XXX夜 いつかの未来に どこかの場所で
文字数 5,073文字
障子を通して月明かりが室内を照らしていた。
そこは八畳ほどの和室だった。床の間があり掛け軸もかかっているが、それ以外の調度品はみあたらない。
人影は二つ。中央に敷かれた布団で寝込んでいるのは五十歳前後の男性。その横に正座しているのはパンツスーツ姿の、二十代後半に見える女性だった。
「……先輩」
女性――向日 葵 が言った。その声は感情を抑えるように、ゆっくりと紡ぎ出される。
「なんや、辛気くさい顔しよってからに」
対する男――伊吹 虎児 の声は、寝込んでいるとは思えないほど張りがあって若々しい。短く刈られた髪は白いものが目立ち始めていた。目尻には皺が刻まれ、男の過ごした年月を物語っている。
だが葵 を見つめる瞳は、未だ鋭い光を放っていた。
「先輩。私は先輩がいなくなるなんて……耐えられません。先輩が逝くなら私も――」
「莫迦言いなや」葵の言葉を遮るように虎児 は言った。「お前はまだまだこれからやろ。それにお前はワイらのように月晶 を食わなアカンこともない。ワイらと違 ぉて月に片足突っ込んどるモンの利点や」
「でも――」
言いかけて、葵は言葉を止めた。自分たち以外の気配を感じたからだ。
障子戸の向こうに人影があった。すいぶんとほっそりとした、背の高い人影。その影からは女性らしさが感じられた。
「誰!?」
「お邪魔してごめんなさいね」
葵の鋭い誰何 に、柔らかな声が返ってきた。その声を聞いて虎児の顔がほころんだ。
「佳乃 か」
虎児の呼んだ名を聞いて葵が立ち上がる。寝ている虎児を背にして障子戸の向こうを睨みつけていた。
「葵。ちぃと席を外してくれへんか」
「先輩!」
葵は振り向いた。虎児の瞳が真っ直ぐに葵を見ている。
「頼む」
「……すぐ外にいますからね」
葵は怒ったかのように言う。彼女は障子戸まで歩いて戸惑うように手を止め――それから開けた。
月明かりの中、染井 佳乃 が立っていた。ロングのシャツワンピースの下はボーダーのトップスと黒のスキニー。ショートの髪と縁なし眼鏡。眼鏡の奥からは優しい瞳が覗いている。
「ありがとう」
葵とすれ違いざまに、佳乃が言う。葵は何も答えない。入れ替わるようにして佳乃が部屋へと入ってくる。
佳乃が入ったのを確認して、葵は後ろ手に障子戸を閉めた。その顔は俯いている。
「お前はホンマ変わらんなぁ」
懐かしむように虎児が言う。
「虎児はもうおじいちゃんね」
対する佳乃も懐かしそうな表情を浮かべている。
「抜かせ」
「わたしを追っかけるのは、もうお終い?」
佳乃は布団の横に正座した。虎児をじっと見つめている。
「残念やけど、体がもう限界やな。これ以上は月晶に耐えられへんようになったわ。そういや、今日は佳乃ひとりか?」
「ええ。紅葉 なら里で待ってる」
「あの性悪女がよう、お前をひとりで寄越したな」
「ふふふ。最初はちょっとゴネてたけどね」
「まぁ、今回だけはアイツには感謝しといたるわ。最期にこうして佳乃の顔が見れたんやからな」
「……虎児」
虎児の言った「最期」という言葉が、佳乃の胸に突き刺さる。
「なんやねん。お前まで辛気くさい顔しよってからに。辛気くさいのは葵だけで十分や」
外に立っている葵の影が一瞬揺れた。だがそれ以上動くことはない。何かに耐えるように拳を握っているのが障子越しにも分かる。
「あの娘 ……いい娘 ね」
「こんなワイを先輩いうて慕ってくれてるくらいやからな。かわいい後輩や」
「それだけ?」
言外の意味を込めて、佳乃は虎児を見る。虎児もしっかりと見つめ返す。それは佳乃が言わんとすることを理解している目だ。
「それだけや」
「……そう。いまならひとつだけ、虎児の願いを叶えてあげてもいいわよ」
虎児は天井を向き、目を閉じた。わずかな刻 をあけ再び目を開く。
「せやな。ちょっとええか?」
そう言って虎児は右腕を持ち上げた。掛け布団から出た腕はずいぶんと細かった。昔の虎児からは想像できないくらいに。
