(12) 地下三階
文字数 2,478文字
絵里子とキキョウとの遭遇は、神堂と無関係ではなかった。
あれは数日ぶりに部長の石本におつかいを言い渡された日のことだった。大きなプロジェクトが佳境を迎えていたため、さすがの石本も絵里子に構う余裕のない日々がしばらく続き、ほんの少し心の安定を取り戻しかけていた頃だった。
だが、そんな安定など所詮は欺瞞に過ぎない。なまじ高く積み上がった分、崩れ落ちたときのダメージも大きい。
いつも以上に恥辱を味わわされ、半ば呆然とした腑抜けのような状態で会社のビルまで戻っては来たものの、とても仕事に集中できそうになかった。
神堂が大学の研究の関係で出張に出て不在にしている期間でもあった。たとえすぐそばにいたとしても合わせる顔がない。そう思いつつも、彼のぬくもりが恋しかった。
神堂と深い仲になった当初は、彼に抱かれることで石本に穢 された身体が浄化されるような錯覚に陥っていたが、いつしかそれは神堂を穢している行為にほかならないと思い始めた。
『わたしみたいな女、彼に優しくしてもらう資格なんかない』
そんな思いはいつしか、自分などそもそも生きている価値など無いという自己否定に深化しつつあった。
神堂が働く会社のオフィスは同じビルの地下にある。
情報管理が厳格だからオフィスには入れないし、地下に来ては駄目だと彼から釘を刺されていたが、そんなものを刺されるまでもなく行くつもりなどなかった。恋人の働く姿を見たいなんて思うほど幼くもない。
「窓の無い空間に長くいるのは精神衛生上良くないっていう研究結果があるらしいよ」
いつか、地下のオフィスについて神堂が冗談めかして言っていたのを思い出す。
「僕は非常勤だから毎日地下に籠 ってるわけじゃないけど、ずっとあそこにいる人はちょっとおかしくなっている人もいるかもしれない。だから、近づいたら危険かもよ」
「酷い。そんなこと言っちゃ真面目に働いている人が可哀想でしょ」
「冗談だよ。研究一筋で恋愛に免疫のなさそうな男の人が多いから、絵里子に会わせるのが心配なの。みんな絵里子に惚れちゃいそうで」
「馬鹿」
彼の腕枕の中でのそんな会話を思い出しながら乗り込んだエレベータは絵里子一人だった。
職場は十三階だ。13のボタンに手を伸ばしながら、ふとB3のボタンに目がいった。神堂とつき合い始めるまで意識したこともなかったけれど、このビルには地下三階までフロアがあり、神堂が働く会社もその地下三階にあった。
何を思っていたのか自分でもよく分からない。気がつくと、B3のボタンを押していた。
静かに扉が閉まる。下への加速を感じたのは一瞬だけだ。現在位置を示す精細な液晶表示がB1、B2を経てあっという間にB3に変わったかと思うと、小さな電子音を合図に扉が滑らかに左右に割れた。
真正面の壁に会社名を記した銀色のプレートがあった。
"AYaKaWa Solutions,inc"
アヤカワソリューションズ株式会社。その一社だけの表示だった。
左右に廊下が伸びていたが、何故か照明がついておらず暗い。その暗さにエレベータから降りるのを躊躇 い、開くボタンを押したまま顔だけを出して様子を窺った。
『ど平日なのに休業日なんだろうか?』
左手を見ると突き当りの少し手前に非常口を示す緑色の電光表示があって、その明かりが周辺の様子をぼんやりと浮かび上がらせていた。給湯室とトイレの表示も見えたが、特に変わったものは無さそうだ。
右側にも同じように廊下が続いており、途中、数メートル先がオフィスの出入り口のようだった。その前だけ小さな照明が生きていて、オフィス側の壁にインタフォンやドアの取っ手らしき突起物が照らし出されていた。
『節電のために廊下の照明を落としているんだろうか。それとも本当に休業なのかな……いや。もしかしたら人が歩けば明るくなるセンサー式だったりして』
