(4) キキョウ
文字数 2,355文字
本格化する冬の冷たい風が、校舎の屋上の更に上の階段室の上に立つ小田島里美の胸のスカーフやスカートの裾をなびかせる。スカートが今にも捲り上がりそうなのに彼女が一向に気にする様子がないので、樋山真武の方が目のやり場に困って空を見上げた。
弱々しい青さしか持たない空が、まとまりの無さそうな白い雲と溶け合うようだ。
ひと際強い風が通り過ぎ、さすがに里美もさりげなくスカートの裾を押さえ、顔を背けるようにしてやり過ごした。
「今朝、霧田部長と話をしたけれど、大丈夫。彼女は何も覚えてはいない。あと先に逃げ出してた二人の先輩の方が気がかりだけど、とりあえずは見間違いだということで誤魔化そうと思ってる」
昨日、天文部で小田島里美と中和泉咲桜の攻防があった際、事前に部室を逃げ出した男子部員が二人いたのだ。
「部室に流れ込んできた液体が人間になった、その液体が姿を変えたのが中和泉咲桜だった、怖くなって部長一人を放って逃げ出した。そんなこと言ったところで誰も信じちゃくれないわ」
「みぃ、いや、霧田さんの記憶は小田島が消したってことなのか?」
樋山真武と霧田美波は、学校では美波の方が一つ先輩ではあるけれど、実は幼馴染みだ。2人の間ではみーちゃんまーくんと呼び合う仲だった。
「そうだけど?」
「じゃあ、あと二人の先輩の記憶も消しちゃえばいいんじゃないの?」
「そりゃやろうと思えばできるわよ。でも、あなた、怖いこと言ってるって自覚ある? それに自分の身に置き換えて考えてみて。そんなことされたい?」
「い、いや、俺は……。だって俺は昨日、それでなくても頭の中をぐちゃぐちゃにされちゃったじゃないか。どうせなら、あの時ついでに俺の記憶も消してくれればよかったのに」
「やられる側がされたくないことは、やる側だってやりたくないものなのよ。あなたの場合は危うくキキョウに頭を乗っ取られる寸前だったから、思うように処置する余裕なんてなかったの」
里美は不機嫌そうに釈明したが、それは嘘だった。美波の方はこれ以上の危険に晒さないためにも記憶を消すことがベターだと思われた。だが、キキョウにこの場所——学校を知られた以上、奴らはまたやって来る可能性が高い。そのときに自分一人では心もとない。誰か事情を知っている仲間が欲しかった。そのために樋山の記憶はわざと消さずにおいたのだ。
「なに? 消して欲しいってこと? そうしたらまたわたしとキスできるとか思ってるんじゃないでしょうね?」
里美が意地の悪い視線と共に投げた言葉で、樋山は顔が真っ赤になった。
「キ、な、な、何言ってるんだよっ、そんなわけないだろ!」
昨日、咲桜が放った液体を里美はキキョウと呼んだ。そのキキョウに頭の中に浸入された樋山を救ったのは、里美がマウスツーマウスで経口投与した別のキキョウだ。樋山はそのことを明確に憶えているわけではなかったものの、ぼんやりと霞がかかったような記憶としては残っていた。残念ながら里美の唇の感触などの細かな記憶は一切思い出せなかったけれど、覚えていたところでそんなことは絶対に口に出せない。
キキョウについては里美から簡単なレクチャーを受けた。それはかつて宇宙から飛来した液状生命体なのだと。キキョウは人間の体内に侵入して脳を乗っ取ることで自在に操ることができる。また、人間の肉体がなくてもキキョウだけで人間の容姿を形成し、あたかも人間のように振る舞うこともできる。里美によれば、昨日の咲桜がまさに後者のそれだったのだという。中和泉咲桜の姿形をしていたキキョウは、里美の攻撃を受けて活動を停止し、あのあとすぐに形状崩壊して消えている。
にわかに信じられる話ではなかったが、ほかに自分が見たものを説明できる理屈は見つかりそうもない。
「どうしてあいつは小田島とまったく同じ外見だったんだよ?」
「そりゃあまぁ、わたしが可愛いから、わたしの真似がしたかったんじゃないの?」
それが真実とは思えないが、樋山には反論する材料が何もない。
「じゃあ、小田島は、その、なんていうか」
どうして里美が中和泉咲桜と同じように液体、つまりキキョウを指先から放つことができるのか。それはつまり里美自身も咲桜と同じくキキョウだということではないのか——。それは当然の疑問ではあったが、口にするのは憚 られた。
