三十七夜 月白と蒼黒とあたし
文字数 2,191文字
少年が〝何か〟へと変化したのを見た以上に、虎児が人型の虎になったことに、葵は驚いていた。だが〝何か〟を見た時のような恐怖は不思議と感じない。
「そう。そして同じ塊からわかれた石は共鳴するんだ」
〝何か〟が自分の胸に刃を突き刺し広げるのが葵にも見えた。中から光り輝く月長石が浮き出てきたのも。
それに呼応するように、葵の胸の鼓動が二重に打ち始める。
「くっ」
収まっていた息苦しさが、再び葵を襲った。
〝何か〟の胸の
「そしてキミたちを満月の夜に襲うことにしたのは、なにも僕の力が強まるからじゃない。
この月明かりの下なら、逃げようがないからさぁ」
〝何か〟――葛と葵。二人の胸の
『なーぅ!』
近くで太郎丸が悲鳴のような鳴き声を上げる。
葵の胸から溢れた光は彼女自身を包み込む。突如、葵の耳に声が聞こえた。細く高く澄んだ声が。
それは一定のリズムを伴って、葵の周りを満たし始めた。
(……歌?)
葵を光が強くなるのに合わせて歌も大きさを増す。葵の心がざわつく。それは決して不快ではないが、どこか彼女を不安にさせた。
葵の意識が歌に塗り込められて行く――
「嬢ちゃん!」
虎児の声が聞こえた。
(……猫オジ)
歌の中に埋もれようとしていた葵の意識が、その声で引き戻される。それでも歌は、葵を包もうとする。
(うるさい! うるさい! うるさい!)
葵は歌にあらがうように心の中で叫んだ。胸に置いた両手が、まるで光をつかむかのように握りしめられる。
(
光の中に突如、満月の夜空のように
蒼黒い点は光を押さえ込むように広がり始める。やがて二色はお互いを飲み込もうと、葵を中心に渦を巻き始めた。そして太極図のような形になった瞬間、二色の爆発が起きた。
全てか消え去ったあと、そこには葵が立っていた。
「嬢ちゃん?」
戸惑ったように虎児が言う。
そこに立っているのは、先ほどまでの葵ではなかった。葵の顔、上半分を覆うように猫の仮面があった。
仮面の右半分は
「ははは。ようこそこちら側へ」葛が嬉しそうに言う。「月の歌が聴ける気分はどうだい?」
葵の顔が葛へと向いたその瞬間、少女の姿が消えた。
「歌? そんなもの聞こえないけど?」
「!」
突如、虎児をもしのぐスピードで葛の目の前に葵が現れた。仮面の
葵の右手が動いた。
葛は咄嗟に左腕でガードした。受けた左腕の黒い靄が、葵の炎に削られる。
葵は手を引っ込めると素早く体を沈め、そのまま飛び上がった。飛んだ勢いを利用して後方へ宙返り。それに合わせ
葛は顎に蹴りを受け、その力を利用して後方へと自ら飛んで衝撃を殺した。
「ふーん? 月の力は感じるんだけどねぇ」
葛がゆらりと起き上がる。右手で顎をさすりながら、葵を見ている。
(体が軽い。思った瞬間、動いてる)
今までにない体の感覚に、葵は少し戸惑っていた。運動に関しては普通。得意でもなければ苦手でもなかった。それがまるで息をするように、普段なら考えられないような動きができる。
先ほど見せた葛への攻撃も、考えるより先に体が動いていた。それは洗練されてはいないが、しなやかで鋭い、身体能力にモノを言わせた野生動物の動きだった。
葛が近寄って来る。右手を下から
葵は左手でそれを受ける。左手にはいつの間にか
「!?」
葛が前蹴りを葵に放った。葵は
葵はそのまま後ろに吹っ飛ばされた。飛ばされた葵の背後に大きな影が生まれた。
飛んでいた葵を虎児が抱き止める。
「嬢ちゃん、捕らわれよったんか」
顔は虎そのものなのに、聞こえてくる声は明瞭な人のそれだ。声には焦りと悔やむような響きがあった。
「大丈夫。歌なんか聞こえてないから」
「せやけど、嬢ちゃんその格好、〝
「猫オジ、あたしを信じて!」
葵が虎児を見る。猫の仮面はハーフサイダーのように綺麗に二色に分かれている。仮面から覗くは猫と人の瞳だ。
その仮面を、虎児はまじまじと見つめる。
「……その仮面、まるで太郎丸先生やな」
「うそ!? 猫オジ、鏡ない? 見てみたい」
まるで緊張感のない様子で、葵が言う。それを聞いて虎児は笑った。
「なんやようわからんが、大丈夫そうやな。嬢ちゃん、アイツをしばくで」
虎児と葵の二人が並ぶ。二メートルを超える虎の獣人と、獣人の胸あたりの背丈の少女。少女の顔には猫の仮面。背後には炎のように揺れる二叉に分かれた尻尾が見えた。