(10) 傘半分
文字数 1,752文字
神堂との出会いは雨宿りだった。
絵里子はあの日も石本部長に呼び出されて弄ばれて、陰鬱な気持ちのまま会社に戻る途中だった。
出かける前から空模様が怪しかったのは分かっていた。それでも傘を持たずに出たのは、どこか投げやりになっていたせいかもしれない。
会社まであと五分ほどというところで本格的に降り始めた雨。
コンビニエンスストアの軒先を借りて雨宿りしながら、雨粒がアスファルトを黒く染めていく光景を汚れていく自分の姿に重ね合わせていた。
やがて辺りがすっかり黒く染まり上がり、そこここに水溜りができ始めた頃、学生風の男が一人コンビニに駆け込むのが見えた。傘を差していないから、傘を買いに入ったのかもしれない。
しばらくして、軒下沿いに近づいて来る人の気配を感じて目を向けると、先ほど店内に駆け込んだ男が今買ったばかりらしいビニール製を持って立っていた。
雨は弱まる気配も見せず、空は暗くなる一方に思えた。
自分も諦めて傘を買おうか。
そう思ったとき、その男が声をかけてきた。
「あの」
話しかけられるとは思っていなかったので、自分に向けた言葉かどうか一瞬だけ迷ったものの他に対象者は見当たらない。
訝 しく思いながら男の顔を見た。背が高いので見上げる形になった。ラフな格好だったのでさっきは学生かと思ったが、近くで見ると年齢はもっと上のようだ。短髪で日に焼けた顔がチャラそうだと思った。
「あの」
今度は男がはっきりと自分に向かって言っているのを目視で確認した。
「はい、何ですか?」
道でも尋ねられるのだろうか。その程度の印象だった。
「あの、同じビルの人ですよね」
意外過ぎる言葉に絵里子の理解が追いつかないでいると、男は首からぶら下げていたIDカードを示した。
神堂慧太朗 。漢字だけなら読めなかったかもしれないが、ローマ字表記も併記されていたので正しく読み取ることができた。会社名はよく分からなかった。
「もし、よかったら、その、もし、雨宿りなら、あの」
神堂は急に挙動不審になった。ややどもり気味ですらある。
「あの、一緒に、ビルまでどうですか。傘、半分なら貸します……」
『傘半分?』
そんなことを言う男は嫌いなはずだった。けれど、このときの絵里子はお言葉に甘えることにした。
『チャラそうだけど、悪い人じゃなさそう』
そう思えたからだ。
『男の人と相合傘なんて、いつ以来だろう?』
頭の中で思い浮かべただけの「あいあいがさ」という言葉の響きが妙に恥ずかしいものに感じられて、胸の前で両手をぎゅっと握り締め、俯き加減のまま無言で神堂の隣を歩いていた。
「ビルのエレベータの前とかで、ほら、一階のエントランスとかで、何度か見かけたことがあったんですよ」
「そ、そうですか……」
絵里子の方には見覚えがなかった。多くの企業が入居しているオフィスビルだ。会社の垣根を越えて合コンなどをしている社員もいるようだったが、絵里子は参加したことがない。他の会社の社員との交流は皆無だった。
「で、さっき、雨宿りしているのを見かけて」
「はあ」
「で、チャンスだと思って」
「はい?」
思わず左上を見上げた。傘を持つ太い腕の向こうに横顔があった。日焼けした顔の中でさらに耳を真っ赤にして正面を見据えたまま歩いている。
「ずっと話しかける機会を窺っていたんだけど、なかなかなくて」
『これはもしかして、わたし、今、口説かれているのだろうか』
神堂の傘を握る腕に異様な力が入っているのが分かった。絵里子の肩に触れると慌てて離れる。それでも傘は離れなかった。
恥ずかしさのゲージが急上昇した。
『わたしの耳も真っ赤になってるかも。髪が長くてよかった……』
ビルに着いたとき、びしょ濡れだった神堂の肩を絵里子は今でもよく憶えている。
ハンカチを出して、その肩を押さえるようにして拭いてあげたけど、そんなものでは全然足りなかった。その間、神堂の方はとても恐縮した様子だったが、絵里子のほうこそ心底申し訳ない気持ちになっていた。
