五十五夜 提案
文字数 2,750文字
「――佳乃 が〝月に捕らわれし者 〟になったんはそん時や。いまから二十年くらい前の話やな」
虎児 が葵 を見て言う。その顔に浮かぶのは苦い表情。木々の間から漏れてくる日差しが二人を照らす。
「そうだったんですね」言ってから、葵は何かに気づいたようにハッとする。「先輩、その時の〝月を喰らいし者 〟って……」
「おう。ウチの社長や。社長とはそん時以来の付き合いやな」
「じゃあ、先輩が〝月を喰らいし者 〟になったのも?」
「いいや。それからしばらく、ワイは警察におったまま佳乃たちのことを探しとった。そのうち見かけたいう情報 が入ってな。追いかけて行って……まぁ〝人〟のままやったさかい、今度は女狐 相手にボロ負けや。
それからやな。〝月を喰らいし者 〟に入ったんは」
虎児が肩を竦めてみせる。
葵は黙ったまま、虎児を見つめている。そしてふと表情を緩めた。
「……わかりました。先輩が桂 ……佳乃さんと会えるように、あたしが手配はします」
「葵?」
「けど」葵が虎児の目を覗き込む。「あたしが連絡するまでは宗弥 先輩のところで待機しておいてください」
「それはええけど……アテはあるんか?」
「宗教団体といっても施設内にずっといないとダメってこともないみたいです。特に佳乃さんは、施設外の畑に出ることもあるようですから、少し様子をみて先輩に連絡します」
虎児は動こうとしない。葵を見つめる表情は、何か言いたげだ。
「先輩、ハウス」
葵が言う。虎児は素直に回れ右をして、駆け足で走り出――そうとして葵の方へ顔だけ向けた。
「ワイは猫派やぞ」
「好みの話はしてませんし、フリでもありません」
葵はわざとらしくため息をつく。そして両腕を胸の前で組んで軽く睨んでみせた。
「本当に、待っててくださいよ。でないと、佳乃さんの前で先輩のこと〝お父さん〟って呼びますからね」
「……お前、鬼やな」
虎児は肩を落とし、森の中へ消えていった。それを見送ってから葵はメガネを掛け、蔓に触れて電源を入れた。
「宗弥先輩。突然切ったりして、すみませんでした」
『え? あ、ああ。うん』
宗弥の言葉のキレが悪い。
「宗弥先輩?」
『あ、いや……なんでもないよ』
「先輩と佳乃……桂って人を会わせることになりました。こちらから連絡するまで、先輩をそっちで繋いでおいてください」
『あはは。まるで犬だね』
「先輩は猫派ですけどね」
葵は神社の石段を降りていく。鳥居の側 に誰か立っているのが見えた。葵の表情が引き締まる。
「畑に行きたいのなら方向が逆よ? それとも神社 に何か特別なものでもあるのかしら?」
立っているのは生成の作務衣を着た、十三歳くらいの少女だった。切れ長の目と肩までの黒髪が、日本人形を彷彿とさせる――早乙女 百合 だ。
「なんで……宗弥先輩?」
石段の途中で立ち止まり、小声で葵が言う。
『二人が話している最中、神社に近寄ってくる人影は確認できなかったよ』
メガネに仕込まれた骨伝導イヤホンを通じて聞こえてくる宗弥の声には、焦りがあった。本当に確認できなかったのだろう。
百合 とは神社に来る前に、教団の敷地内で会っている。その後別れたのを確認したし、尾行もなかったはずだ。なのになぜこのタイミングでここにいるのだろうか。
「それと……あなたが会ってた人、とても桂さんには見えなかったけど?」
「なんのことでしょう?」
葵は何事もなかったかのように振る舞い、百合の横まで降りていく。
立ち止まった葵を、百合が見る。その口元には挑戦的な笑みが浮かんでいた。そして百合は無防備に葵に近づいた。
背は葵の方が高かった。すぐ側まで来ると百合は葵を下から見つめる。その視線は目上の者へむける類のものではない。しかし葵を見下しているわけでもなさそうだ。
「あの男の人は信者じゃないわよね?」
「だとしたら、どうしますか?紫雲 さまに言いますか?」
どこかで見られていたのだろうか。山の中を移動して近づいて来たのならば、宗弥の操るドローンでも見つけられないかもしれない。もし話まで聞かれているとしたら、しらを切るのは難しい。
