(11) 二人の距離感
文字数 1,725文字
神堂に対する第一印象は学生風。第二印象は歳上。いずれも間違ってはいなかった。
大学に籍を置いたまま、先輩が経営する会社でアルバイトだか契約社員だかよく分からない立場で仕事を手伝っているということだった。二浪して入った最初の大学を七年かけて卒業し、今の大学の大学院に進学して四年目らしい。
「現役で大学に入って四年で卒業したとすると……」
絵里子は彼の年齢を計算してみた。
「新卒に換算して社会人九年目かな。じゃあ、わたしより四つ先輩ってことですかね」
その計算結果に神堂が驚いた表情を見せた。
「えっ?」
「何か?」
「あ、いや。何でもない……」
「明らかにわたしの年齢が想像と違っていたっていう反応ですよね。もっと若いと思っていたのか、もっと歳上だと思っていたのか、どっちですか?」
「いや、そんなことは、えーと、」
神堂は明後日の方向に視線を逃がした。
「どっちって言った方がいいか、頭の中でシミュレーションしてます? してますよね?」
どちらにせよ女性に対して年齢の話題は振らない方が平和だと、このときの居酒屋のカウンタで身に染みたと、のちに神堂は絵里子に笑っていた。
歳上とはいえ神堂は学生でもある。一方の絵里子の方はビニール傘一本買うことをうじうじ逡巡するようなOLだ。値の張る店には行けなかった。さらに職場の近くでは人目が気になる旨、絵里子がやんわりと意向を伝え、それを神堂が敏感に感じ取った結果、二人は神堂の大学の研究室の教授が焼酎をキープしているという居酒屋に、割り勘でという約束で入ったのだった。
その時間になってもやはり止みそうで止まない雨が地味にしつこく降ってはいたけれど、もちろんもう相合傘ではなかった。絵里子は職場に置いてあった折り畳み傘を差し、神堂の方は昼間のビニール傘をそのまま使っていた。
これ以降も神堂は雨の日には必ず同じ傘を使っていた。神堂がその傘の柄の部分に赤いビニールテープを貼っていたので、絵里子にも見分けがついた。それはただ職場で所有権を主張するために貼っただけのものかもしれないけれど、そのテープのおかげでどこにでもある透明なビニール傘が唯一無二のものになったように絵里子には思えた。
「大学の人とか来るんじゃない?」
「別に来たって問題ないです」
時折絵里子がタメ口になって神堂が敬語になったり、その逆に戻ったり、双方が敬語で喋ったりを繰り返しながら、二人は距離感を調整していた。
このときの居酒屋で神堂の野菜嫌いを知った。
「子どもみたいじゃない」
「好き嫌いに大人も子どもも関係ないと思うけど」
「そうかしら。じゃあ、好きな食べ物って言われて何が一番に思い浮かぶの?」
「チョココロネ」
「チョココロネ?!」
あまりにも意外な答えに絵里子は吹き出した。
「ほんとうに子どもみたいじゃないですか」
「チョココロネを馬鹿にしちゃいけないよ。あんパンやクリームパンみたいに安直なパンとは次元が違うんだから、チョココロネは」
そこから神堂はチョココロネについて熱く語り始めた。はじめは面白がって聞いていた絵里子だったが、正しく焼き上げたチョココロネの形状は黄金比に支配されているなどと言い始めた時点で限界が来た。
「はいはい。もうけっこう。それ以上はチョココロネ愛好家の人と盛り上がってください」
焼酎の残りが乏しくなった頃には、アルコールの効果もあって二人ともタメ口になっていた。
「まずい。これ以上飲んだら新しいボトルを入れなきゃいけなくなる」
それでお開きになった。
店を出ると雨は上がっていた。
「ボトルが新しいのに入れ替わったら、また誘ってもいいかな」
神堂は絵里子を見るでもなく、何も見えないであろう曇った空を見上げていた。思えばその景色が二人の将来を暗示していたのかもしれない。
ここできっぱりと断っておくべきだったと、絵里子はのちにずいぶんと後悔した。新しいボトルが入ったらなんていう会うための言い訳よりも、自分自身が抱えている会えない理由を優先しなければいけなかった。二人で会うのはこれきりにしましょうと毅然と伝えなければいけなかった。それが出来なかった弱さが結局は神堂を、自分をも、深く傷つけることになってしまったのだと。
