五十八夜 英紫雲

文字数 2,387文字

 上弦の月が夜空に浮かんでいた。境内を照らすには充分とは言えないが、それでも山奥なら月明かりの存在は際立つ。
 紫雲(しうん)は拝殿に立ち、調詠(つきよみ)神社の由来が書かれた額縁(がくぶち)を見ていた。当然、暗くて文字を読むことはできない。そもそも紫雲の目に額縁は写っていない。彼の意識は遠い過去へと沈んでいた。

華蓮(かれん)美代子(みよこ)……」

 紫雲の口から言葉が漏れる。苦しそうに、愛おしそうに。それは呼んでも永遠に応えてくれることのない、娘と妻の名前。紫雲の目の前で奪われた大切な存在。
 最初に月の歌を聴いたのはまだ幼かった娘の華蓮だった。娘の言葉に当時の紫雲は微笑ましく思ったものだ。やがて娘は思春期に入り、父親とは疎遠になっていく。だから紫雲は気づかなかった。華蓮が月に完全に捕らわれてしまったことに。

 そして悲劇は唐突にやって来た。〝月を喰らいし者(エクリプス)〟。それは紫雲たちを襲った悲劇の名前。
 紫雲はいまでもはっきりと覚えている。冬の最中(さなか)にやってきた、盲目の僧侶の格好をした悲劇のことを。
 そいつはなんの躊躇いもなく、娘を庇った妻を(あや)め、紫雲を傷つけ、目の前で華蓮の命を奪った。上がる悲鳴。倒れるストーブ。愛する妻子の死体と紫雲を遮るように、炎がその勢いを増す。

 そして燃えさかる住宅に、そいつは紫雲を残して去っていった。崩れ炎に飲まれた紫雲は、生き残れないと判断したのだろう。
 その時だ。月の歌が紫雲の耳へと聞こえてきたのは。娘を失い、妻を失い、紫雲は絶望した――その時だ。
 燃えさかる炎の中、紫雲は初めて月の歌を

。そしてこれが娘の言っていた月の歌なのだと知った。そう思うと体の中から憎悪がわき出た。憎い。娘を奪ったあいつが憎い。
 炎と月の歌が紫雲の体を包み込む。いつしか紫雲は炎を熱いとは思わなくなっていた。そして気づくと病院のベッドの上だった。

「……許しはしない」

 紫雲が能面に手を置いて呟く。触れる手には力がこもっている。
 石段を上がってくる足音を聞き、紫雲の意識は現実へと引き戻された。石段の方を見る。生成の作務衣を着た中年の女性が一人、ちょうど登りきった所だった。

「紫雲さま」

 女性の手に持ったライトの明かりが、拝殿の方を照らす。紫雲は少し眩しそうに眉をしかめた。

香山(かやま)さん。ここに来たのを、誰にも見られていませんね?」
「はい」

 女性――香山はどこかうっとりとした様子で返事をする。彼女はそのまま拝殿へと上がって紫雲の(そば)まで来た。

月読命(つくよみのみこと)の声を聴けるようになるための儀式。月読さまの声が聴ける者に選ばれた一人だけが、受けることのできる儀式。
 ああ、紫雲さま。わたしを選んでくださって感謝します」

 香山は作務衣が汚れるのも構わず、紫雲の足元に跪いた。
 紫雲はそれを無表情に見つめている。

「目を閉じて、口を開けなさい。あなたに月の結晶を授けます」

 紫雲の言葉に香山は素直に従う。目を閉じて口を開け、舌を僅かに出す。興奮しているのか、その息は荒い。胸の前で固く結ばれた両手が震えているのは、込められた力の強さだけが原因ではないだろう。
 紫雲は懐から小さな巾着を取り出した。巾着の口を開け、中から三センチほどの物体を取り出す。それは水晶のような六角柱で、半分は鼈甲飴(べっこうあめ)の色をしており、残り半分は満月の夜空を思わせる蒼黒い色をしていた。
 紫雲は指で摘んだそれを、香山の舌の上へとそっと置いた。置かれた物体の冷たさに、香山は一瞬、体を震わせる。

「それを噛み砕いて飲むのです。そうすればあなたの体に月の光が満ちます。あとはその身を委ねるのです」

 そう言うと、紫雲は両手を胸の前に構えた。そして中指と薬指、親指の先を当て円を作り、人さし指と小指を軽く立て印のようなものを組んだ。

「あなたに月の祝福のあらんことを」

 香山は吐息を吐いて、その物体を口に含んだ。しばらく舌で味わうようにそれを舐める。そして噛み砕き、喉を鳴らしてゆっくりと飲み込んだ。

「ああ、これでついにわたしも月読さまの声を……」

 感極まったように香山が言う。固く結んだ両手を解き、胸の前で紫雲と同じ印を結ぶ。そして(こうべ)を垂れ、一心に祈り始めた。香山の口から祝詞が奏上される。

掛巻(かけまく)(かしこ)月弓尊(つきゆみのみこと)上弦(じやうげん)大虚(おほぞら)主給(つかさどりたま)月夜見尊(つきよみのみこと)圓満(ゑんまん)中天(ちうてん)照給(てらしたま)月読尊(つきよみのみこと)下弦(げげん)虚空(そら)知食(しろしめ)す……さん……かっ、は」

 浪々と奏上していたその声が、急に止まった。目を大きく見開き、息ができないとばかりに口を開けている。
 結ばれた印が崩れ不格好な合掌となり、すぐに震えだした。

「ああ、熱い。体が……体が熱い」

 香山の開かれた口から、見開かれた目から、光りが漏れ始めた。最初は微細だった光は、やがてその強さを増して拝殿の中を照らし始める。
 香山の体が床に倒れた。彼女の手が紫雲の作務衣の裾へと伸びる。紫雲はそれを冷めた目で見つつ軽く蹴飛ばすと、足を引いて香山の手が届く範囲から逃れた。

「あつい。あつぅい。あつ、あ、ああぁぁぁ」

 作務衣をはだけ、香山の白い肌が露わになる。胸の上部を掻きむり、爪が深く肌を(えぐ)っていく。だがそこから赤いものは流れない。傷口から漏れるのは月白の光だ。
 光は内側から容赦なく香山を侵食していく。すでに彼女に言葉はない。喉の奥から絞り出すような唸り声が僅かに聞こえてくるのみだ。
 光は香山の体の中から溢れ全身を包み込むと、突如弾けるように消えた。
 光が消えたあとには、香山の姿はなかった。まるで何事もなかったかのように静寂と夜が辺りを支配していた。

「奪い取った最後の月晶(げっしょう)……無駄に終わったか」

 香山が倒れていた場所を見て紫雲が言う。その顔からも、声からも、感情をうかがい知ることはできない。

「所詮は紛い物。やはりあの(むすめ)に目覚めてもらうほかない」

 紫雲はそれ以上気にすることなく、拝殿を後にした。
 信者がひとり、教団を辞めたという話が出たのはそれから二日後の事である。
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