(22) ばいばい
文字数 1,973文字
樋山と美波、二人の鼻先が今にも触れようとしたときだった。
「ぐげっ」
突然、美波が唸り声をあげたかと思うとうしろにのけ反った。
そのまま背中から床に倒れ込み、後頭部を掻き毟るようにしながら悶え苦しみ始めた。
「ぐぁがぁーっ!」
人の声ではない異様な呻きをあげ、美しい二本の脚をばたつかせて床をのた打ち回る。
その姿を見つめながら、何が起こっているのか理解できずに呆然としている樋山に駆け寄って来たのは里美だった。
「逃げて、早く」
里美が樋山の肘のあたりを引いて立たせようとするが、樋山は足腰に力が入らない。
「みーちゃん、、、」
あられもない姿でのた打ち回る愛しい人。
「なんで? なんでだよっ?」
ふいに立ち上がった樋山が里美に詰め寄った。
「おまえがやったのか? 何をしたんだっ?」
意表を突かれて少しだけ怯んだ里美だったが、すぐに体勢を立て直して樋山に向き直る。
「キキョウだ。霧田部長はキキョウに取り込まれたんだ。だから、」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ。冷静になって。あなたの知っている霧田さんがさっきみたいなことをすると思うの?」
床に倒れている美波は、徐々に動きが弱くなっていく。
「彼女はキキョウに取り込まれた。わたしを排除するために、あなたを利用しようとしたのよ。彼女に対するあなたの気持ちを利用してあなたのことも取り込もうとした。危ないところだった。そこに中和泉咲桜が加わって三対一になっちゃったら、わたしにだって勝てるかどうか分からない」
美波の身体はもはや動きらしい動きは見せなくなり、時折小さな痙攣のような微かな反応を見せるだけになっていた。
それにつれて樋山も徐々にではあるが、冷静さを取り戻しつつあった。
言われなくても分かり切っていることだった。彼女があんなことをするはずがないのは。
「なあ、制服を着せてあげてあげてくれよ」
樋山が美波から目を背けながら言った。
「わたし一人じゃ無理。あなたも手伝って」
樋山はなるべく美波を見ないようにしながらもその上体を起こし、里美が制服を着せるのを手伝った。
元通り制服に身を包んだ美波を床にそっと寝かせると、樋山もようやく美波を直視できるようになった。
その顔はまるで何事もなかったかのように眠っているようだ。
「さっきは悪かったよ。助けてくれたのに」
「いいよ。気にしないで。普通の状況じゃないんだから」
「ちゃんと元通りになるんだろ?」
美波の顔を見つめながら発した樋山の問い。当然大丈夫という答えが返ってくると思って発したその問に答えはなかった。
答えがない意味に気づいた樋山は慌てて里美を見て、同じ問いを繰り返した。
「なあ、ちゃんと元に戻るんだろう?」
里美は樋山から視線を逸らした。
「分からない」
「な、なんで? 俺のことは助けてくれたじゃないか」
「あれは——、こないだの樋山はまだキキョウに完全に取り込まれる前だったし、あのとき霧田部長に浸入 ったキキョウはほんのわずかだった。だから、二人とも無事だったけど、でも」
今回の美波は事情が違った。すでにキキョウが脳を支配している状態だった。その状態の人間に里美があとからキキョウを送り込んで、完全に元に戻るかどうかはやってみなければ分からない。
「駄目だと決まったわけじゃない。無事に元に戻るかもしれない。でも、戻らないかもしれない」
「戻らない場合はどうなるんだよ?」
「……このまま意識が戻らない可能性もある」
「そ、そんな……」
俯いた樋山の中に怒りが沸き起こるのが、里美には分かった。それは悲しみを伴った怒りだ。そして、矛先が自分に向けられるであろうことも、里美には分かっていた。
樋山が里美に向かって何か言おうとしたとき、里美はその言葉を待たず指先を樋山に向けてキキョウを放った。そのキキョウは樋山の眉間に当たり、すぐに消えた。
「な、何を——、」
言葉の途中で意識を失って崩れ落ちる樋山を里美が受け止め、美波の隣に横たえた。
その顔を見ながら里美は声に出して謝った。
「ごめんね。今、あなたが言おうとした通り——全部わたしのせいだ。わたしがここに来ちゃったから、あなたたちを巻き込んでしまった」
里美は意を決した。
「やっぱりわたしは姿を消すよ。でも、重ね重ね悪いけど、あとのことは樋山くんにお願いするしかないからさ、——任せるよ。もしまたこの学校で何かあったときは、あなたと霧田部長で守って。……本当にごめんね」
里美は樋山に顔を近づけ、数秒間唇を重ね、十分な量のキキョウを樋山の体内に送り込んだ。
続けて美波に向き直る。
「霧田部長もごめんなさい。これ以上部長を巻き込むのは心苦しいけど、今のわたしには他にどうしようもないから……許してください」
