五十夜 虎児と佳乃 其ノ二
文字数 3,405文字
バイト帰り、佳乃 は繁華街を少し外れた路地を歩いていた。時刻は夜の八時半を僅かに回ったところ。平日だが今日は来客が多く、夕刻を過ぎても客足が途絶えることがなかった。
そのため佳乃は閉店まで手伝ったのだった。
「そりゃ、マスターが淹 れた方が美味しいに決まってるじゃない」
そうぼやいて、佳乃は幼なじみの顔を思い浮かべた。虎児 はあれから、何度か喫茶店を訪れていた。
気まずい別れ方をした翌日、何気ないふうを装って虎児は喫茶店にやってきた。そしてわざとらしいほど陽気に佳乃に話しかけ、くだらない話を一方的に始めたのだ。
それは虎児が佳乃と喧嘩した後に決まってする、禊ぎのようなものだった。
冗談交じりのしゃべりと、あまりの話のくだらなさに呆れ、笑い、佳乃はけっきょく虎児を許してしまう。
喧嘩しても何となく仲直りしてしまうのが、いままでの二人の関係だった。
喫茶店に通う虎児はフレーバーコーヒーを片っ端から注文し、ひと通り飲んでいた。コーヒーは佳乃が練習で淹れることもあれば、マスターが淹れることもあった。マスターが淹れたコーヒーを飲む時、虎児は決まって佳乃の淹れたコーヒーと比較するのだ。
「あったまくるわね。ホント」
そう言って佳乃は苦笑する。
虎児のお気に入りはアイリッシュクリームらしい。香りは強くないが、甘いフレーバーだったはずだ。昔から特に甘党という印象はなかったが、何が気に入ったのだろうか。
虎児が知らぬ間 に、佳乃がコーヒー好きになっていたように、虎児の方もまた佳乃が知らぬ間 に変わっているのかもしれない。
変わったと言えば、虎児も携帯電話を持っていた。喫茶店で佳乃と話す度に、わざとらしく携帯電話をいじっていると思ったら、佳乃の番号を訊きたかったらしい。
その様子を思い出して、佳乃は笑った。
そして佳乃は手提げバックからストレートタイプの携帯電話を取り出した。新しもの好きの父親が、当時、高校生だった佳乃に与えてくれたものだ。今となっては型遅れの古い機種。
今は二つ折りが流行っており、液晶もカラーのものが出回っている。そう言えば、虎児の持っている携帯電話が二つ折りだった。
大学入学を機に機種変更を進めてくる父親の勧めを断り、今でも使い続けているのには理由 がある。
携帯電話のアドレス帳を開く。アドレス帳の「あ行」その二番目には「伊吹 虎児 」の名前があった。佳乃はその上――一番目の名前に目を向ける。そこには「秋 紅葉 」の名前がある。
だが「秋紅葉」の項 には電話番号はない。昔に一通だけ来た、フリーのメールアドレスが記憶されているだけだ。そのメールは間違って消さないように保護をかけてあった。
秋紅葉。彼女とは高校最後の年に出会った。佳乃のいままでの人生の中で、出会ってから別れるまでが最も短かった友人。しかし親友になれたかもしれない――そんな存在だった。
なぜなら、佳乃と紅葉 は〝月〟で繋がっていたのだから。
佳乃は小さい頃から月が好きだった。かぐや姫の話を聞いていつか自分も月に帰るのだと、小学生の頃まで本気で信じていたくらい、佳乃は月が好きだった。
そして彼女 も月が好きだった。多分、佳乃以上に紅葉は月に近い存在だったのだ。月が歌っていると教えてくれたのは他でもない紅葉だ。
佳乃はビルの合間から空を見上げる。地方都市とは言え、現代の夜は明るい。新月を過ぎたばかりの細い三日月がかろうじて見える。
紅葉からの最初で最後のメールが来た日以来、佳乃が月の歌をはっきりと聴くことはなかった。
だがごく希に満月の夜。月明かりに満ちた夜に、微かにそれらしき声を聴くことがある。そんな時、決まって佳乃は紅葉のことを思い出すのだ。
彼女が最後に見せた泣き笑いの顔を。
そうして物思いにふけっていたから、佳乃は前から人が走ってくることに気づかなかった。
