四十四夜 月の祝福のあらんことを
文字数 2,121文字
屋敷の中は元の屋台骨を残しつつも、現代風の改装 がされていた。掃除も行き届いており綺麗だ。玄関から左の廊下へと、桂 と葵 は進む。品良く塗られた珪藻土 の壁と木の引き戸が見える。その位置から部屋数は多くないが、どの部屋もそこそこの広さがあるようだった。
人の気配は所々にあったが多くはない。
二人は廊下の角を右に曲がり、突き当たりまで進んだ。その先は一旦、屋敷の外に出る形なのか、屋根のみで壁のない渡り廊下が四メートルほど続いていた。更に突き当たりまで行くと、今度は漆喰の壁に木製の引き戸になった建物に繋がる。引き戸以外にも障子戸のついた窓がいくつも見える。
「桂です。入ります」
引き戸の前に立ち、中に向かって話しかける。そうして引き戸を開け入る前に、桂は葵に目配せしてみせた。
「紫雲 さま、よろしいでしょうか?」
葵が桂に続いて部屋へと入っていく。中は三十畳はありそうな。板張りの長方形の部屋だった。武道の道場を彷彿とさせる造りで、窓がわりに障子の張られた格子戸がいくも並んでいる。この部分は増築したのか、屋敷の中とはずいぶん雰囲気が違っていた。
一番奥には階段状の棚。最上段の中央に祠のようなものが置いてある。
上に天井はなく梁がむき出しになっていた。そして棚の真上を含め、数カ所に大きな嵌め殺しの天窓が設置されていた。今は太陽の明かりを存分に室内に注ぎ込んでいる。
その日差しの中、棚の前で生成の作務衣を着た二人が立っていた。葵たちに気づく様子もなく、何かを話しているようだ。
一人は五十になろうかという男性。頭髪には白い物が混じっているが、髪が少ないという印象もなく若々しく見える。穏やかで知的な面立ちは、写真でみた教祖――早乙女 深山 と同じだ。
もう一人は口元を除く顔の右半分を、斜めに割れた能面で隠した男だ。桂より長身で細身の体。後ろで結んだ長髪は白いものが多く混じっているせいで灰色に見える。だが、晒されている顔の左半分を見る限りでは三十代といったところか。この男も写真でみた幹部――英 紫雲 だ。
「百合 は表に出さない約束でしょう?」
見た目どおりの穏やかな声で、深山 が言う。
「百合さまが表には出ることはありません。ただ、内々 で来られる方のために〝月の贈り物 〟で導いていただきたい……と言っているのです」
能面の男――紫雲 が言う。こちらも声の調子は穏やかだった。
「英 さん。表に出るのは私だけで良い。派手な活動もしない。そう言う約束だから、私はあなたの話に乗ったのですよ」
「はい。ただ〝月の癒し〟に制限がある以上、百合さまにも〝月の贈り物 〟を使っていただ――」
言いかけて、言葉を止める。そして紫雲はようやく気づいた様子で、葵たちの方を向いた。深山も視線を向けてくる。
「……桂さん。どうされましたか?」
「紹介状を持って、この方がいらっしゃいました」
桂が答える。彼女は視線を紫雲から葵に移して、葵の存在を紫雲に示した。
「それでしたら、後で――」
「私の方は構いませんよ」
紫雲の言葉に被せるように、落ち着いた様子で深山が言う。紫雲が隠れていない方の眉をしかめた。深山は真っ直ぐに紫雲を見つめる。
やがて諦めたように、紫雲は葵の方を向いた。
「これが紹介状です」
葵は手に持っていた封筒を差し出す。紫雲はそれを受け取ると、裏の名前を見た。そしておもむろに封筒を開ける。
「入信を希望されるのですね?」
中の手紙を読み終えると、紫雲は葵に訊いた。
「はい。以前、叔父が教祖さまに病を治していただきました。その時に月読 の話を聞いたと」
「月読の話?」
「教祖さまは月読の声を聞いて、癒しの力を得たと、叔父は言ってました」
その話は葵の作り話ではない。紹介状を書いた代議士が、実際に体験し、聞いたことを言っているに過ぎない。
「あたしはそれを、月の声だと思いました。だから……」
「月の声? あなたは……月の歌が聴けるのですか?」
葵の言葉に紫雲が驚いた表情を浮かべる。
「子供の頃に、二回ほど月の……歌、を聞いたことがあります。その二回だけです。でも月を見ると心がざわつくのです。どうしようもなく月に、惹かれるのです」
それは半分嘘だった。確かに月の歌を聞いたことはあるが、葵が月に惹かれることはない。なぜなら彼女は月を嫌っているのだから。
それでも本当であるように、葵は振る舞う。情報を得るために、信用を得るために、本音を隠す訓練は受けた。
紫雲が値踏みするように葵を見ている。葵は内心冷や汗を流しながら、必死に表情を作った。紫雲は視線を外し、深山と桂を見る。
二人は紫雲に頷いて見せた。
「……これも月の導きかもしれませんね。貴女 の名前は?」
「橘 弥生 です」
葵は紫雲に、偽名を伝える。
