九夜 玉桂にて 其ノ二
文字数 1,098文字
「
自分の名を呼ばれて、ようやく声の主に気づく。
「
そう言って紅葉は、声の主――
ブラウンのロングコートに身を包んだ
下半分にフレームの付いた眼鏡の奥には、細いが穏和な印象を与える目があった。年の頃は紅葉より少し上――二十代前半に見える。
手には買い物の入ったエコバッグを抱えていた。
「お客さんよ。何も買わずに帰っちゃったけど」
「ずいぶん慌ててたみたいだね」
佳乃は荷物を置きに奥へと引っ込むと、しばらくして帰ってくる。
コートを脱いだ佳乃は、オフホワイトのハイネックプルオーバーにライトベージュのパンツといった出で立ちだ。そのシルエットは長身なことも手伝って、ひたすら細く見えた。
両手には湯気の立つマグカップを一つずつ持っている。佳乃は片方を、紅葉に向けて軽く持ち上げて見せる。
紅葉は近づくと、マグカップを受け取った。
「いい匂い。コーヒーって苦手だけど、佳乃の入れてくれるのは好きよ」
そう言って、紅葉は屈託のない笑顔を佳乃に向けた。
「ありがと」そこで一旦言葉を切り、佳乃も笑顔を返す。「で、何かあった? 思い詰めてるように見えるけど?」
「はは。佳乃はなんでもお見通しね」
「そりゃ、あなたとは付き合い長いですから」
「ホントにね……」
紅葉は何かを思い出しているような表情を浮かべる。佳乃はマグカップに口をつけ、紅葉の言葉を待った。
「さっきの
「……そう。この街に来たばっかりだっていうのに、いきなりね」
佳乃の言葉に、紅葉は頷く。
「随分と捕らわれてる。
「紅葉はどうしたい? 止める? それともこちら側に連れて来る?」
「……わからない。あの娘が月の歌を聴けるって知って、嬉しかった。佳乃と出会った時みたいにすごく」
紅葉は真剣な表情で佳乃を見る。
「でも、同じくらい怖い。いつだってそう。嬉しいはずなのに、同じくらい怖いの」
「あの娘を巻き込むことが? それとも、自分を受け入れてもらえないかもしれないことが?」
「……たぶん、両方」
「そう」
佳乃の声と表情は、限りなく優しかった。
それっきり、どちらも話さない。無言のまま二人はコーヒーを飲み終えてしまう。佳乃は紅葉からマグカップを受け取ると、奥へと消えていった。
紅葉はひとり店内に佇み、美紀の出て行った扉を見ていた。