そう思い至って、思い切ってエレベータを降りてみた。でも照明は点かないまま、エレベータが閉まった分だけ余計に暗くなってしまった。試しに少し歩いてみたけれど、変わりはない。
『さて、どうしたものか』
静かだった。人の気配は全くない。電気系統か何かだろう、どこかで通奏低音のような機械音がずっと単調に響いているだけだった。
来るなとはっきり言われている。今日は神堂がいないことも知っていた。行く理由は何もない。でも、自分の職場には戻りたくない。暗くて誰もいそうにないこの廊下はちょっと怖いけど、好奇心は擽 られる。
『向こうに見えるオフィスの入り口らしきところまで行って戻って来よう。そのあとはすぐに職場に戻ろう』
そう決めて、恐る恐る歩き始めた。
オフィス側の壁にも窓はなく、左右ともに無機質な白い壁が続いている。
『ホラー映画なら確実に死ぬパターンだな。ちょうどいい具合の雑魚キャラ以下だし』
廊下は奥に向かってグレーから漆黒へと加速度的に暗く黒くなっていて、先がどうなっているのか見通せない。目的地点と定めたオフィスの出入口の前に着いても、その状況に変わりはなかった。
扉は金属製の頑丈そうなもので、窓もなく、中の様子を窺い知ることはできなかった。隙間から明かりが漏れ出ているようなこともない。
横にはインタフォンと並んで入室管理のセキュリティらしき装置があった。絵里子が働く職場では首からぶら下げているIDカードで入退室を管理しているけれど、それとは違う見慣れない装置だった。
『生体認証かもしれない』
どう見ても本日休業の雰囲気だった。あるいは「当社は破産申立をいたしました」などという債権者向けのお詫びの貼り紙があっても違和感がない。
インタフォンを押してみたいという欲求が少しだけ頭をもたげたものの、実行するだけの勇気は伴わなかった。万が一にも誰かが応答した場合に何と言い訳すればいいのか思いつかない。
『道に迷いましたなんてあり得ないし、どちら様ですかなんて言ったらコントだし、ピンポンダッシュもできるはずがない』
馬鹿なことを一瞬だけ考えて、戻ろうと決めた。
決めた瞬間、何かが聞こえた。
あれは数日ぶりに部長の石本におつかいを言い渡された日のことだった。大きなプロジェクトが佳境を迎えていたため、さすがの石本も絵里子に構う余裕のない日々がしばらく続き、ほんの少し心の安定を取り戻しかけていた頃だった。
だが、そんな安定など所詮は欺瞞に過ぎない。なまじ高く積み上がった分、崩れ落ちたときのダメージも大きい。
いつも以上に恥辱を味わわされ、半ば呆然とした腑抜けのような状態で会社のビルまで戻っては来たものの、とても仕事に集中できそうになかった。
神堂が大学の研究の関係で出張に出て不在にしている期間でもあった。たとえすぐそばにいたとしても合わせる顔がない。そう思いつつも、彼のぬくもりが恋しかった。
神堂と深い仲になった当初は、彼に抱かれることで石本に
『わたしみたいな女、彼に優しくしてもらう資格なんかない』
そんな思いはいつしか、自分などそもそも生きている価値など無いという自己否定に深化しつつあった。
神堂が働く会社のオフィスは同じビルの地下にある。
情報管理が厳格だからオフィスには入れないし、地下に来ては駄目だと彼から釘を刺されていたが、そんなものを刺されるまでもなく行くつもりなどなかった。恋人の働く姿を見たいなんて思うほど幼くもない。
「窓の無い空間に長くいるのは精神衛生上良くないっていう研究結果があるらしいよ」
いつか、地下のオフィスについて神堂が冗談めかして言っていたのを思い出す。
「僕は非常勤だから毎日地下に
「酷い。そんなこと言っちゃ真面目に働いている人が可哀想でしょ」
「冗談だよ。研究一筋で恋愛に免疫のなさそうな男の人が多いから、絵里子に会わせるのが心配なの。みんな絵里子に惚れちゃいそうで」