だが枯れたという表現は似合わない。無駄を極限までそぎ落とした荒削りな木造彫刻を思わせる、細くとも未だ力強さを感じさせる腕だ。
佳乃は虎児の胸へと身を寄せる。虎児の腕が彼女の背中を包むように抱き寄せた。印象に違わず、虎児の腕は力強かった。とてもこれから逝く者の腕ではない。
虎児が佳乃の耳に何かささやいた。佳乃の目が一瞬見開かれる。そしてすぐに頷いた。
「わかった」
「佳乃、おおきに」
「……ねぇ虎児」言いかけた佳乃の言葉が止まる。
「なんや」
「虎児は……後悔していない? 〝月を喰らいし者 〟になってわたしを追いかけたこと」
「そないな後悔、しとるわけないやろ」即答だった。「〝月を喰らいし者 〟になっとらんかったら、こない長 ぉ佳乃 と同じ時間を生きることはできんかった。まぁずっと側 におったんは、あのガキっぽい性悪女やけどな」
「虎児ったら」
佳乃が笑う。虎児も笑う。
それっきり、二人は何も話さない。ただお互いの温もりを感じたまま静かに時は過ぎていく――
最初に動いたのは虎児だった。抱きしめていた右腕を、佳乃の背中から降ろす。まるでそれが合図だったかのように佳乃が上体を起こした。
「じゃあ、わたし行くね」
「おう」
佳乃は立ち上がる。そのまま障子戸の前まで行って、一度立ち止まった。後ろを振り返ることなく佳乃は口を開く。
「虎児……当分先になると思うけど、わたしも後から行くから」
「ゆっくり来たらええ。三途の川を渡らずに待っとったる」
「それだと退屈すぎない?」
「なぁに。いざとなったら賽の河原に乱入して鬼共と喧嘩や」
「賽の河原は親より先に死んだ子供が行くところでしょ。虎児は無理じゃない?」
「三途の川の手前にあんねやったら、乱入ぐらいできるやろ」
「虎児らしいわ……
「おう。
振り返ることなく、佳乃は障子戸を開ける。目の前に葵が立っていた。その後ろには庭があり、大きな桜の木が満開の花びらで着飾っている。
天空の月は満月。月明かりは優しく夜の世界を包んでいた。
「もう帰っちゃうんですか?」
挑戦的な葵の声。虎児のことがなければ、この場で一戦交えそうな顔をしている。
「怖いわね」
対する佳乃の表情は柔らかい。それが大人の余裕に見えて葵には気に入らなかった。
「最期まで先輩の側 にいてあげないんですか? あなたはそんなに薄情な女性 なんですかっ」
「葵――」
言いかけた虎児の言葉を、佳乃は片手を上げて制した。
「虎児にずっと付き添ってくれたのはあなたよ。だから最期はあなたに譲ってあげる」
葵には佳乃の笑みは挑発的に見えた。
「っ! 何を――」
突如、桜の花びらが目の前に現れた。すぐに花びらの数は増え、風もないのに舞い始める。それはまさしく桜吹雪だ。
葵が咄嗟に構える。しかし桜吹雪が収まったあとに、佳乃の姿はなかった。
「葵」
虎児の声に、葵は我に返る。そして虎児に駆け寄ると寝ている彼の胸に体を預けた。
しかし虎児の腕は動かない。佳乃の時のように背中に回されることはない。
「先輩。先輩は私を、あの女性 のように抱きしめてくれないんですね」
嗚咽混じりの声。虎児は自分の胸の辺りから聞こえる葵の声に苦笑する。
「なんや。覗いとったんかいな。趣味悪いで」
「見なくても分かります。私だってもう、子供じゃないんです!」
葵は起き上がると虎児を睨み付けた。目にはいっぱいの涙を浮かべ、必死に、一途に、ただ虎児を見つめる。
そんな葵の頬に虎児の右手が伸びた。
「悪いな葵。ワイにとって一番は佳乃なんや」
「莫迦。先輩の莫迦ぁ」
葵は虎児の手に自分の手を重ねる。そして虎児の手をぎゅっと握った。涙が虎児の手を濡らす。
突如、虎児の体が光り始めた。
「? 先輩!?」
「迎えやな。葵、お別れや」
「いやです。先輩! 私、まだ先輩に恩返しできてない。ひとりぼっちだったあたしを先輩が助けてくれた! 〝月に捕らわれし者 〟になりかけたあたしを連れ戻してくれた!