そう判断した葵は最悪の場合、撤退をする覚悟を決めて百合を睨む。
「そう怖い顔しないで。紫雲なんかに言ったりはしないわ。言ったところで紫雲 が承知しているのなら無駄だし」
百合は葵から少し距離をとる。
葵は百合の言葉に違和感を覚えた。「紫雲が承知しているのなら」。彼女は確かにそう言ったのだ。それはまるで、紫雲と葵が仲間だと思っているようではないか。
更には百合の言葉には、紫雲に対する軽い嫌悪が感じられた。
「でもまぁ……あなたたちが何者かにもよるけどね」
この言葉で葵は確信する。百合は自分たちの話までは聞いていない。そして彼女は葵たちのことを警戒しているが、敵かどうか計りかねているのだ。
百合の他に誰か潜んでいないか。葵は回りを素早く見回した。
「心配しなくても、私ひとりよ」
百合は葵の様子を見て、可笑しそうに言う。その笑い方はやはり大人びていた。
「さっきの男が戻ってくるかもしれないのに、随分と落ち着いているんですね」
「そうね。でも多分……あなたは私の話を聞いてくれるわ。だって、すぐに手を打つつもりなら、戻ってくるかもなんて脅し方しないもの」
その声は自信に満ちていた。葵は言葉に詰まる。この手の駆け引きは自分には苦手だ。
「あなたは、これが何かわかるわよね?」
そう言って、百合は懐から紐を通した勾玉を出してみせる。勾玉は乳白色の――月長石 で出来ていた。
「月長石 ! やっぱり〝月に捕らわれし者 〟……あっ!」
「るなてぃっく? ああ。あなたって紫雲 の言ってた……えくりぷす、とか言う存在?」
葵は失言に唇を噛んだ。月の歌を聴ける者は、自分たちのことを〝月に捕らわれし者 〟とは呼ばない。そう呼ぶのは〝月を喰らいし者 〟だけだ。
葵は自ら正体をバラしてしまったのだ。百合の〝月の贈り物 〟がどのような能力なのかは分からない。だが、ここで一戦交えないといけないかもしれない。
「警戒しないで。あなたたちが紫雲と敵対してるのなら、むしろ都合がいいわ」
しかし、百合から出た言葉は葵にとって予想外のものだった。
「都合がいい?」
「手を組みたいって……って言ったら信じる?」
「え?」
「私たちはね、紫雲のことを信用してないの」
「〝私たち〟?」
「私と昔から里にいる人たちね。あとお父さま……はいまのところ中立だけど」
――溝はありそうだけど。
――溝?
――元々の住人と、教団との間にね。
村に来る途中に宗弥と交わした会話の内容が、葵の脳裏に思い浮かぶ。
黙ったままの葵を見て話を聞いてくれると思ったのか、百合は言葉を続けた。
「もし、この里から紫雲を追い出してくれるのなら、あなたたちに協力してあげてもいいわ」
「そうだったんですね」言ってから、葵は何かに気づいたようにハッとする。「先輩、その時の〝
「おう。ウチの社長や。社長とはそん時以来の付き合いやな」
「じゃあ、先輩が〝
「いいや。それからしばらく、ワイは警察におったまま佳乃たちのことを探しとった。そのうち見かけたいう
それからやな。〝
虎児が肩を竦めてみせる。
葵は黙ったまま、虎児を見つめている。そしてふと表情を緩めた。
「……わかりました。先輩が
「葵?」
「けど」葵が虎児の目を覗き込む。「あたしが連絡するまでは
「それはええけど……アテはあるんか?」
「宗教団体といっても施設内にずっといないとダメってこともないみたいです。特に佳乃さんは、施設外の畑に出ることもあるようですから、少し様子をみて先輩に連絡します」
虎児は動こうとしない。葵を見つめる表情は、何か言いたげだ。
「先輩、ハウス」
葵が言う。虎児は素直に回れ右をして、駆け足で走り出――そうとして葵の方へ顔だけ向けた。
「ワイは猫派やぞ」
「好みの話はしてませんし、フリでもありません」
葵はわざとらしくため息をつく。そして両腕を胸の前で組んで軽く睨んでみせた。
「本当に、待っててくださいよ。でないと、佳乃さんの前で先輩のこと〝お父さん〟って呼びますからね」
「……お前、鬼やな」
