三十夜 月と惨劇とあたし

文字数 2,581文字

 向日(むかい)(あおい)は月を見ていた。キャンプ場の芝生の上に仰向けで倒れたまま、月を見ていた。
 夜空に浮かぶ丸い月。それは満月の明るさを持ちながらも、琥珀を思わせる昏い色をしている。

 丸顔にマッシュショートの髪は黒。大きめの丸目は二重。小作りな鼻と口。その瞳には月が写り込んでいた。
 初夏とはいえ五月初旬の夜はまだ寒い。スニーカーにストレッチ素材のロングパンツ。グレーで薄手のパーカーにTシャツ。白いはずのTシャツは、胸の半ばから腹部にかけて染みが広がったように黒かった。

嗚呼(ああ)。今夜は月が綺麗だねぇ。キミもそう思わないかい?」

 雑音まじりの声が聞こえる。老若男女、幾人もの声を一度に重ねたような、本来の声を隠してしまう――そんな声色。
 そして声の主はひたすら黒く、細く、背の高い人の形をした〝何か〟だった。両腕を垂らし、月を見上げている。不釣り合いに長い腕の先には、細く鋭く長い刃となった指が左右に五本ずつあった。その先からは血が滴っている。

「ごほっ」

 言いかけた(あおい)の口から、血のかたまりが溢れた。目の前の〝何か〟に胸からお腹にかけて切り裂かれた傷のせいだ。内臓まで達した傷は、血を口元まで逆流させた。

(なんで……)

 先ほど言えなかった言葉を、葵は心の中で呟いた。GWに家族でキャンプに来ていたはずだ。恒例だった家族キャンプ。アウトドア好きの父親の趣味に、家族が付き合う。ただそれだけのイベントだった。
 なのになぜ、自分はこんなふうに倒れているのだろうか。

(来たくないって言ったのに)
 いつからだろう。葵は父親のことが嫌いになっていた。何か理由があったわけではない。今年、中学を卒業して高校に入ったあたりから、その思いは強くなった。
 だから恒例だったGWのキャンプも今年は来ないつもりだった。新しくできた友達と遊ぶ約束もしていた。

 行くのを嫌がった葵を見て、父親は少しだけ悲しそうな顔をした。それが自分への当てつけのように感じ、葵は更に反発した。
 それでもキャンプに来たのは、母親の「みんなで行くのはこれで最後にするから」の言葉に押し切られたからに過ぎない。
 その父親も、優しいかった母親も、今はいない。

 多分、キャンプ場のどこかで葵と同じように血を流しながら倒れている。葵と母親を逃がすために父親は斬られ、母親は葵を庇って刺された。
 葵たちだけではない。今日、このキャンプ場に来ていた全員がこの〝何か〟に襲われていた。彼女はたまたま最後に襲われたに過ぎない。
 不思議と痛みはなかった。切り裂かれてしばらくは痛かったが、その痛みも今は感じなくなった。瞳に映っている月も、自分のすぐ側に立っているであろう〝何か〟も、今は霞んで見えない。
 視界が暗くなっていく。そしてひたすら眠い。体が、意識が、重く沈んで行こうとする。

 そんな中、葵は声を聞いたような気がした。微かだが、女性の声を。
(声が聞こえる……)
 〝何か〟の発する多重になった耳障りな声ではなく、優しくすべてを包み込むような、細く高く澄んだ声。母親とも違う女性の声。
 その声は葵が眠るのを邪魔するかのように大きさを増す。その瞬間、暗くなった視界の中に光を見た気がした。
 声が一定のリズムを持っていることに、葵は気づく。
(うるさいな。眠れないじゃん――)

「――歌ってないで黙っててよ」

 先ほどのように血が口に溢れることなく、思ったことが声に出た。
 側に立って月を見ていた〝何か〟が葵を見た。顔の造形が判別できないくらい黒い〝何か〟。しかし少女を見る瞳だけは、その赤さ故に存在しているとわかる。

「へぇ。もしかしてキミ、月の歌が聞こえてるのかい?」

 〝何か〟がしゃがんだ。赤い瞳で葵を覗き込む。

「月の歌?」

(なにそれ。月が歌うわけないじゃん)
 言葉と同時に葵は思う。霞んでいた視界がわずかだがクリアになっていた。〝何か〟の顔は分からないが、赤い瞳だけは葵にも認識できた。その赤い瞳がまじまじと自分を見ている。

「ふーん」

 〝何か〟の目が細められた。

「これをキミにあげよう」

 そう言って〝何か〟は自分の胸の中に長い刃を埋め、すぐに抜き出した。葵の目の前に黒い刃を突き出す。小さな石が葵の視界に入ってくる。〝何か〟は刃の先で器用にそれを摘んでいた。
 それ自体が発光しているかのような、淡い白色の石。その石が葵の視界から消える。

「──! ────!」

 麻痺していたはずの痛みを突如感じ、葵が声にならない悲鳴を上げた。
 〝何か〟は石を葵の胸の傷の中へと埋めていた。胸骨の僅かに左。肋骨の間を通すように押し込んでいく。
 葵の体が痛みに跳ねる。息荒く口を開くが、痛みのあまり声すら出ない。

「キミは特別に、

にしておいてあげるよ。生き残って月の歌が聴けるようになれたらいいねぇ」

 石を埋め終えた〝何か〟が満足そうに言った。
 葵は〝何か〟を見ることすらできない。体は痙攣し、放心したように大きく見開いた目は、夜空の月を写すのみだ。

嗚呼(ああ)。今夜は本当に月が綺麗だねぇ」

 雑音まじりの声が聞こえる――

        ☆

『GW期間中の無差別殺人 三十名死亡。一名重体』

 四日午後九時ごろ、N県のキャンプ場で何者かによる無差別殺人が発生した。死者は三十名。一名が重体で病院で治療を受けている。いずれも鋭い刃物のようなもので斬られた跡があった。
 県警によると現場に犯人の姿はなく犯行後すぐに逃走したものとみている。犯人がまだキャンプ場付近に潜伏しているとみて、巡回を強化。地域住民にも注意を呼びかけている。

                     ―― 毎朝新聞 地方版 ――

『月夜の惨劇』

 悲劇はGW期間中で利用者の多いキャンプ場で起きた。警察に一報が入ったのは四日の午後九時を過ぎた頃。利用客の一人が通報した。
 すぐに警察が駆けつけるも通報者を含め死亡を確認。遺体はキャンプ場各所に散らばっており、犯行時に逃げまどったであろう人々の様子を示していた。
 死者の数は三十名で、当時キャンプ場を利用していた利用客のほぼ全員が死亡したことになる。唯一の生き残りは十代の少女だった。
 彼女は集中治療室に搬送され一命を取り留めた。
 警察は唯一の目撃者として回復を待って事情聴取をする予定。

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