猫オジがいてくれたから、ひとりじゃないって教えてくれたから今まで生きてこれた。その恩返しがまだなの!」
泣きじゃくる葵の表情はすいぶん幼く見えた。口調まで昔に戻っている。それは虎児と出会った時の葵を思い起こさせた。
「……葵。お前にはホンマ感謝しとる。ワイは月に飲まれた〝月を喰らいし者 〟をぎょうさん見てきてん。〝月を喰らいし者 〟言うても所詮は〝月に捕らわれし者 〟のパチモンや。パチモンやから、いつかは月に飲まれてまう。
けどワイが最後までそいつらみたいにならんかったんは、側 にお前がおってくれたからや。お前に出会うとらんかったら、もっと早ように限界を超えとった」
「ずるいよ。そんな言い方……」
体の光が、その輝きを増した。虎児の体は光の粒子となって徐々に崩れ始める。
しっかり握っているはずの虎児の手がその形を失う。葵の手から零 れていく――
開けっ放しの障子戸から、桜の花びらが和室のなかへと入って来た。花びらはその数をどんどん増し、葵を、虎児を包むように和室のなかで踊る。
虎児の体が光の粒子となって流れる。それは桜吹雪と混じり合うように絡まり、互いをいたわるように外へと出て行った。
「……連れて行かれちゃった」
桜吹雪が佳乃の持つ〝月の贈り物 〟の名残だと理解した葵は、光の粒子が出て行った方向を見ながら呟く。だが、その表情は思いの外すっきりしていた。
――さいごに一緒にいるのは間違いなくあなたよ。葵。
それは昔、ある〝月に捕らわれし者 〟に言われた言葉。日本人形を思わせる、整った顔立ちの少女。未来を視ることのできる〝月の贈り物 〟の持ち主。
あのとき彼女の視た未来はこれだったのだ。
そう。最期に虎児の側 にいたのは、間違いなく自分だった。
虎児が寝ていた布団に顔を埋める。そこには温もりがまだ残っていた。
「莫迦……虎児の……ばか」
葵だけになった和室は、ずいぶんと広く感じられた。
☆
佳乃は遠くから、金色の光が天へ登っていくのを眺めていた。
「あーあ。行っちゃった」
佳乃の後ろから聞き慣れた声がした。佳乃はゆっくりと振り向く。
腰まで届こうかという黒髪の少女が立っていた。やや横長の目は、瞳が大きく黒目がちだ。ショートトレンチにデニムジーンズで立つその姿は見た目よりも随分と年上の雰囲気を醸し出していた。
「紅葉……里で待ってるんじゃなかったの?」
「……だって。佳乃のこと心配だったし」
慌てたような秋 紅葉 の仕草に、佳乃は笑う。
「別に怒ってないわ」
「どうだった、あのバカ猫」
佳乃の言葉にホッとしたのか、紅葉はいつもの強気を見せる。
「頼まれちゃった」
「何を?」
「後輩の娘 のこと。もし孤立して困っているようなら、助けてやってくれって」
「後輩って、あの葵って娘 ? あいつ佳乃のこと目の仇にしてなかった?」
「ふふ。そうね」どこか楽しそうに佳乃は笑う。「でも、いい娘 よ。そして半分はわたしちの仲間よ」
「でもあいつ月が嫌いじゃない。そのくせ月晶もなしに月の力を使う。どっちつかずの半端者よ」
「紅葉。そんな言い方しないの。あの娘 は彼女の意志で、月の歌を抑え込んだのよ。わたしたちにはできないことをしたんだから」
「佳乃は……その……やっぱり〝人〟に未練があるの?」
紅葉の表情が暗くなる。
「そうじゃないわ。わたしは月の歌を聴けて――紅葉の側 にいられて良かったと思ってる」
「……佳乃」
「あの娘 は大丈夫だと思うわ。意思の強い娘 だし、なにより虎児の後輩ですもの。でも――」
佳乃は真剣な目で、表情で、金色の光が登って行った方向を見つめる。
