第28話 勇者と異変5
文字数 2,940文字
絶妙なふわふわ加減に仕上がったスクランブルエッグを平らげ、台所周辺を軽く掃除してもまだ少し時間の余裕があった。昔のクセでついつい早めにアラームをかけてしまうのだ。それでも自分一人ならそうそう起きないからいつもなんとなくつじつまが合うのだけれど、今日は予想外の強力目覚ましが現れたもんだから予想外に早起きしてしまった。
なんとなくぼんやりと部屋の中を眺めると、昨日眠る前にポケットから取り出して置いておいた例の剣と、ここに来た初日からほったらかしの色あせたノートが視界に入った。
たしか、仕事のこととか、気になったことを書けと言われていたっけ。
文章を書くのは嫌いではないが、こと「日記」とか「記録」というものは苦手だ。子どもの頃も夏休みの絵日記はラスト3日で怪しい記憶を再構築して書きなぐるのが常だったし、もちろん自分で日記をつけようと思ったこともない。
それでも教師をしていた頃は生徒の様子とか、指導した内容とか、気になったことは書き残すようにしていた。それは、もちろん何かあった時に事実を確認証明するための職務上の責任でもあったが、それ以上に慌ただしい日常の中でふっと見落としてしまいそうなものをとっておいて、少し噛み砕いてみるという気持ちでもあった。
だからおれの「記録」は、いわゆる「客観的事実」だけにとどまらず、生徒との雑談の内容(ペットの様子とか、うまいラーメン屋とか、流行っているドラマの犯人予想とか)まで残っているときもあり、同僚には「売れない芸人のネタ帳」と呼ばれていた。
そんなことを思い出しながら、おれは机の上のノートを手に取った。なんの変哲もない大学ノート。書き込んだら返事が浮かび上がってくるとか、文字が光り出すとか、そんなこと起きないだろうかといまだに片隅にある「異世界っぽさ」への未練を少しの期待に変えて試しに数行書いてみるも、いくら眺めてもそれはいつまでも見慣れたただの自分の字だった。
まぁそんなもんだよなと思いつつ、せっかく書き出したのだから昨日一日のことを少し書き留めておくことにした。
ゴミ拾いの仕事と不可思議なゴミ達のこと。
ハルが飲み物を差し入れてくれたことと味覚崩壊疑惑のこと。
そこまで書いて、帰り道に謎の影に襲われたことをその先に付け加えるか少し悩んでペンを置いた。できごととしてはかなりの大物だが、決して心温まるエピソードではない。というか、そもそもここに書いたって何かがわかるわけではないのだから、さっきハルに直接聞いてみれば良かったのだ。寝起きの思考不十分状態で、さらにハルが不機嫌モードだったこともあるが、それにしても真っ先にその話題を出さなかった自分の不注意か図太さか、その両方かを軽く後悔した。
結局、「影に襲われた」なんて物騒かつ厨二感全開の内容はやめて、そのいきさつの中で思い出した旬とのやり取りを書いておくことにした。昔一緒にゴミ拾いをしたこと、喧嘩のときの、面倒そうにしながらもどこか涼やかなあいつの姿。
剣型ペンは意外にもすらすらと字を綴った。これ、けっこう便利なんだよな。剣の部分は袋の口開けたりする時に使えるし。
1ページ弱書いたところで、いい時間になったのでノートを閉じて家を出た。
野原さんは昨日と同じ穏やかな笑顔で出迎えてくれた。朝イチであの迫力ある魔王顔を見た後だからか余計にこの穏やかさが尊く見える。野原さんの目の前に並んでいる駄菓子を食べたらちょっとご利益とかありそうだ。
「おはようございます」
「おはよう。昨日は遅くまでご苦労さん。大変だったでしょう」
そんなに労ってもらえるとなんだかこっちが申し訳ない。野原さんが言うとただの社交辞令に聞こえないところがすごいと思う。
仕事の後はたしかに「大変だった」のだが、野原さんが紹介してくれた仕事自体に問題があったわけではないので、とりあえずハルに聞くまで「影」の件は黙っておくことにした。仕事自体は元々がブラック公務員から掛け持ちアルバイターという経歴だし、ちょっとくらい作業がきつかろうが何の問題もなかったので、「ありがとうございます。大丈夫ですよ」と簡潔に返事をした。
「もしかして、今日も仕事探しに来た?」
「あ、はい。あればでいいんですけど」
そう答えると野原さんはなぜかまじまじとおれを見て、それからふっと微笑んだ。
「やっぱり、山田さんって不思議だよね」
「え、おれ、なんか変ですかね?」
ハルに言われたときは冷静に「お互いな」と流せたのだが、野原さんのような善良な市民の代表格みたいな人に言われるとたじろいでしまう。ハルに言ったら怒られそうだけど。野原さんは緩やかに首を振った。