「きゃ!」
自分より小さな人影とぶつかったことに気づいたのは、胸に受けた衝撃があったからだ。佳乃はよろめいて歩道に尻餅をついた。
ぶつかった相手の方はバランスを崩して前のめりに転んだ。相手の持っていた小さめのボストンバックが地面を転がる。
「大丈夫ですか!?」
相手の派手な倒れ方に驚いて、佳乃が思わず声をかけた。
佳乃にぶつかってきたのは小柄な女性だった。女性が佳乃に背を向けたまま起き上がる。
ダークブルーのシャツを隠すように、腰まで伸びた長い黒髪が流れ落ちた。下はベージュのパンツを履いており、全体的なシルエットはほっそりとしている。
その後ろ姿を見て、佳乃の心臓の鼓動が大きくなった。
「ごめんなさい」
女性はよほど急いでいるのか、佳乃を見ることなく言う。そしてボストンバックを拾った。
「……秋 さん?」
囁くような佳乃の声。しかしその声は女性に届いたようだった。弾かれたように女性が佳乃の方を向く。瞳が大きく黒目がちな、やや横長の目が佳乃を見る。最初は警戒しているように。そしてすぐに驚いたように見開かれる。
「染井 さん? なんで!?」
女性――紅葉の驚いたような声。しかしそれは再会を喜んでいるような雰囲気ではなかった。
「バイト帰り。近くでバイトしてるのよ」
佳乃は立ち上がると、紅葉に近づいた。その顔には柔らかい笑顔が浮かんでいる。
「ごめん。いまは急いでるの」
しかし紅葉は佳乃からすぐに目を離し、素早く回りを見回した。そして佳乃を避け、その場を離れようとする。
「待って!」
そのまま去っていこうとした紅葉の腕を、佳乃が掴んだ。
「っ!」
紅葉の体が一瞬、強ばった。まるで不意の痛みに襲われた時のように。
「ごめん!」佳乃が咄嗟に手を離す。「もしかして、転んだときに怪我したの?」
「違うわ。大丈夫。さっきので怪我したわけじゃないから」
紅葉は佳乃を見ることなくそのまま去ろうとする。しかし数歩進んで、力が抜けたようにその場に崩れる。
「紅葉!」
佳乃は駆け寄り、紅葉の体を支える。佳乃に支えられた紅葉の息が荒い。体も熱を持っているのが触れた手から伝わってくる。
佳乃は紅葉を、ビルの入り口近くに設置された花壇の端に座らせた。そのまま紅葉の額に手を当てる。
「熱があるわ」
紅葉の顔を覗き込んで、佳乃が言う。よく見ると紅葉の顔には小さな傷がいくつもあった。それはすでに瘡蓋 になっており、先ほど転んだときにできた傷ではないことを物語っていた。
「送っていくわ、どこに住んでいるの?」
「……大丈夫だから」
「紅葉?」
「わたしは大丈夫だから、染井さんはもう帰って!」
佳乃を見て紅葉が言う。その声も、表情も何かに必死に耐えているかのようだ。
「こんな紅葉を放って、帰れるわけないでしょ! 突然いなくなって、やっと会えたと思ったのに……そんなこと言わないでよ!」
佳乃も紅葉を見つめる。真剣に。必死に。
「なんで……なんでこんな時にあなたに会うのよ」
張り詰めていた紅葉の表情が、ふいに緩んだ。そこにはただただ無防備な、泣き笑いの表情があった。二年前に佳乃が見たのと同じ表情が。
「紅葉」佳乃は優しい声と表情で、紅葉の両肩を優しく掴む。「何があったのかは訊かない。でもあなたを放っておくこともしない。二年前みたいな後悔したくないの」
「……ありがとう。でもいまはだめなの。わたしと一緒にいたら、染井さんがまた巻き込まれる」
「〝また〟?」
紅葉はしまったという表情を浮かべる。だがもう遅い。佳乃は紅葉の言葉から、彼女が逃げていると気づいてしまった。それは二年前に紅葉を襲った〝月を喰らいし者 〟という連中からだということも。なぜなら当時、紅葉が襲われた現場に佳乃もいたのだから。
「追いかけられているのね」
「…………」
佳乃の言葉は確認ではなく断定。紅葉は俯いてなにも言わない。それが佳乃の推測は間違っていないと教えてくれる。
