五十七夜 父と娘と

文字数 4,754文字

 夜遅く、大広間(おおひろま)へと続く渡り廊下を百合(ゆり)は歩いていた。廊下は屋根のみで壁はなく、外の肌寒さを(じか)に彼女へと伝えてくる。夜空に浮かぶは上弦の月。半月(はんげつ)とは言え、ほぼ灯りのないこの場所では月光は身近な存在となる。

 大広間の壁にある障子戸からは僅かながら明かりが漏れていた。揺らめく様子から蝋燭の炎だと分かる。百合は引き戸を開け大広間へと入って行く。
 三十畳ほどの長方形の和室。一番奥には階段状の棚があり、中央の最上段に(ほこら)のようなものが置いてある。左右には蝋燭立てがあって、その上で蝋燭が燃えていた。
 祭壇の前に百合の目当ての人物が正座をしていた。蝋燭の明かりに照らされて背中が浮かび上がる。

「お父さま」

 ひと言声をかけて、百合は座っている深山(しんざん)の所へと行く。
 その背中を見て、小さくなったなと百合は思う。同時に(やまい)で亡くなった母の(そば)に佇んでいた、父の姿が思い浮かぶ。
 いまから遠い昔。いまよりも幼かった頃。そして百合が月の歌を聴く前のこと。
 大きかった父親の背中が、子供ながら小さく感じたのをいまでも百合は覚えている。ここ数年、深山の背中はその時のように小さいと感じるようになっていた。

「百合か。どうかしたのか?」

 深山が振り向いて言う。落ち着いた低音に、もの柔らかな口調。百合がずっと聞いてきた父の声だ。

「少し、お話があります」

 百合は深山の横に座った。

(はなぶさ)さんと教団のことかね?」
「……はい」
「里の皆に、また何か言われたか?」
「いえ。そうではないです」百合はここで一度、言葉を止める。「ですが……お父さまはいつまで紫雲(しうん)の言いなりでいるのですか?」
「……百合。私は……」
「分かっています。お父さまが私のことを考えて紫雲の提案を受け入れてくれたのだと」

 五年前、紫雲は少年を一人引き連れてこの里へとやってきた。そして紫雲は深山に言ったのだ。「月の歌を聴ける者たちが安心して暮らせる場所を作りたい」と。
 紫雲がどうやってこの里のことを知ったのかは、百合にも深山にも分からない。この里の成り立ちを知る人間は、いまや殆どいない。

「私は……医者でありながらお前の母親を救ってやれなかった」

 深山は絞り出すように言う。その顔に浮かぶのは後悔か。

「……お父さま」
「その絶望のあまり月読の声を聴けるようになり、人を癒すことのできる力を授かった。皮肉なものだな。もっと早く、この力を授かっていれば……」

 百合は何も言えず、父を見つめる。

「人はいずれ死ぬ。それも思いがけず、あっさりと。お前も沢山の人を看取(みと)ってきたから分かるだろう?」

 そう。百合と深山はこの里で多くの人々を看取ってきた。平家の落人(おちうど)たちの隠れ里。月読の巫女を擁する祝部(ほうりべ)の一族。遠い昔、医者としてこの里に流れ着いた深山は、一族の女性と結ばれ一女(いちじょ)をもうけた。

「……私は、この里が大好きです。皆も、お父さまも。私は昔みたいに皆で静かに暮らしたいだけなのです」
「だがこの里も、やがて人がいなくなるだろう。それは長く生きて来た我々も例外ではない。私はお前に残してやりたかったのだ。同じ時間を生きることができる者たちとの生活を」

 深山の顔には寂しそうな笑みが浮かんでいた。その表情を見て、百合は何故か泣きたくなった。
 ふと、大広間の入り口が開いた。深山と百合がそちらを見る。
 引き戸を開けて入って来たのは(あおい)だった。