「いやいや、変じゃないよ。でもここでは、毎日仕事をしようとする人って、多くはないから」
また突然、奇妙な世界観を告げられて困惑する。
「え、でも、野原さんも……ハルも、仕事してますよね」
「僕らはまぁ……役割だからね。でも山田さんのそういうところ、いいと思うよ。ハルが構いたくなるのも少しわかるかな」
「……おれ、ハルに構われてるんですか?」
初耳だ。いや、どっちかというと聞かないままでいてもよかった情報だ。
そういえば出会った初日に「おまえといると退屈しのぎになる」的な宣言をされた気もするが、他に考えることが多すぎてあまり気にしていなかった。一体ハルが何に退屈していて、おれの何がハルの退屈を紛らわせそうなのかまったくわからない。ハルの考えなんて想像してもたぶんわからないけど、まぁ退屈だと言われるよりは退屈しないと言われる方がマシだと思っておこう。
そんなことより、毎日働かない人が多いって本当なんだろうかとそっちの方が気になった。この世界では、それでもやっていけるんだろうか。少し頭の中はぐるぐるするが、それでもおれの中の今日の予定はそれほど揺らがなかった。
「ここのことはまだあんまりわからないんですけど、できることがあればやりたいんです。何かしないと、何もわからないままだから」
そう言うと、野原さんは優しく微笑んでくれた。
なんだってやってみろ。最初から好きだとか嫌いだとか、おもしろいとかおもしろくないとか、必要だとか必要ないとか、そうやって簡単に片づけてしまわずに。自分でやってみなければ、「自分」にとっての価値や意味なんてわからない。立ち止まったままで、一歩も動かずに見える景色なんてたかがしれている。そう言ったのはおれ自身だ。
はかりしれない可能性と、柔らかな感性を持つあいつらに、いっぱい挑戦してほしかった。失敗したっていい。今なら守ってやれるから、思い切り挑めばいい。そう思っていた。
「じゃあ、今日は配達の仕事を頼もうかな。そんなに量はないから、半日あれば終わると思うよ」
野原さんはそう言って書類を出してくれた。野原さんのことも、ハルのことも、この世界のことも、いまだによくわからないしつかめない。
それでもこうやって笑顔を交わせる人たちがいるならそう悪い状況でもないだろう。あとは、自分の足で動いて、自分の目でいろいろなものを見て行くしかない。あいつらにそう伝えたように。
ハルに起こされて(起こしてもらって)できたせっかくの時間、仕事をして、買い物をして、ちゃんと過ごそうと思った。
なんとなくぼんやりと部屋の中を眺めると、昨日眠る前にポケットから取り出して置いておいた例の剣と、ここに来た初日からほったらかしの色あせたノートが視界に入った。
たしか、仕事のこととか、気になったことを書けと言われていたっけ。
文章を書くのは嫌いではないが、こと「日記」とか「記録」というものは苦手だ。子どもの頃も夏休みの絵日記はラスト3日で怪しい記憶を再構築して書きなぐるのが常だったし、もちろん自分で日記をつけようと思ったこともない。
それでも教師をしていた頃は生徒の様子とか、指導した内容とか、気になったことは書き残すようにしていた。それは、もちろん何かあった時に事実を確認証明するための職務上の責任でもあったが、それ以上に慌ただしい日常の中でふっと見落としてしまいそうなものをとっておいて、少し噛み砕いてみるという気持ちでもあった。
だからおれの「記録」は、いわゆる「客観的事実」だけにとどまらず、生徒との雑談の内容(ペットの様子とか、うまいラーメン屋とか、流行っているドラマの犯人予想とか)まで残っているときもあり、同僚には「売れない芸人のネタ帳」と呼ばれていた。
そんなことを思い出しながら、おれは机の上のノートを手に取った。なんの変哲もない大学ノート。書き込んだら返事が浮かび上がってくるとか、文字が光り出すとか、そんなこと起きないだろうかといまだに片隅にある「異世界っぽさ」への未練を少しの期待に変えて試しに数行書いてみるも、いくら眺めてもそれはいつまでも見慣れたただの自分の字だった。
まぁそんなもんだよなと思いつつ、せっかく書き出したのだから昨日一日のことを少し書き留めておくことにした。
ゴミ拾いの仕事と不可思議なゴミ達のこと。
ハルが飲み物を差し入れてくれたことと味覚崩壊疑惑のこと。
そこまで書いて、帰り道に謎の影に襲われたことをその先に付け加えるか少し悩んでペンを置いた。できごととしてはかなりの大物だが、決して心温まるエピソードではない。というか、そもそもここに書いたって何かがわかるわけではないのだから、さっきハルに直接聞いてみれば良かったのだ。寝起きの思考不十分状態で、さらにハルが不機嫌モードだったこともあるが、それにしても真っ先にその話題を出さなかった自分の不注意か図太さか、その両方かを軽く後悔した。