虎児は肩を落とし、森の中へ消えていった。それを見送ってから葵はメガネを掛け、蔓に触れて電源を入れた。
「宗弥先輩。突然切ったりして、すみませんでした」
『え? あ、ああ。うん』
宗弥の言葉のキレが悪い。
「宗弥先輩?」
『あ、いや……なんでもないよ』
「先輩と佳乃……桂って人を会わせることになりました。こちらから連絡するまで、先輩をそっちで繋いでおいてください」
『あはは。まるで犬だね』
「先輩は猫派ですけどね」
葵は神社の石段を降りていく。鳥居の
「畑に行きたいのなら方向が逆よ? それとも
立っているのは生成の作務衣を着た、十三歳くらいの少女だった。切れ長の目と肩までの黒髪が、日本人形を彷彿とさせる――
「なんで……宗弥先輩?」
石段の途中で立ち止まり、小声で葵が言う。
『二人が話している最中、神社に近寄ってくる人影は確認できなかったよ』
メガネに仕込まれた骨伝導イヤホンを通じて聞こえてくる宗弥の声には、焦りがあった。本当に確認できなかったのだろう。
「それと……あなたが会ってた人、とても桂さんには見えなかったけど?」
「なんのことでしょう?」
葵は何事もなかったかのように振る舞い、百合の横まで降りていく。
立ち止まった葵を、百合が見る。その口元には挑戦的な笑みが浮かんでいた。そして百合は無防備に葵に近づいた。
背は葵の方が高かった。すぐ側まで来ると百合は葵を下から見つめる。その視線は目上の者へむける類のものではない。しかし葵を見下しているわけでもなさそうだ。
「あの男の人は信者じゃないわよね?」
「だとしたら、どうしますか?
どこかで見られていたのだろうか。山の中を移動して近づいて来たのならば、宗弥の操るドローンでも見つけられないかもしれない。もし話まで聞かれているとしたら、しらを切るのは難しい。
そう判断した葵は最悪の場合、撤退をする覚悟を決めて百合を睨む。
「そう怖い顔しないで。紫雲なんかに言ったりはしないわ。言ったところで
百合は葵から少し距離をとる。
葵は百合の言葉に違和感を覚えた。「紫雲が承知しているのなら」。彼女は確かにそう言ったのだ。それはまるで、紫雲と葵が仲間だと思っているようではないか。
更には百合の言葉には、紫雲に対する軽い嫌悪が感じられた。
「でもまぁ……あなたたちが何者かにもよるけどね」
この言葉で葵は確信する。百合は自分たちの話までは聞いていない。そして彼女は葵たちのことを警戒しているが、敵かどうか計りかねているのだ。
百合の他に誰か潜んでいないか。葵は回りを素早く見回した。
「心配しなくても、私ひとりよ」
百合は葵の様子を見て、可笑しそうに言う。その笑い方はやはり大人びていた。
「さっきの男が戻ってくるかもしれないのに、随分と落ち着いているんですね」
「そうね。でも多分……あなたは私の話を聞いてくれるわ。だって、すぐに手を打つつもりなら、戻ってくるかもなんて脅し方しないもの」
その声は自信に満ちていた。葵は言葉に詰まる。この手の駆け引きは自分には苦手だ。
「あなたは、これが何かわかるわよね?」
そう言って、百合は懐から紐を通した勾玉を出してみせる。勾玉は乳白色の――
「
「るなてぃっく? ああ。あなたって
葵は失言に唇を噛んだ。月の歌を聴ける者は、自分たちのことを〝
葵は自ら正体をバラしてしまったのだ。百合の〝
「警戒しないで。あなたたちが紫雲と敵対してるのなら、むしろ都合がいいわ」
しかし、百合から出た言葉は葵にとって予想外のものだった。
「都合がいい?」
「手を組みたいって……って言ったら信じる?」
「え?」
「私たちはね、紫雲のことを信用してないの」
「〝私たち〟?」
「私と昔から里にいる人たちね。あとお父さま……はいまのところ中立だけど」
――溝はありそうだけど。
――溝?
――元々の住人と、教団との間にね。
村に来る途中に宗弥と交わした会話の内容が、葵の脳裏に思い浮かぶ。
黙ったままの葵を見て話を聞いてくれると思ったのか、百合は言葉を続けた。
「もし、この里から紫雲を追い出してくれるのなら、あなたたちに協力してあげてもいいわ」