第26話 勇者と異変3

文字数 1,102文字

どくどくと、嫌な速さで波打つ鼓動をかき消すように深く息を吐く。薄暗い中で恐る恐る自分の脚を見下ろすが、特に負傷したわけでも異変があるわけでもなかった。まさかあんな見るからにダークファンタジーめいた謎の生き物と、己の身体能力ひとつで対峙させられる日が来るとは思わなかった。おれが触れてきた小説やアニメやゲームは、ずいぶん主人公に対して良心的な親切設計だったのだなと、まだ落ち着かない呼吸を整えながら記憶の中の「勇者」たちを恨めしく思った。

震えそうになる脚を拳で叩きながら、のろのろと歩き出す。断片的に見覚えのある風景がぼんやりと視界の端に映るような気がしたが、地理感覚を整理するような気力もなく、家の方向すらいまいちおぼつかないままに、機械的に脚を動かし続けた。

かなり余計に歩いたような気がしたが、なんとか見覚えのあるアパートにたどり着くことはできた。その頃にはまた闇からにじみ出てきたようにちらほらと通行人の姿も見えだし、微かな生活音や道行く人の会話の断片のようなものも聴こえるようになっていた。

鍵を開け、リビングに入るとさすがに疲労が押し寄せた。さすがに運動不足気味だったかとか、いやいやそういう問題でもないかとか、自分でもつかみどころのない問答を頭の中で繰り返し、漠然とした恐怖と嫌悪感を洗い流すようにシャワーを浴びてごろりと床に寝ころんだ。

面倒そうにしながらも、鮮やかな身のこなしで自身を囲む雑音を払っていく旬の姿を思い出す。喧嘩を売られるのはあいつに取ってただの「面倒ごと」で、「雑音」だった。人に殴られるのも、人を殴るのも決して好きではなかった。

でも、身体を動かしているときのあいつは、こころなしかいつもよりも軽やかで、いつもよりもはっきりとした表情をしていた。そこにいるのが敵意や悪意を背負った見知らぬ人間でなければ、たとえばあいつが唯一大切に持っていた白黒のボールや一緒にそれを追いかける仲間であったとしたら、旬の表情はもっと生き生きと輝くのかもしれない。首根っこを掴んで喧嘩の輪から引きはがすたびに、何度となくそう思った。

あのときの、咄嗟の身体の動きは、たぶん旬のことを思い出したからできたのだろう。「売られたからと言って軽率に買うな」と何度もあいつの喧嘩癖を叱ってきたけど、今日ばかりはその記憶に救われた。守っていたのか、守られていたのかわからないなと苦笑すると、不思議とゆったりとした眠気が押し寄せてきた。

とりあえず明日は最低限の家具を買いに行こう。今買えるものには限度があるが、やっぱり働いて帰ってきたら布団で寝たい。そんなことをぼんやりと考えながら、その日はそのまま眠りに落ちた。
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登場人物紹介

山田 銀太

中途半端な異世界に迷い込んだアラサーフリーター。前職は中学校の教員だが、ある「悔い」を抱えて仕事を辞めた。相棒のハル曰く「見た目より断然図太い」。

ハル

銀太のサポーターとして世話を焼く、異世界の「市役所っぽいところの職員」。黒髪にアメジストの瞳を持つ謎めいた青年で、不思議な力を持っているらしい。銀太曰く「見た目が邪悪だが、意外と苦労性」。

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