「もしあの娘 が〝月を喰らいし者 〟の中で迷い傷つくことがあれば、その時は必ず手を差し伸べる。それが虎児との約束だから」
「……わかった。バカ猫の頼みってのが気に入らないけど、佳乃がそうしたいのならわたしも手伝う」
「ありがとう」
佳乃が紅葉を見て、にっこりと微笑んだ。紅葉はしばし見惚れ、慌てたように視線を反らす。
「そ、そうだ。百合 がね。外に出るんなら何かスイーツ買って来いって」
「なら皆で食べられそうなものを買っていきましょうか」
佳乃が歩き出す。彼女の後ろ姿はどことなく寂しそうだ。
紅葉が走り寄ってその横に並ぶ。そしてそっと佳乃の手を握った。佳乃も手を握り返す。
月光が二人を包む。だが包むのは月光だけではない。細く高く澄んだ声を二人は聴いていた。それは優しく包むような歌声だった。聴いていると、体の奥から暖かいものが溢れてくる。
空には、真円を描き輝き続ける月の姿があった。
<了>
そこは八畳ほどの和室だった。床の間があり掛け軸もかかっているが、それ以外の調度品はみあたらない。
人影は二つ。中央に敷かれた布団で寝込んでいるのは五十歳前後の男性。その横に正座しているのはパンツスーツ姿の、二十代後半に見える女性だった。
「……先輩」
女性――
「なんや、辛気くさい顔しよってからに」
対する男――
だが
「先輩。私は先輩がいなくなるなんて……耐えられません。先輩が逝くなら私も――」
「莫迦言いなや」葵の言葉を遮るように
「でも――」
言いかけて、葵は言葉を止めた。自分たち以外の気配を感じたからだ。
障子戸の向こうに人影があった。すいぶんとほっそりとした、背の高い人影。その影からは女性らしさが感じられた。
「誰!?」
「お邪魔してごめんなさいね」
葵の鋭い
「
虎児の呼んだ名を聞いて葵が立ち上がる。寝ている虎児を背にして障子戸の向こうを睨みつけていた。
「葵。ちぃと席を外してくれへんか」
「先輩!」
葵は振り向いた。虎児の瞳が真っ直ぐに葵を見ている。
「頼む」
「……すぐ外にいますからね」
葵は怒ったかのように言う。彼女は障子戸まで歩いて戸惑うように手を止め――それから開けた。
月明かりの中、
「ありがとう」
葵とすれ違いざまに、佳乃が言う。葵は何も答えない。入れ替わるようにして佳乃が部屋へと入ってくる。
佳乃が入ったのを確認して、葵は後ろ手に障子戸を閉めた。その顔は俯いている。
「お前はホンマ変わらんなぁ」
懐かしむように虎児が言う。
「虎児はもうおじいちゃんね」
対する佳乃も懐かしそうな表情を浮かべている。
「抜かせ」
「わたしを追っかけるのは、もうお終い?」
佳乃は布団の横に正座した。虎児をじっと見つめている。
「残念やけど、体がもう限界やな。これ以上は月晶に耐えられへんようになったわ。そういや、今日は佳乃ひとりか?」
「ええ。
「あの性悪女がよう、お前をひとりで寄越したな」
「ふふふ。最初はちょっとゴネてたけどね」
「まぁ、今回だけはアイツには感謝しといたるわ。最期にこうして佳乃の顔が見れたんやからな」
「……虎児」
虎児の言った「最期」という言葉が、佳乃の胸に突き刺さる。
「なんやねん。お前まで辛気くさい顔しよってからに。辛気くさいのは葵だけで十分や」
外に立っている葵の影が一瞬揺れた。だがそれ以上動くことはない。何かに耐えるように拳を握っているのが障子越しにも分かる。
「あの
「こんなワイを先輩いうて慕ってくれてるくらいやからな。かわいい後輩や」
「それだけ?」