佳乃が辺りを見回す。繁華街を外れた通りには人の姿は少ない。歩行者はいたが、二人を気にする様子はなかった。
「……大丈夫。たぶん巻いたから」
観念したように、紅葉が言った。
「紅葉の家はバレてるの?」
「この街に住んでるわけじゃないわ」
「じゃあ、ホテルか何か?」
「……そうだけど、そこから逃げてきたの」
「じゃあ、わたしの家にいきましょう。いま一人暮らしなの」
「染井さん!?」
「このまま行かせないわ。せめて熱が下がるまで、ね?」
紅葉は何か言いかけて、諦めたように頷いた。
そのため佳乃は閉店まで手伝ったのだった。
「そりゃ、マスターが
そうぼやいて、佳乃は幼なじみの顔を思い浮かべた。
気まずい別れ方をした翌日、何気ないふうを装って虎児は喫茶店にやってきた。そしてわざとらしいほど陽気に佳乃に話しかけ、くだらない話を一方的に始めたのだ。
それは虎児が佳乃と喧嘩した後に決まってする、禊ぎのようなものだった。
冗談交じりのしゃべりと、あまりの話のくだらなさに呆れ、笑い、佳乃はけっきょく虎児を許してしまう。
喧嘩しても何となく仲直りしてしまうのが、いままでの二人の関係だった。
喫茶店に通う虎児はフレーバーコーヒーを片っ端から注文し、ひと通り飲んでいた。コーヒーは佳乃が練習で淹れることもあれば、マスターが淹れることもあった。マスターが淹れたコーヒーを飲む時、虎児は決まって佳乃の淹れたコーヒーと比較するのだ。
「あったまくるわね。ホント」
そう言って佳乃は苦笑する。
虎児のお気に入りはアイリッシュクリームらしい。香りは強くないが、甘いフレーバーだったはずだ。昔から特に甘党という印象はなかったが、何が気に入ったのだろうか。
虎児が知らぬ
変わったと言えば、虎児も携帯電話を持っていた。喫茶店で佳乃と話す度に、わざとらしく携帯電話をいじっていると思ったら、佳乃の番号を訊きたかったらしい。
その様子を思い出して、佳乃は笑った。
そして佳乃は手提げバックからストレートタイプの携帯電話を取り出した。新しもの好きの父親が、当時、高校生だった佳乃に与えてくれたものだ。今となっては型遅れの古い機種。
今は二つ折りが流行っており、液晶もカラーのものが出回っている。そう言えば、虎児の持っている携帯電話が二つ折りだった。
大学入学を機に機種変更を進めてくる父親の勧めを断り、今でも使い続けているのには
携帯電話のアドレス帳を開く。アドレス帳の「あ行」その二番目には「
だが「秋紅葉」の
秋紅葉。彼女とは高校最後の年に出会った。佳乃のいままでの人生の中で、出会ってから別れるまでが最も短かった友人。しかし親友になれたかもしれない――そんな存在だった。
なぜなら、佳乃と
佳乃は小さい頃から月が好きだった。かぐや姫の話を聞いていつか自分も月に帰るのだと、小学生の頃まで本気で信じていたくらい、佳乃は月が好きだった。
そして
佳乃はビルの合間から空を見上げる。地方都市とは言え、現代の夜は明るい。新月を過ぎたばかりの細い三日月がかろうじて見える。
紅葉からの最初で最後のメールが来た日以来、佳乃が月の歌をはっきりと聴くことはなかった。
だがごく希に満月の夜。月明かりに満ちた夜に、微かにそれらしき声を聴くことがある。そんな時、決まって佳乃は紅葉のことを思い出すのだ。
彼女が最後に見せた泣き笑いの顔を。
そうして物思いにふけっていたから、佳乃は前から人が走ってくることに気づかなかった。
「きゃ!」
自分より小さな人影とぶつかったことに気づいたのは、胸に受けた衝撃があったからだ。佳乃はよろめいて歩道に尻餅をついた。
ぶつかった相手の方はバランスを崩して前のめりに転んだ。相手の持っていた小さめのボストンバックが地面を転がる。
「大丈夫ですか!?」
相手の派手な倒れ方に驚いて、佳乃が思わず声をかけた。
