(ルーシサスのことを、おれが忘れるのか?)
(そうですよ。それからほかの大勢のことも。あなたはほんとにたくさんの愛と死別してきた。あなたほど多くの悲しみを抱えた人を見るのは初めてだ。人間の短い一生のなかで、こんなにも……)
ルーシィ。ミスティ。マルゴ。ダディー。シルフィード。シェレーラ。ハイリー……ほかにも、たくさん、たくさん。
おれの愛した人は必ず死ぬ運命だから……。
(忘れる……みんな忘れてしまえば、おれの心は、きっと軽くなる。でも……)
おれが忘れて、どうするんだ?
彼らはみんな、おれのせいで死んだのに。
おれを愛したために死んだ。
彼らと愛しあった記憶を消すことは、あの人たちがこの世に存在した過去を消すこと——
「どんなにつらくても、おれは忘れない。それが、彼らと生きた証だから」
ワレスが青年の腕をふりきって逃れると、彼は悲しげに微笑んだ。
「……そう。しかたありません。あなたのその想いなら、私の首飾りのまんなかを飾るにふさわしい至宝となったでしょうに。でも、これでわかりました。なぜ、何人もの人が私のもとを訪れるほど、あなたを愛するのか。あなた自身が宝石のように強く美しいからだ。
では、私はあなたの想いを奪うことはやめます。そのかわり、あなたが私の恋人になってくれませんか? 私はあなたを宝玉に閉じこめて、会いたいときだけ外に出すことにする。そうすれば、このさき数千年の生涯を、私は一人ですごさなくてもいい」
「なぜ、おれが、愛してもいないおまえの恋人にならなけりゃならないんだ」
「私とあなたが似た者同士だからですよ。私はね、私の種族の最後の一人です。大勢の仲間と死別しました。あなたになら、この気持ちをわかってもらえると思うのですが」
「…………」
つらいのはわかる。
愛する人を失って、その記憶を抱いたまま生きていくことが、どれほどつらいか。ましてや、青年の寿命はワレスより遥かに長いらしい。
「……それでも、おれは今をともに生きたい人がいる」
ハシェドの姿がそこにあった。
「隊長……」
「おれはおまえといられて、とても嬉しいよ。二人でならんで他愛ない話をして、いっしょに笑って、食事して、文字の読み書きや剣のけいこ……どんなつまらないことだって、おまえと二人なら楽しい。おまえがいてくれるだけで、世界が違う色に見える。おまえは、そうじゃないのか?」
ハシェドの両目から涙がこぼれおちてきた。
透きとおる宝石のように。
ワレスがハシェドを抱きしめると、ふいに夢からさめたように、レンガ造りの家と、そこに住む孤独なミダスの末裔の姿が消えていた。
エニシダの茂みのなかで、二人は抱きあっていた。
ハシェドはあわてて離れようとしたが、ワレスは力をこめて、さらに強く抱きしめる。
「ハシェド。おれにはある事情があって、どうしても本気で人を愛するわけにはいかないんだ。おまえには、いつか必ず、そのわけを話すから」
ハシェドが息をのみ、問いたげになった。が、今はこれ以上、言うことはできない。言えば、きっとハシェドは、ミスティと同じことを言う。そんなのは迷信だから、思いすごしだから、大丈夫だと。
(でも、ミスティは死んだ。おれの目の前で)
いつか、おれが一人で生きていける強さを持ったら、そのときはすべてを話し、そして、おまえを自由にしてやる。
「だから、もう少しだけ、おれのそばにいてくれるか?」
ハシェドは黙って、ワレスを抱きかえしてきた。
静謐な森の空気が、二人の想いを神聖なまでに高めてくれる。