「馬鹿」
彼の腕枕の中でのそんな会話を思い出しながら乗り込んだエレベータは絵里子一人だった。
職場は十三階だ。13のボタンに手を伸ばしながら、ふとB3のボタンに目がいった。神堂とつき合い始めるまで意識したこともなかったけれど、このビルには地下三階までフロアがあり、神堂が働く会社もその地下三階にあった。
何を思っていたのか自分でもよく分からない。気がつくと、B3のボタンを押していた。
静かに扉が閉まる。下への加速を感じたのは一瞬だけだ。現在位置を示す精細な液晶表示がB1、B2を経てあっという間にB3に変わったかと思うと、小さな電子音を合図に扉が滑らかに左右に割れた。
真正面の壁に会社名を記した銀色のプレートがあった。
"AYaKaWa Solutions,inc"
アヤカワソリューションズ株式会社。その一社だけの表示だった。
左右に廊下が伸びていたが、何故か照明がついておらず暗い。その暗さにエレベータから降りるのを
『ど平日なのに休業日なんだろうか?』
左手を見ると突き当りの少し手前に非常口を示す緑色の電光表示があって、その明かりが周辺の様子をぼんやりと浮かび上がらせていた。給湯室とトイレの表示も見えたが、特に変わったものは無さそうだ。
右側にも同じように廊下が続いており、途中、数メートル先がオフィスの出入り口のようだった。その前だけ小さな照明が生きていて、オフィス側の壁にインタフォンやドアの取っ手らしき突起物が照らし出されていた。
『節電のために廊下の照明を落としているんだろうか。それとも本当に休業なのかな……いや。もしかしたら人が歩けば明るくなるセンサー式だったりして』
そう思い至って、思い切ってエレベータを降りてみた。でも照明は点かないまま、エレベータが閉まった分だけ余計に暗くなってしまった。試しに少し歩いてみたけれど、変わりはない。
『さて、どうしたものか』
静かだった。人の気配は全くない。電気系統か何かだろう、どこかで通奏低音のような機械音がずっと単調に響いているだけだった。
来るなとはっきり言われている。今日は神堂がいないことも知っていた。行く理由は何もない。でも、自分の職場には戻りたくない。暗くて誰もいそうにないこの廊下はちょっと怖いけど、好奇心は
『向こうに見えるオフィスの入り口らしきところまで行って戻って来よう。そのあとはすぐに職場に戻ろう』
そう決めて、恐る恐る歩き始めた。
オフィス側の壁にも窓はなく、左右ともに無機質な白い壁が続いている。
『ホラー映画なら確実に死ぬパターンだな。ちょうどいい具合の雑魚キャラ以下だし』
廊下は奥に向かってグレーから漆黒へと加速度的に暗く黒くなっていて、先がどうなっているのか見通せない。目的地点と定めたオフィスの出入口の前に着いても、その状況に変わりはなかった。
扉は金属製の頑丈そうなもので、窓もなく、中の様子を窺い知ることはできなかった。隙間から明かりが漏れ出ているようなこともない。
横にはインタフォンと並んで入室管理のセキュリティらしき装置があった。絵里子が働く職場では首からぶら下げているIDカードで入退室を管理しているけれど、それとは違う見慣れない装置だった。
『生体認証かもしれない』
どう見ても本日休業の雰囲気だった。あるいは「当社は破産申立をいたしました」などという債権者向けのお詫びの貼り紙があっても違和感がない。
インタフォンを押してみたいという欲求が少しだけ頭をもたげたものの、実行するだけの勇気は伴わなかった。万が一にも誰かが応答した場合に何と言い訳すればいいのか思いつかない。
『道に迷いましたなんてあり得ないし、どちら様ですかなんて言ったらコントだし、ピンポンダッシュもできるはずがない』
馬鹿なことを一瞬だけ考えて、戻ろうと決めた。
決めた瞬間、何かが聞こえた。