「君は……(たちばな)さん?」
「私が呼びました」

 深山の問いに、葵ではなく百合が答えた。

「?」

 それを聞いて深山は百合を不思議そうに見る。

「今夜、紫雲は出かけていません。お父さまにも橘さんの話を聞いてもらいたくて、ここへ呼んだのです」

 紫雲は以前から、夜になると姿を消すことがあった。深山は百合の言葉を聞いて立ち上がる。

「お父さま?」

 百合も慌てて立ち上がろうとする。深山はそれを手で柔らかく制した。

「私は聞かない方がよいだろう。お前たちが何を考えているのかを知ってしまえば、邪魔をしてしまうかもしれない。だが、知らなければ邪魔のしようはない」

 娘がこれからしようとすることに、父は勘づいているのかもしれない。それが紫雲と教団にとって不利になることだとも。

「何があっても、お前が大切な娘であることは変わりない。それだけは覚えておいて欲しい」

 それだけ言うと深山は葵に一礼し、大広間を出て行った。

「ごめんなさいね」

 深山を見送ったあと、百合は葵を見て言う。

「……いえ」

 神社で葵と会って以来、二人きりで話すのは一日振りだった。百合は夕餉(ゆうげ)の時にこっそりと、葵にメモを渡していた。時間と場所を書いたメモを。

「本当はあなたの話をお父さまに聞いてもらいたかったのだけど」

 そう言って百合は苦笑する。

「いいのですか?」
「仕方ないわ。こちらの話をしましょうか。なぜ私たちが紫雲を嫌っているのかを」

 そして百合は語った。紫雲がこの里に来た日のこと。ここへ来た理由。そして最初は教団の立ち上げも、里の人間たちは好意的に受け入れていたことを。

「紫雲は表向きは宗教団体として活動し、月の歌が聴ける人たちを集めようとしていたのよ。五年間で来たのは、桂さんだけだけどね」

 百合が言いながら肩を竦めてみせる。

「その……紫雲が連れてきたという男の子は?」
「里に来てすぐに出て行ったわ。昔、月長石(ムーンストーン)を渡した女の子がいるから仲間にできそうなら連れてくるって。それから帰ってきていないわね」

 百合の言葉に、葵はどこか腑に落ちたような表情を浮かべた。

「おかしくなり始めたのは、教団ができて一年目くらね」

 その頃、以前から里に住んでいた者の中に行方不明者が出た。それは紫雲の話を聞いて教団に入った者だった。
 やがて深山のおこす

に感銘を受けた外部からの信者が増えると、今度はその信者たちの中から行方知れずになる人間が出始めた。最初の行方不明者が出てからいままで、五名ほど消えていた。

「最初の行方不明者はね、普段から山で猟ををしていたこともあって事故にあったのだろうと考えられてたのよ。信者の方はやめたのだと。行方不明者の中には、実際に辞めることを仄めかしていた者もいたから」

 だが消えた信者の一人が、いなくなる前日に紫雲と行動を共にしていたことがわかった。里の人間が見かけたのだ。二人が神社の方へ登っていったのを。
 それを聞いた百合は神社を探し回った。小さな神社だ。そして自分たちが昔からよく知っている場所だ。しかし消えた信者はおろか、神社で何かあった痕跡すら見つけることはできなかった。

「それで……神社で会った時に、あたしを紫雲の仲間だと思ったのですね」

 百合は頷いた。神社にいる最近入信したばかりの女性。その女性と会っていた余所者(よそもの)の男性。それを

時、百合は紫雲といなくなった者たちのことを考えたのだ。

「そうね。あの時、あなたは何かを知っていて、あの場所に向かったのだと思ったのよ」

 百合は紫雲に神社に行ったことを問いただした。紫雲は行ったことは認めたが、それは自分一人。月の歌と百合たちの言う月読命(つくよみのみこと)の声に違いがあるのかを確かめに行っただけ。信者とは会っていないと言い張ったのだった。

「もちろん紫雲が何かしたという確証はないわ。でも昔からいる里の者たちは、紫雲を疑い始めたの」
「百合さまは、紫雲が関わっていたという証拠が欲しいのですね?」
「百合でいいわ。見た目はあなたよりも年下なのだし」そう言って百合は悪戯っぽく笑ってみせる。「そうね、証拠があればそれを突きつけて追い出したい。でも――」
「紫雲には〝月の贈り物(ギフト)〟がある。だからあたしたちに手伝って欲しいのですね?」