結局、「影に襲われた」なんて物騒かつ厨二感全開の内容はやめて、そのいきさつの中で思い出した旬とのやり取りを書いておくことにした。昔一緒にゴミ拾いをしたこと、喧嘩のときの、面倒そうにしながらもどこか涼やかなあいつの姿。
剣型ペンは意外にもすらすらと字を綴った。これ、けっこう便利なんだよな。剣の部分は袋の口開けたりする時に使えるし。
1ページ弱書いたところで、いい時間になったのでノートを閉じて家を出た。
野原さんは昨日と同じ穏やかな笑顔で出迎えてくれた。朝イチであの迫力ある魔王顔を見た後だからか余計にこの穏やかさが尊く見える。野原さんの目の前に並んでいる駄菓子を食べたらちょっとご利益とかありそうだ。
「おはようございます」
「おはよう。昨日は遅くまでご苦労さん。大変だったでしょう」
そんなに労ってもらえるとなんだかこっちが申し訳ない。野原さんが言うとただの社交辞令に聞こえないところがすごいと思う。
仕事の後はたしかに「大変だった」のだが、野原さんが紹介してくれた仕事自体に問題があったわけではないので、とりあえずハルに聞くまで「影」の件は黙っておくことにした。仕事自体は元々がブラック公務員から掛け持ちアルバイターという経歴だし、ちょっとくらい作業がきつかろうが何の問題もなかったので、「ありがとうございます。大丈夫ですよ」と簡潔に返事をした。
「もしかして、今日も仕事探しに来た?」
「あ、はい。あればでいいんですけど」
そう答えると野原さんはなぜかまじまじとおれを見て、それからふっと微笑んだ。
「やっぱり、山田さんって不思議だよね」
「え、おれ、なんか変ですかね?」
ハルに言われたときは冷静に「お互いな」と流せたのだが、野原さんのような善良な市民の代表格みたいな人に言われるとたじろいでしまう。ハルに言ったら怒られそうだけど。野原さんは緩やかに首を振った。
「いやいや、変じゃないよ。でもここでは、毎日仕事をしようとする人って、多くはないから」
また突然、奇妙な世界観を告げられて困惑する。
「え、でも、野原さんも……ハルも、仕事してますよね」
「僕らはまぁ……役割だからね。でも山田さんのそういうところ、いいと思うよ。ハルが構いたくなるのも少しわかるかな」
「……おれ、ハルに構われてるんですか?」
初耳だ。いや、どっちかというと聞かないままでいてもよかった情報だ。
そういえば出会った初日に「おまえといると退屈しのぎになる」的な宣言をされた気もするが、他に考えることが多すぎてあまり気にしていなかった。一体ハルが何に退屈していて、おれの何がハルの退屈を紛らわせそうなのかまったくわからない。ハルの考えなんて想像してもたぶんわからないけど、まぁ退屈だと言われるよりは退屈しないと言われる方がマシだと思っておこう。
そんなことより、毎日働かない人が多いって本当なんだろうかとそっちの方が気になった。この世界では、それでもやっていけるんだろうか。少し頭の中はぐるぐるするが、それでもおれの中の今日の予定はそれほど揺らがなかった。
「ここのことはまだあんまりわからないんですけど、できることがあればやりたいんです。何かしないと、何もわからないままだから」
そう言うと、野原さんは優しく微笑んでくれた。
なんだってやってみろ。最初から好きだとか嫌いだとか、おもしろいとかおもしろくないとか、必要だとか必要ないとか、そうやって簡単に片づけてしまわずに。自分でやってみなければ、「自分」にとっての価値や意味なんてわからない。立ち止まったままで、一歩も動かずに見える景色なんてたかがしれている。そう言ったのはおれ自身だ。
はかりしれない可能性と、柔らかな感性を持つあいつらに、いっぱい挑戦してほしかった。失敗したっていい。今なら守ってやれるから、思い切り挑めばいい。そう思っていた。
「じゃあ、今日は配達の仕事を頼もうかな。そんなに量はないから、半日あれば終わると思うよ」
野原さんはそう言って書類を出してくれた。野原さんのことも、ハルのことも、この世界のことも、いまだによくわからないしつかめない。
それでもこうやって笑顔を交わせる人たちがいるならそう悪い状況でもないだろう。あとは、自分の足で動いて、自分の目でいろいろなものを見て行くしかない。あいつらにそう伝えたように。
ハルに起こされて(起こしてもらって)できたせっかくの時間、仕事をして、買い物をして、ちゃんと過ごそうと思った。