第21話
文字数 2,621文字
ハシェドのようすがおかしい。昼間、前庭ではぐれてからだ。
夕刻の食堂。
ワレスは、そっとハシェドのようすをうかがう。
「食欲がないみたいだな。ハシェド」
食堂は真昼ほどではないが、夕食の時間帯もそれなりに混んでいた。
ワレスたちの今の任務は、日が暮れてすぐからなので、夕食は混雑のなかで食べることになる。
周囲のざわめきのなかで、さっきから、ハシェドはひとことも口をひらかない。
輸送隊が兵糧を届けたばかりの夕食だ。ふだん、砦では食べられないものが多い。しなびれやすいやわらかい野菜のサラダや、
それなのに、ハシェドはいっこうに食が進んでいないのだ。
「ぐあいが悪いのか?」
かさねてたずねると、
「あ、いえ……」
そのときは思いだしたように食べるのだが、すぐにその手が止まる。
(ぐあいが悪いというより、心ここにあらずだな)
とても気になることが、ほかにあるのだ。自分が今、何をしているのかも、よくわかっていないようだ。
「ああ、もう! 班長のことはいいんだよ。おれは、あんたにむかって怒ってるんだ。はい、しっかり、聞いて。隊長!」
ハシェドに気をとられていたワレスは、エミールの声で我に返る。
食堂が忙しい最中だというのに、エミールは仕事をさぼって、ワレスのとなりにひっついている。
「……わかった。わかった。だから、あやまってるだろう? 一昨日のことは以前から、カナリーと約束してたことで、しょうがなかったんだ。おれに盗人の嫌疑がかかったおり、協力してもらったからな。あのとき、勝手に腹を立てて、おれの話を聞こうとしなかったのは、おまえだろう? だから、おれはカナリーから手かがりを聞きだすしかなかったんだ」
「もう、人のせいにして! 勝手に怒ったんじゃないよ。あんたがヒドイこと言ったんじゃないか。おれはあんたを心配してたのに、おれのことジャマ者あつかいして!」
「すんだことをグダグタ言うな」
「ああッ。そういうのって横暴なんだ! あんたって、専制君主だよ」
「難しい言葉を使うようになったじゃないか。勉強してるのか?」
話をそらすと、エミールはワレスの耳に口をあててきた。
「ヘンネルのおじさんに習ってるんだ」
ヘンネルはギデオンの前に中隊長をしていた、コリガンの元補佐官だ。エミールの出自を知っている。今は正規隊にもどって小隊長をしているのだ。
「そうか。そうか。えらいな。おれの持っている詩集をおまえにやろう。キレイな絵入りで、けっこう高価なんだぞ」
「ほんと?」
「ああ。おまえの声で読んでほしい」
エミールは機嫌をなおした。物欲でごまかされるところは、エミールの美点だと思う。
それにしても、給仕係の情報収集力はすごい。
食堂に集まるウワサ話はバカにならないということだ。
おとといにワレスが本丸の怪異にでくわしたことが、カナリーといたこともふくめて、もうエミールの耳に届いている。
エミールはちょっと首をかしげて考えながら言った。
「おれさぁ。ちらっとだけど、聞いたことあるよ。そのバケモノの話」
「どんな話だ?」
「壁が水でなんとかって。なんか変なこと言ってたんだよね。忘れちゃったけど」
エミールの水色と若草色の色違いの双眸を、ワレスはのぞきこんだ。
「その話、もっとくわしく知りたい。誰が話してたんだ?」
「忘れたよ。思いだしとく」
「そうしてくれ」
キスしてやると、
「今日はリンナの味。甘くて苦いよ」
ふいに色っぽい猫みたいな目つきになる。
エミールは去っていった。
「あの小悪魔め」
ちらりと、ハシェドを見る。
ハシェドの前でエミールやカナリーたちと愛の行為をかわすのは、特別な気分になる。
ハシェドの気持ちを知っていて、ふみにじっていることへの罪悪感と、裏腹に、ハシェドの嫉妬を見ることで愛されていると再確認する安心感。高揚感。告白できないことへのあてつけのような、ゆがんだ愛の形。
妬ける? 妬いているのか?
おれを愛してるから? そうなのか?
いつも、そうして、
だが、このとき、ハシェドはワレスを見ていなかった。自身のまわりで何が起きてあるのか、まったく気づいていない。
ワレスは気分を害して立ちあがった。
「ハシェド! 食事がすんだら帰るぞ」
「あっ、はい……」
ついてくるものの、やはり生気がない。
(手紙をにぎりつぶしていたな)
昼間の中庭でのこと。
自分の受けとった手紙を読みおえて、ハシェドの姿を探した。ハシェドは深刻な表情で手紙をクシャクシャに丸めていた。
見てはならないものを見てしまったような気がした。
ハシェドはワレスの前で、過去の苦労話をしたことはない。ハシェドの境遇なら苦しくないわけはないのに、いつも、おだやかに笑っている。
その笑顔の裏に隠された苦悩をかいまみた気がした。
声をかけることができなかった。
一瞬、目をそらしたあいだに、どこかへ行ってしまった。
「ハシェド」
苦しいのなら、おれに話してくれ、と言おうとして、ワレスはやめた。
ワレスだって、ハシェドに知られたくない過去はある。
父殺しのことは知られてしまったが、それがワレスの最悪の罪というわけではない。
この身に受けた辱めのすべてを、ハシェドに
おれの生きかたは汚い。
容易には語れない。
ハシェドだって、話したいときには自分から話すだろう。
考えなおして口をつぐむ。
ハシェドはようやく気がついたように、ワレスを見た。
「——すみせまん。ぼんやりしてました」
「おまえがそんなようすでは、今夜は仕事に行かせられないな」
「いえ。大丈夫です」
「そんなときに死ぬと言ったのは、おまえだぞ。いいから休め」
すると、とつぜん、ハシェドは真剣な顔で叫んだ。
「今夜は隊長といさせてください!」
「えッ?」
一瞬、夜の誘いかと思って、たじろぐ。
よっぽどワレスが驚愕していたのか、ハシェドは大あわてで訂正した。
「すみせまん。変な意味じゃありません。ただ、そばにいたいんです」
ワレスは苦笑した。
「いいだろう。クルウに言って、持ち場を変わるといい」
「はい」
もうじき闇一刻。日没だ。
いったん内塔五階の自室へ帰る。
すると、待っていたかのように扉をたたく者があった。
「ワレス小隊長は在室か?」
その声は、メイヒルだ。
「中隊長の飼い犬が、今ごろ、なんの用かな?」
つぶやいて、ワレスはみずから扉をあけた。