言外の意味を込めて、佳乃は虎児を見る。虎児もしっかりと見つめ返す。それは佳乃が言わんとすることを理解している目だ。
「それだけや」
「……そう。いまならひとつだけ、虎児の願いを叶えてあげてもいいわよ」
虎児は天井を向き、目を閉じた。わずかな
「せやな。ちょっとええか?」
そう言って虎児は右腕を持ち上げた。掛け布団から出た腕はずいぶんと細かった。昔の虎児からは想像できないくらいに。
だが枯れたという表現は似合わない。無駄を極限までそぎ落とした荒削りな木造彫刻を思わせる、細くとも未だ力強さを感じさせる腕だ。
佳乃は虎児の胸へと身を寄せる。虎児の腕が彼女の背中を包むように抱き寄せた。印象に違わず、虎児の腕は力強かった。とてもこれから逝く者の腕ではない。
虎児が佳乃の耳に何かささやいた。佳乃の目が一瞬見開かれる。そしてすぐに頷いた。
「わかった」
「佳乃、おおきに」
「……ねぇ虎児」言いかけた佳乃の言葉が止まる。
「なんや」
「虎児は……後悔していない? 〝
「そないな後悔、しとるわけないやろ」即答だった。「〝
「虎児ったら」
佳乃が笑う。虎児も笑う。
それっきり、二人は何も話さない。ただお互いの温もりを感じたまま静かに時は過ぎていく――
最初に動いたのは虎児だった。抱きしめていた右腕を、佳乃の背中から降ろす。まるでそれが合図だったかのように佳乃が上体を起こした。
「じゃあ、わたし行くね」
「おう」
佳乃は立ち上がる。そのまま障子戸の前まで行って、一度立ち止まった。後ろを振り返ることなく佳乃は口を開く。
「虎児……当分先になると思うけど、わたしも後から行くから」
「ゆっくり来たらええ。三途の川を渡らずに待っとったる」
「それだと退屈すぎない?」
「なぁに。いざとなったら賽の河原に乱入して鬼共と喧嘩や」
「賽の河原は親より先に死んだ子供が行くところでしょ。虎児は無理じゃない?」
「三途の川の手前にあんねやったら、乱入ぐらいできるやろ」
「虎児らしいわ……
また
ね」「おう。
また
な」振り返ることなく、佳乃は障子戸を開ける。目の前に葵が立っていた。その後ろには庭があり、大きな桜の木が満開の花びらで着飾っている。
天空の月は満月。月明かりは優しく夜の世界を包んでいた。
「もう帰っちゃうんですか?」
挑戦的な葵の声。虎児のことがなければ、この場で一戦交えそうな顔をしている。
「怖いわね」
対する佳乃の表情は柔らかい。それが大人の余裕に見えて葵には気に入らなかった。
「最期まで先輩の
「葵――」
言いかけた虎児の言葉を、佳乃は片手を上げて制した。
「虎児にずっと付き添ってくれたのはあなたよ。だから最期はあなたに譲ってあげる」
葵には佳乃の笑みは挑発的に見えた。
「っ! 何を――」
突如、桜の花びらが目の前に現れた。すぐに花びらの数は増え、風もないのに舞い始める。それはまさしく桜吹雪だ。
葵が咄嗟に構える。しかし桜吹雪が収まったあとに、佳乃の姿はなかった。
「葵」
虎児の声に、葵は我に返る。そして虎児に駆け寄ると寝ている彼の胸に体を預けた。
しかし虎児の腕は動かない。佳乃の時のように背中に回されることはない。
「先輩。先輩は私を、あの
嗚咽混じりの声。虎児は自分の胸の辺りから聞こえる葵の声に苦笑する。
「なんや。覗いとったんかいな。趣味悪いで」
「見なくても分かります。私だってもう、子供じゃないんです!」
葵は起き上がると虎児を睨み付けた。目にはいっぱいの涙を浮かべ、必死に、一途に、ただ虎児を見つめる。
そんな葵の頬に虎児の右手が伸びた。
「悪いな葵。ワイにとって一番は佳乃なんや」