大学に籍を置いたまま、先輩が経営する会社でアルバイトだか契約社員だかよく分からない立場で仕事を手伝っているということだった。二浪して入った最初の大学を七年かけて卒業し、今の大学の大学院に進学して四年目らしい。
「現役で大学に入って四年で卒業したとすると……」
絵里子は彼の年齢を計算してみた。
「新卒に換算して社会人九年目かな。じゃあ、わたしより四つ先輩ってことですかね」
その計算結果に神堂が驚いた表情を見せた。
「えっ?」
「何か?」
「あ、いや。何でもない……」
「明らかにわたしの年齢が想像と違っていたっていう反応ですよね。もっと若いと思っていたのか、もっと歳上だと思っていたのか、どっちですか?」
「いや、そんなことは、えーと、」
神堂は明後日の方向に視線を逃がした。
「どっちって言った方がいいか、頭の中でシミュレーションしてます? してますよね?」
どちらにせよ女性に対して年齢の話題は振らない方が平和だと、このときの居酒屋のカウンタで身に染みたと、のちに神堂は絵里子に笑っていた。
歳上とはいえ神堂は学生でもある。一方の絵里子の方はビニール傘一本買うことをうじうじ逡巡するようなOLだ。値の張る店には行けなかった。さらに職場の近くでは人目が気になる旨、絵里子がやんわりと意向を伝え、それを神堂が敏感に感じ取った結果、二人は神堂の大学の研究室の教授が焼酎をキープしているという居酒屋に、割り勘でという約束で入ったのだった。
その時間になってもやはり止みそうで止まない雨が地味にしつこく降ってはいたけれど、もちろんもう相合傘ではなかった。絵里子は職場に置いてあった折り畳み傘を差し、神堂の方は昼間のビニール傘をそのまま使っていた。
これ以降も神堂は雨の日には必ず同じ傘を使っていた。神堂がその傘の柄の部分に赤いビニールテープを貼っていたので、絵里子にも見分けがついた。それはただ職場で所有権を主張するために貼っただけのものかもしれないけれど、そのテープのおかげでどこにでもある透明なビニール傘が唯一無二のものになったように絵里子には思えた。
「大学の人とか来るんじゃない?」
「別に来たって問題ないです」
時折絵里子がタメ口になって神堂が敬語になったり、その逆に戻ったり、双方が敬語で喋ったりを繰り返しながら、二人は距離感を調整していた。
このときの居酒屋で神堂の野菜嫌いを知った。
「子どもみたいじゃない」
「好き嫌いに大人も子どもも関係ないと思うけど」
「そうかしら。じゃあ、好きな食べ物って言われて何が一番に思い浮かぶの?」
「チョココロネ」
「チョココロネ?!」
あまりにも意外な答えに絵里子は吹き出した。
「ほんとうに子どもみたいじゃないですか」
「チョココロネを馬鹿にしちゃいけないよ。あんパンやクリームパンみたいに安直なパンとは次元が違うんだから、チョココロネは」
そこから神堂はチョココロネについて熱く語り始めた。はじめは面白がって聞いていた絵里子だったが、正しく焼き上げたチョココロネの形状は黄金比に支配されているなどと言い始めた時点で限界が来た。
「はいはい。もうけっこう。それ以上はチョココロネ愛好家の人と盛り上がってください」
焼酎の残りが乏しくなった頃には、アルコールの効果もあって二人ともタメ口になっていた。
「まずい。これ以上飲んだら新しいボトルを入れなきゃいけなくなる」
それでお開きになった。
店を出ると雨は上がっていた。
「ボトルが新しいのに入れ替わったら、また誘ってもいいかな」
神堂は絵里子を見るでもなく、何も見えないであろう曇った空を見上げていた。思えばその景色が二人の将来を暗示していたのかもしれない。
ここできっぱりと断っておくべきだったと、絵里子はのちにずいぶんと後悔した。新しいボトルが入ったらなんていう会うための言い訳よりも、自分自身が抱えている会えない理由を優先しなければいけなかった。二人で会うのはこれきりにしましょうと毅然と伝えなければいけなかった。それが出来なかった弱さが結局は神堂を、自分をも、深く傷つけることになってしまったのだと。