「橘 さん、わたしたちは貴女を歓迎します」
そう言うと、紫雲は両手を胸の前に構えた。そして中指と薬指、親指の先を当て円を作り、人さし指と小指を軽く立て印のようなものを組んだ。
「月の祝福のあらんことを」
「月の祝福のあらんことを」
深山と桂がが同じ印を結んで、紫雲の言葉を復唱した。葵が慌てて真似をする。
「桂さん、橘さんを宿坊へ案内してあげてください」
紫雲の言葉に、桂が頷いてみてせた。
人の気配は所々にあったが多くはない。
二人は廊下の角を右に曲がり、突き当たりまで進んだ。その先は一旦、屋敷の外に出る形なのか、屋根のみで壁のない渡り廊下が四メートルほど続いていた。更に突き当たりまで行くと、今度は漆喰の壁に木製の引き戸になった建物に繋がる。引き戸以外にも障子戸のついた窓がいくつも見える。
「桂です。入ります」
引き戸の前に立ち、中に向かって話しかける。そうして引き戸を開け入る前に、桂は葵に目配せしてみせた。
「
葵が桂に続いて部屋へと入っていく。中は三十畳はありそうな。板張りの長方形の部屋だった。武道の道場を彷彿とさせる造りで、窓がわりに障子の張られた格子戸がいくも並んでいる。この部分は増築したのか、屋敷の中とはずいぶん雰囲気が違っていた。
一番奥には階段状の棚。最上段の中央に祠のようなものが置いてある。
上に天井はなく梁がむき出しになっていた。そして棚の真上を含め、数カ所に大きな嵌め殺しの天窓が設置されていた。今は太陽の明かりを存分に室内に注ぎ込んでいる。
その日差しの中、棚の前で生成の作務衣を着た二人が立っていた。葵たちに気づく様子もなく、何かを話しているようだ。
一人は五十になろうかという男性。頭髪には白い物が混じっているが、髪が少ないという印象もなく若々しく見える。穏やかで知的な面立ちは、写真でみた教祖――
もう一人は口元を除く顔の右半分を、斜めに割れた能面で隠した男だ。桂より長身で細身の体。後ろで結んだ長髪は白いものが多く混じっているせいで灰色に見える。だが、晒されている顔の左半分を見る限りでは三十代といったところか。この男も写真でみた幹部――
「
見た目どおりの穏やかな声で、
「百合さまが表には出ることはありません。ただ、
能面の男――
「
「はい。ただ〝月の癒し〟に制限がある以上、百合さまにも〝
言いかけて、言葉を止める。そして紫雲はようやく気づいた様子で、葵たちの方を向いた。深山も視線を向けてくる。
「……桂さん。どうされましたか?」
「紹介状を持って、この方がいらっしゃいました」
桂が答える。彼女は視線を紫雲から葵に移して、葵の存在を紫雲に示した。
「それでしたら、後で――」
「私の方は構いませんよ」
紫雲の言葉に被せるように、落ち着いた様子で深山が言う。紫雲が隠れていない方の眉をしかめた。深山は真っ直ぐに紫雲を見つめる。
やがて諦めたように、紫雲は葵の方を向いた。
「これが紹介状です」
葵は手に持っていた封筒を差し出す。紫雲はそれを受け取ると、裏の名前を見た。そしておもむろに封筒を開ける。
「入信を希望されるのですね?」
中の手紙を読み終えると、紫雲は葵に訊いた。
「はい。以前、叔父が教祖さまに病を治していただきました。その時に
「月読の話?」
「教祖さまは月読の声を聞いて、癒しの力を得たと、叔父は言ってました」
その話は葵の作り話ではない。紹介状を書いた代議士が、実際に体験し、聞いたことを言っているに過ぎない。
「あたしはそれを、月の声だと思いました。だから……」
「月の声? あなたは……月の歌が聴けるのですか?」
葵の言葉に紫雲が驚いた表情を浮かべる。
「子供の頃に、二回ほど月の……歌、を聞いたことがあります。その二回だけです。でも月を見ると心がざわつくのです。どうしようもなく月に、惹かれるのです」
それは半分嘘だった。確かに月の歌を聞いたことはあるが、葵が月に惹かれることはない。なぜなら彼女は月を嫌っているのだから。
それでも本当であるように、葵は振る舞う。情報を得るために、信用を得るために、本音を隠す訓練は受けた。
紫雲が値踏みするように葵を見ている。葵は内心冷や汗を流しながら、必死に表情を作った。紫雲は視線を外し、深山と桂を見る。
二人は紫雲に頷いて見せた。
「……これも月の導きかもしれませんね。
「
葵は紫雲に、偽名を伝える。
「
そう言うと、紫雲は両手を胸の前に構えた。そして中指と薬指、親指の先を当て円を作り、人さし指と小指を軽く立て印のようなものを組んだ。
「月の祝福のあらんことを」
「月の祝福のあらんことを」
深山と桂がが同じ印を結んで、紫雲の言葉を復唱した。葵が慌てて真似をする。
「桂さん、橘さんを宿坊へ案内してあげてください」
紫雲の言葉に、桂が頷いてみてせた。