 百合の言葉を継いで、葵が言う。百合は頷いて見せた。

「彼の〝月の贈り物(ギフト)〟はどのようなものなのですか?」
「紫雲は、炎を操るわ。お父さまはあなたも知ってのとおり〝癒し〟。そして私は〝時読み〟。もし争うことになったら私たちに勝ち目はないのよ」
「〝時読み〟?」
「私はね、条件付で未来が

の。他人の強い感情の揺れに反応して、その人の未来が視える。強く望んだり、考えたことの未来が」

 そう言って、百合は葵をじっと見つめた。葵の表情が僅かに揺れる。

「神社へ行く前にあなたと門の前で会ったでしょ? あの時のあなたの感情には大きな揺れがあった。だから神社で男と会う

のよ」
「あのときに……」葵は思い当たる節があるのか、右手で口元を押さえ俯いて言う。「――――話しますね」

 それからこの場に居ない誰かに伝えるように、葵は呟いた。百合はそれを不思議そうに見つめる。

「実は、百合……さんに隠していたことがあります」

 葵が百合の目を見る。その瞳は真剣そのものだ。

「先ほどの話はこのメガネを通じて、あたしの仲間に伝わっています。教団に来てからずっと、あたしはこのメガネを通じて仲間と連絡をとっていました」
「……そう。すっかり便利な世の中になったのね」

 そう言った百合の表情に驚いた様子はない。

「まさか、この告白も〝時読み〟で知っていたのですか?」
「いいえ。ただ単に、そういうものなのだと思っただけ。長く生きてると色々と動じなくなるのよ。私にはスマートフォン……だっけ? あれですらよく分かっていないもの」

 そう言って百合は笑う。

「もう一つ、隠していたことがあります。あたしたちの本当の目的は、教団の調査でした。そしてその結果、〝人〟に害をなすとわかれば……」

 そこで葵は言いよどむ。百合は成熟した女性の顔で、葵の言葉を促してみせる。

「そのまま……〝対処〟する予定でした」

 百合は黙って葵を見ている。葵ははっきり言わなかったが〝対処〟がどういったものなのか、百合には理解できていた。それが決して穏やかなものではないということを。

「……怒らないのですか?」
「怒ることなんて、ないわ。過去だって何度も襲われたことはあるもの」
「まさか、〝月を喰らいし者(エクリプス)〟に?」
「いいえ。〝月読の祝福〟を持つ人間を手に入れたいと思う人たちね。もしくは恐れる人たち」

 そう言って百合は遠い過去を思い描いていた。自らの体験した過去だけでなく、ずっと言い伝えられて来た過去も。

「それよりも、それは隠しておくべきことじゃないの? 私に言ったことで逃げてしまうかもしれないわ」
「百合さんは、あたしたちに隠さず話してくれました。手を組もうという相手に、こちらは全く手の内を明かさないのはフェアじゃないです。それに――」

 そこで一度、葵は言葉を止めた。

「先輩がこの場にいれば、たぶん同じ事をしたでしょから」
「先輩って、神社で会っていた男の人?」
「……はい」
「ふふ。あなたはあの男の人を尊敬しているのね。もしかして、恋慕(れんぼ)の情もあるのかしら?」
「そんな」

 慌てて否定する葵を見て、百合は微笑んだ。それは二人の見た目とは逆。年上の女性が思春期の少女を見る時のような微笑みだった。

「あなたは感情が顔に出やすいわ。紫雲とは逆ね」
「?」
「あいつは能面で顔を半分隠しているせいもあるけど、感情の揺れそのものが少ないの。何度かあいつの事を探ろうと、揺さぶって〝時読み〟を仕掛けようとしたけど駄目だったわ。もっとも、あいつも私の力は知っているから警戒しているのかもしれないけど」
「紫雲がここへ来たのには別の目的があると?」
「多分ね。それより(かつら)さんと会わせるという話は嘘だったの?」
「いえ。それも目的の一つです」
「じゃあそっちをまず片付けましょう。よろしくね、橘さん」

 そう言って百合は葵に向けて右手を差し出した。葵は手を出しかけて止める。そして百合を見つめて言った。

「葵です。本名は向日(むかい)(あおい)

 葵の突然の告白に、百合は目を丸くする。そしてすぐに笑った。

「そう。よろしくね、葵」

 百合の言葉に応えるように、葵は彼女の手を握った。
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