エレベータを待つ間に食事に誘われて、受けちゃだめだと思いつつも、彼の濡れた肩を思い、また、一度きり食事をするくらいならと、つい承諾してしまった。
以後、絵里子は罪悪感を引き摺りながら、ずるずるとつき合いを続けることになってしまう。
絵里子はあの日も石本部長に呼び出されて弄ばれて、陰鬱な気持ちのまま会社に戻る途中だった。
出かける前から空模様が怪しかったのは分かっていた。それでも傘を持たずに出たのは、どこか投げやりになっていたせいかもしれない。
会社まであと五分ほどというところで本格的に降り始めた雨。
コンビニエンスストアの軒先を借りて雨宿りしながら、雨粒がアスファルトを黒く染めていく光景を汚れていく自分の姿に重ね合わせていた。
やがて辺りがすっかり黒く染まり上がり、そこここに水溜りができ始めた頃、学生風の男が一人コンビニに駆け込むのが見えた。傘を差していないから、傘を買いに入ったのかもしれない。
しばらくして、軒下沿いに近づいて来る人の気配を感じて目を向けると、先ほど店内に駆け込んだ男が今買ったばかりらしいビニール製を持って立っていた。
雨は弱まる気配も見せず、空は暗くなる一方に思えた。
自分も諦めて傘を買おうか。
そう思ったとき、その男が声をかけてきた。
「あの」
話しかけられるとは思っていなかったので、自分に向けた言葉かどうか一瞬だけ迷ったものの他に対象者は見当たらない。
「あの」
今度は男がはっきりと自分に向かって言っているのを目視で確認した。
「はい、何ですか?」
道でも尋ねられるのだろうか。その程度の印象だった。
「あの、同じビルの人ですよね」
意外過ぎる言葉に絵里子の理解が追いつかないでいると、男は首からぶら下げていたIDカードを示した。
「もし、よかったら、その、もし、雨宿りなら、あの」
神堂は急に挙動不審になった。ややどもり気味ですらある。
「あの、一緒に、ビルまでどうですか。傘、半分なら貸します……」
『傘半分?』
そんなことを言う男は嫌いなはずだった。けれど、このときの絵里子はお言葉に甘えることにした。
『チャラそうだけど、悪い人じゃなさそう』
そう思えたからだ。
『男の人と相合傘なんて、いつ以来だろう?』
頭の中で思い浮かべただけの「あいあいがさ」という言葉の響きが妙に恥ずかしいものに感じられて、胸の前で両手をぎゅっと握り締め、俯き加減のまま無言で神堂の隣を歩いていた。
「ビルのエレベータの前とかで、ほら、一階のエントランスとかで、何度か見かけたことがあったんですよ」
「そ、そうですか……」
絵里子の方には見覚えがなかった。多くの企業が入居しているオフィスビルだ。会社の垣根を越えて合コンなどをしている社員もいるようだったが、絵里子は参加したことがない。他の会社の社員との交流は皆無だった。
「で、さっき、雨宿りしているのを見かけて」
「はあ」
「で、チャンスだと思って」
「はい?」
思わず左上を見上げた。傘を持つ太い腕の向こうに横顔があった。日焼けした顔の中でさらに耳を真っ赤にして正面を見据えたまま歩いている。
「ずっと話しかける機会を窺っていたんだけど、なかなかなくて」
『これはもしかして、わたし、今、口説かれているのだろうか』
神堂の傘を握る腕に異様な力が入っているのが分かった。絵里子の肩に触れると慌てて離れる。それでも傘は離れなかった。
恥ずかしさのゲージが急上昇した。
『わたしの耳も真っ赤になってるかも。髪が長くてよかった……』
ビルに着いたとき、びしょ濡れだった神堂の肩を絵里子は今でもよく憶えている。
ハンカチを出して、その肩を押さえるようにして拭いてあげたけど、そんなものでは全然足りなかった。その間、神堂の方はとても恐縮した様子だったが、絵里子のほうこそ心底申し訳ない気持ちになっていた。
エレベータを待つ間に食事に誘われて、受けちゃだめだと思いつつも、彼の濡れた肩を思い、また、一度きり食事をするくらいならと、つい承諾してしまった。
以後、絵里子は罪悪感を引き摺りながら、ずるずるとつき合いを続けることになってしまう。