佳乃にぶつかってきたのは小柄な女性だった。女性が佳乃に背を向けたまま起き上がる。
ダークブルーのシャツを隠すように、腰まで伸びた長い黒髪が流れ落ちた。下はベージュのパンツを履いており、全体的なシルエットはほっそりとしている。
その後ろ姿を見て、佳乃の心臓の鼓動が大きくなった。
「ごめんなさい」
女性はよほど急いでいるのか、佳乃を見ることなく言う。そしてボストンバックを拾った。
「……
囁くような佳乃の声。しかしその声は女性に届いたようだった。弾かれたように女性が佳乃の方を向く。瞳が大きく黒目がちな、やや横長の目が佳乃を見る。最初は警戒しているように。そしてすぐに驚いたように見開かれる。
「
女性――紅葉の驚いたような声。しかしそれは再会を喜んでいるような雰囲気ではなかった。
「バイト帰り。近くでバイトしてるのよ」
佳乃は立ち上がると、紅葉に近づいた。その顔には柔らかい笑顔が浮かんでいる。
「ごめん。いまは急いでるの」
しかし紅葉は佳乃からすぐに目を離し、素早く回りを見回した。そして佳乃を避け、その場を離れようとする。
「待って!」
そのまま去っていこうとした紅葉の腕を、佳乃が掴んだ。
「っ!」
紅葉の体が一瞬、強ばった。まるで不意の痛みに襲われた時のように。
「ごめん!」佳乃が咄嗟に手を離す。「もしかして、転んだときに怪我したの?」
「違うわ。大丈夫。さっきので怪我したわけじゃないから」
紅葉は佳乃を見ることなくそのまま去ろうとする。しかし数歩進んで、力が抜けたようにその場に崩れる。
「紅葉!」
佳乃は駆け寄り、紅葉の体を支える。佳乃に支えられた紅葉の息が荒い。体も熱を持っているのが触れた手から伝わってくる。
佳乃は紅葉を、ビルの入り口近くに設置された花壇の端に座らせた。そのまま紅葉の額に手を当てる。
「熱があるわ」
紅葉の顔を覗き込んで、佳乃が言う。よく見ると紅葉の顔には小さな傷がいくつもあった。それはすでに
「送っていくわ、どこに住んでいるの?」
「……大丈夫だから」
「紅葉?」
「わたしは大丈夫だから、染井さんはもう帰って!」
佳乃を見て紅葉が言う。その声も、表情も何かに必死に耐えているかのようだ。
「こんな紅葉を放って、帰れるわけないでしょ! 突然いなくなって、やっと会えたと思ったのに……そんなこと言わないでよ!」
佳乃も紅葉を見つめる。真剣に。必死に。
「なんで……なんでこんな時にあなたに会うのよ」
張り詰めていた紅葉の表情が、ふいに緩んだ。そこにはただただ無防備な、泣き笑いの表情があった。二年前に佳乃が見たのと同じ表情が。
「紅葉」佳乃は優しい声と表情で、紅葉の両肩を優しく掴む。「何があったのかは訊かない。でもあなたを放っておくこともしない。二年前みたいな後悔したくないの」
「……ありがとう。でもいまはだめなの。わたしと一緒にいたら、染井さんがまた巻き込まれる」
「〝また〟?」
紅葉はしまったという表情を浮かべる。だがもう遅い。佳乃は紅葉の言葉から、彼女が逃げていると気づいてしまった。それは二年前に紅葉を襲った〝
「追いかけられているのね」
「…………」
佳乃の言葉は確認ではなく断定。紅葉は俯いてなにも言わない。それが佳乃の推測は間違っていないと教えてくれる。
佳乃が辺りを見回す。繁華街を外れた通りには人の姿は少ない。歩行者はいたが、二人を気にする様子はなかった。
「……大丈夫。たぶん巻いたから」
観念したように、紅葉が言った。
「紅葉の家はバレてるの?」
「この街に住んでるわけじゃないわ」
「じゃあ、ホテルか何か?」
「……そうだけど、そこから逃げてきたの」
「じゃあ、わたしの家にいきましょう。いま一人暮らしなの」
「染井さん!?」
「このまま行かせないわ。せめて熱が下がるまで、ね?」
紅葉は何か言いかけて、諦めたように頷いた。