今度は美波と唇を重ねる。
そして顔を離してから、もう一度意識のない樋山を見た。
「……ばいばい」
「ぐげっ」
突然、美波が唸り声をあげたかと思うとうしろにのけ反った。
そのまま背中から床に倒れ込み、後頭部を掻き毟るようにしながら悶え苦しみ始めた。
「ぐぁがぁーっ!」
人の声ではない異様な呻きをあげ、美しい二本の脚をばたつかせて床をのた打ち回る。
その姿を見つめながら、何が起こっているのか理解できずに呆然としている樋山に駆け寄って来たのは里美だった。
「逃げて、早く」
里美が樋山の肘のあたりを引いて立たせようとするが、樋山は足腰に力が入らない。
「みーちゃん、、、」
あられもない姿でのた打ち回る愛しい人。
「なんで? なんでだよっ?」
ふいに立ち上がった樋山が里美に詰め寄った。
「おまえがやったのか? 何をしたんだっ?」
意表を突かれて少しだけ怯んだ里美だったが、すぐに体勢を立て直して樋山に向き直る。
「キキョウだ。霧田部長はキキョウに取り込まれたんだ。だから、」
「嘘だ」
「嘘じゃないよ。冷静になって。あなたの知っている霧田さんがさっきみたいなことをすると思うの?」
床に倒れている美波は、徐々に動きが弱くなっていく。
「彼女はキキョウに取り込まれた。わたしを排除するために、あなたを利用しようとしたのよ。彼女に対するあなたの気持ちを利用してあなたのことも取り込もうとした。危ないところだった。そこに中和泉咲桜が加わって三対一になっちゃったら、わたしにだって勝てるかどうか分からない」
美波の身体はもはや動きらしい動きは見せなくなり、時折小さな痙攣のような微かな反応を見せるだけになっていた。
それにつれて樋山も徐々にではあるが、冷静さを取り戻しつつあった。
言われなくても分かり切っていることだった。彼女があんなことをするはずがないのは。
「なあ、制服を着せてあげてあげてくれよ」
樋山が美波から目を背けながら言った。
「わたし一人じゃ無理。あなたも手伝って」
樋山はなるべく美波を見ないようにしながらもその上体を起こし、里美が制服を着せるのを手伝った。
元通り制服に身を包んだ美波を床にそっと寝かせると、樋山もようやく美波を直視できるようになった。
その顔はまるで何事もなかったかのように眠っているようだ。
「さっきは悪かったよ。助けてくれたのに」
「いいよ。気にしないで。普通の状況じゃないんだから」
「ちゃんと元通りになるんだろ?」
美波の顔を見つめながら発した樋山の問い。当然大丈夫という答えが返ってくると思って発したその問に答えはなかった。
答えがない意味に気づいた樋山は慌てて里美を見て、同じ問いを繰り返した。
「なあ、ちゃんと元に戻るんだろう?」
里美は樋山から視線を逸らした。
「分からない」
「な、なんで? 俺のことは助けてくれたじゃないか」
「あれは——、こないだの樋山はまだキキョウに完全に取り込まれる前だったし、あのとき霧田部長に
今回の美波は事情が違った。すでにキキョウが脳を支配している状態だった。その状態の人間に里美があとからキキョウを送り込んで、完全に元に戻るかどうかはやってみなければ分からない。
「駄目だと決まったわけじゃない。無事に元に戻るかもしれない。でも、戻らないかもしれない」
「戻らない場合はどうなるんだよ?」
「……このまま意識が戻らない可能性もある」
「そ、そんな……」
俯いた樋山の中に怒りが沸き起こるのが、里美には分かった。それは悲しみを伴った怒りだ。そして、矛先が自分に向けられるであろうことも、里美には分かっていた。
樋山が里美に向かって何か言おうとしたとき、里美はその言葉を待たず指先を樋山に向けてキキョウを放った。そのキキョウは樋山の眉間に当たり、すぐに消えた。
「な、何を——、」
言葉の途中で意識を失って崩れ落ちる樋山を里美が受け止め、美波の隣に横たえた。
その顔を見ながら里美は声に出して謝った。
「ごめんね。今、あなたが言おうとした通り——全部わたしのせいだ。わたしがここに来ちゃったから、あなたたちを巻き込んでしまった」
里美は意を決した。
「やっぱりわたしは姿を消すよ。でも、重ね重ね悪いけど、あとのことは樋山くんにお願いするしかないからさ、——任せるよ。もしまたこの学校で何かあったときは、あなたと霧田部長で守って。……本当にごめんね」
里美は樋山に顔を近づけ、数秒間唇を重ね、十分な量のキキョウを樋山の体内に送り込んだ。
続けて美波に向き直る。
「霧田部長もごめんなさい。これ以上部長を巻き込むのは心苦しいけど、今のわたしには他にどうしようもないから……許してください」
今度は美波と唇を重ねる。
そして顔を離してから、もう一度意識のない樋山を見た。
「……ばいばい」