「莫迦。先輩の莫迦ぁ」
葵は虎児の手に自分の手を重ねる。そして虎児の手をぎゅっと握った。涙が虎児の手を濡らす。
突如、虎児の体が光り始めた。
「? 先輩!?」
「迎えやな。葵、お別れや」
「いやです。先輩! 私、まだ先輩に恩返しできてない。ひとりぼっちだったあたしを先輩が助けてくれた! 〝
猫オジがいてくれたから、ひとりじゃないって教えてくれたから今まで生きてこれた。その恩返しがまだなの!」
泣きじゃくる葵の表情はすいぶん幼く見えた。口調まで昔に戻っている。それは虎児と出会った時の葵を思い起こさせた。
「……葵。お前にはホンマ感謝しとる。ワイは月に飲まれた〝
けどワイが最後までそいつらみたいにならんかったんは、
「ずるいよ。そんな言い方……」
体の光が、その輝きを増した。虎児の体は光の粒子となって徐々に崩れ始める。
しっかり握っているはずの虎児の手がその形を失う。葵の手から
開けっ放しの障子戸から、桜の花びらが和室のなかへと入って来た。花びらはその数をどんどん増し、葵を、虎児を包むように和室のなかで踊る。
虎児の体が光の粒子となって流れる。それは桜吹雪と混じり合うように絡まり、互いをいたわるように外へと出て行った。
「……連れて行かれちゃった」
桜吹雪が佳乃の持つ〝
――さいごに一緒にいるのは間違いなくあなたよ。葵。
それは昔、ある〝
あのとき彼女の視た未来はこれだったのだ。
そう。最期に虎児の
虎児が寝ていた布団に顔を埋める。そこには温もりがまだ残っていた。
「莫迦……虎児の……ばか」
葵だけになった和室は、ずいぶんと広く感じられた。
☆
佳乃は遠くから、金色の光が天へ登っていくのを眺めていた。
「あーあ。行っちゃった」
佳乃の後ろから聞き慣れた声がした。佳乃はゆっくりと振り向く。
腰まで届こうかという黒髪の少女が立っていた。やや横長の目は、瞳が大きく黒目がちだ。ショートトレンチにデニムジーンズで立つその姿は見た目よりも随分と年上の雰囲気を醸し出していた。
「紅葉……里で待ってるんじゃなかったの?」
「……だって。佳乃のこと心配だったし」
慌てたような
「別に怒ってないわ」
「どうだった、あのバカ猫」
佳乃の言葉にホッとしたのか、紅葉はいつもの強気を見せる。
「頼まれちゃった」
「何を?」
「後輩の
「後輩って、あの葵って
「ふふ。そうね」どこか楽しそうに佳乃は笑う。「でも、いい
「でもあいつ月が嫌いじゃない。そのくせ月晶もなしに月の力を使う。どっちつかずの半端者よ」
「紅葉。そんな言い方しないの。あの
「佳乃は……その……やっぱり〝人〟に未練があるの?」
紅葉の表情が暗くなる。
「そうじゃないわ。わたしは月の歌を聴けて――紅葉の
「……佳乃」
「あの
佳乃は真剣な目で、表情で、金色の光が登って行った方向を見つめる。
「もしあの
「……わかった。バカ猫の頼みってのが気に入らないけど、佳乃がそうしたいのならわたしも手伝う」
「ありがとう」
佳乃が紅葉を見て、にっこりと微笑んだ。紅葉はしばし見惚れ、慌てたように視線を反らす。
「そ、そうだ。
「なら皆で食べられそうなものを買っていきましょうか」
佳乃が歩き出す。彼女の後ろ姿はどことなく寂しそうだ。
紅葉が走り寄ってその横に並ぶ。そしてそっと佳乃の手を握った。佳乃も手を握り返す。
月光が二人を包む。だが包むのは月光だけではない。細く高く澄んだ声を二人は聴いていた。それは優しく包むような歌声だった。聴いていると、体の奥から暖かいものが溢れてくる。
空には、真円を描き輝き続ける月の姿があった。
<了>