第69話  ワレスの秘密  1

文字数 2,050文字



 やわらかに木々の芽吹く星の月が終わり、火の月に入ると、ユイラの森は目にしみるほどまぶしい鮮緑に、どこもかしこも染めあげられていた。
 若葉が金色の日差しを受けて、エメラルドのように輝く。
 花の香りをふくんで吹きぬける爽やかな風。
 何もかもが夢のように美しく、心地よい。

 この景色のなかをハシェドと二人で歩く。
 それは先月、ハシェドが地下牢に入れられていたときから、どうしても叶えたいワレスの願いだった。
 あのとき、冥府の底の暗闇のような地下で、このままハシェドを失ってしまうのではないかと思った。
 あの陰鬱な気分を払拭したい。
 ワレスの運命を思えば、決して明るい未来が待っているはずはないが、せめて今、この美しい景色のなかでは忘れていたい。
 ワレスが本気で愛した人は、必ず死んでしまうという運命を。

 記憶にあるかぎり幼少のころからの、この奇妙で残酷な定めのために、ワレスはハシェドへの思いを隠していなければならない。愛していないふりをしなければ、ハシェドの命を奪ってしまうから。

 だが、それにしてもワレスだって人間だから、ときとして激情を抑えきれないこともある。あの地下牢のなかで、ワレスに愛されないと言って泣くハシェドを見て、思わず抱きしめてしまった。あれはやりすぎだったろうか。


 ——ジェイムズのことは、もう過去だよ。それが今、わかった。


 ささやいて、抱きしめて、抱かれてもいいとまで言った。
 あれはハシェドにはどんなふうに聞こえたろう。
 ハシェドの気持ちを翻弄していなければいいのだが、このごろのハシェドのようすを見るとわからなくなる。
 ワレスを見るときのハシェドの目に、以前にはなかった甘い蜜がある。
 それはワレスにとっても嬉しいことだが、同時に困ることでもあった。前述のごとく、ワレスはハシェドを恋人にするわけにはいかないのだ。

 アーチに手を出したのは、もちろん、そのせいだったが、着工式の場で再会したのは予想外だった。
 たしかに相手が純情な素人だと承知の上で誘惑したことは、ワレスに非がある。
 しかし、それにしても、あそこまで本気になるとは思ってもいなかった。
 泣かせた罰だろうか。
 よりによって別れ話をハシェドに聞かれてしまうなんて。

「おまえの思いにはこたえられない」

 死神に取り憑かれたやっかい者と縁が切れて、喜ぶべきことなんだとは思いもしないで、泣きじゃくるアーチを残して歩きだした。そして、ワレスはそこに立っているハシェドと鉢合わせした。ワレスも驚いたが、ハシェドも困りきった顔をして、目を伏せた。

「……すみません。サムウェイ小隊長がお呼びです」

 この距離なら、ハシェドにも充分、ワレスたちの声が聞こえたはずだ。問題はどのていど聞かれたかだ。

(気づいただろうか? アーチネスの言っていた身代わりが、おまえのことだと?)

 だが、それなら、もっと嬉しそうな顔をするはずだ。あるいはいつも近くにいる自分の身代わりがなぜ必要なのか、疑問に思うはず。
 そのわりには、ハシェドの表情は冴えない。いったい何を思っているのか気にはなったが、追及すると泥沼にハマりそうだったので、あえてワレスは何事もなかったかのようにふるまった。

「そうか。サムウェイがな。着工式の支度が整ったかな」

 ハシェドはだまってワレスのあとについてきた。
 なんとなく気づまりな沈黙。

 本隊に帰ると、サムウェイが難しい顔で魔法使いと話していた。魔法使いはワレスのよく知るロンドではなかった。顔に覆面のようなフードをかぶったままなので、男だか女だかもわからないが、声の感じは女だ。

「何かあったのか?」

 ワレスがたずねると、小柄な女の魔法使いは冷静な声で告げる。

「森のなかに怪しい気配があります」
「それは、この場所であった怪異のせいか?」
「いいえ。それとは別ですが、とても強い力の持ちぬしです。ただ……通常の魔物の気配とも異なるので、一概に危険とは言えません。ですが、用心するに越したことはありません。くれぐれも個人での行動はつつしんでください」

 それでわざわざ呼び戻したわけだ。
 ワレスは自分のことよりも、一人で残してきたアーチが心配になった。ずいぶん気落ちしていたから、ほっておいたらずっとあそこで泣いているかもしれない。彼に恋しているわけではないが、死なせるのはかわいそうだ。

 ワレスは帰ってきたばかりの道をひきかえした。急いで走っていったが、すでに森林警備隊の仲間が迎えにきて、本隊のほうへつれ帰るところだった。

(案ずるまでもないか)

 安心して本隊へ戻った。
 だが待っていたハシェドの顔つきを見て、ワレスには別の心配ごとができた。
 やはり、ハシェドはさっきのワレスとアーチの会話を聞いたのだ。悲しげな顔で目をそらす。
 たぶん、ハシェドはワレスの気持ちを悪いほうに誤解している。
 愛していると告げるわけにはいかないが、ハシェドを悲しませたくはない。

 その後、着工式はつつがなく終わった。しかし、ワレスの心は落ちつかなかった。
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登場人物紹介

ワレス


このシリーズの主役。

愛する人が必ず死んでしまうという運命を背負った薄幸の美青年。金髪碧眼。

霊など普通の人には見えないものが見える。

魔物の巣食う森に面した砦で傭兵の小隊長をしている。

ハシェド


ワレスの部下。分隊長。

褐色の肌に巻き毛の黒髪。はしばみ色の瞳。

おせっかいでお人よしに見えるが、敵国同士の出身の親のあいだに生まれたことで苦労してきた。

エミール


もとワレスの部下。今は食堂の給仕係。

赤毛で左右の瞳の色の違うオッドアイ。

ワレスを好きだが、ワレスが好きなのは別の人なので本人的に面白くない。

クルウ


一見おだやかで優秀。だが、じつは騎士の出身で、なかなか本心を明かさない。

黒髪黒い瞳。端正な顔立ち。

ギデオン


ワレスの上官。金髪碧眼が好みで生粋のゲイ。

国境付近の街の出身。

なんとかワレスをものにしようと何かとからんでくるが、ほんとに愛していた人は死んだというウワサがある。

メイヒル


ギデオンの右腕で第一小隊の小隊長。

金髪碧眼。

ギデオンの言いなり。

ワレスのことをライバル視していたが……。

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