里美のことだから「そうよ、わたしは人間じゃないの」などと軽く返してこないとも限らない。もしそうだとして、どう反応すればいいのかも分からない。
そんな樋山の思考を読んだのか、里美は自ら口を開いた。
「わたしは人間だよ。キキョウじゃない。それだけは言っておく」
今はその言葉を受け入れるしかない。
一滴分だけのキキョウが腿から浸入した霧田美波は、里美が彼女の首もとに手を当てて治療を施していた。その手のひらから美波の体内にキキョウを浸入させて、相手のキキョウを退治したらしい。その過程で昨日の部室での出来事を美波の記憶から消去したようだ。
「向こうの狙いがわたしだったことは間違いない。わたしがこの学校の天文部にいることを知って、霧田さんに成りすまして待ち伏せするつもりだったんだと思う。あなたが中和泉咲桜を目撃してわたしに教えてくれたものだから計画が狂った。今後、また何かが起こるかもしれない。起こらないかもしれない。もしこのまま何も起こらなければ、あなたも霧田さんと同じように何も覚えていないふりをしていなさい。それが身のため。でも、もし何か事が起これば……」
また少し強い風が吹いたので、里美はスカートの裾を押さえながら顔を背けるようにして口をつぐんだ。
「事が起これば、なんだよ?」
ちょうどそこでチャイムが鳴った。
「残念。時間切れ」
里美はそれ以上何も語ろうとしなかった。
弱々しい青さしか持たない空が、まとまりの無さそうな白い雲と溶け合うようだ。
ひと際強い風が通り過ぎ、さすがに里美もさりげなくスカートの裾を押さえ、顔を背けるようにしてやり過ごした。
「今朝、霧田部長と話をしたけれど、大丈夫。彼女は何も覚えてはいない。あと先に逃げ出してた二人の先輩の方が気がかりだけど、とりあえずは見間違いだということで誤魔化そうと思ってる」
昨日、天文部で小田島里美と中和泉咲桜の攻防があった際、事前に部室を逃げ出した男子部員が二人いたのだ。
「部室に流れ込んできた液体が人間になった、その液体が姿を変えたのが中和泉咲桜だった、怖くなって部長一人を放って逃げ出した。そんなこと言ったところで誰も信じちゃくれないわ」
「みぃ、いや、霧田さんの記憶は小田島が消したってことなのか?」
樋山真武と霧田美波は、学校では美波の方が一つ先輩ではあるけれど、実は幼馴染みだ。2人の間ではみーちゃんまーくんと呼び合う仲だった。
「そうだけど?」
「じゃあ、あと二人の先輩の記憶も消しちゃえばいいんじゃないの?」
「そりゃやろうと思えばできるわよ。でも、あなた、怖いこと言ってるって自覚ある? それに自分の身に置き換えて考えてみて。そんなことされたい?」
「い、いや、俺は……。だって俺は昨日、それでなくても頭の中をぐちゃぐちゃにされちゃったじゃないか。どうせなら、あの時ついでに俺の記憶も消してくれればよかったのに」
「やられる側がされたくないことは、やる側だってやりたくないものなのよ。あなたの場合は危うくキキョウに頭を乗っ取られる寸前だったから、思うように処置する余裕なんてなかったの」
里美は不機嫌そうに釈明したが、それは嘘だった。美波の方はこれ以上の危険に晒さないためにも記憶を消すことがベターだと思われた。だが、キキョウにこの場所——学校を知られた以上、奴らはまたやって来る可能性が高い。そのときに自分一人では心もとない。誰か事情を知っている仲間が欲しかった。そのために樋山の記憶はわざと消さずにおいたのだ。
「なに? 消して欲しいってこと? そうしたらまたわたしとキスできるとか思ってるんじゃないでしょうね?」
里美が意地の悪い視線と共に投げた言葉で、樋山は顔が真っ赤になった。
「キ、な、な、何言ってるんだよっ、そんなわけないだろ!」
昨日、咲桜が放った液体を里美はキキョウと呼んだ。そのキキョウに頭の中に浸入された樋山を救ったのは、里美がマウスツーマウスで経口投与した別のキキョウだ。樋山はそのことを明確に憶えているわけではなかったものの、ぼんやりと霞がかかったような記憶としては残っていた。残念ながら里美の唇の感触などの細かな記憶は一切思い出せなかったけれど、覚えていたところでそんなことは絶対に口に出せない。
キキョウについては里美から簡単なレクチャーを受けた。それはかつて宇宙から飛来した液状生命体なのだと。キキョウは人間の体内に侵入して脳を乗っ取ることで自在に操ることができる。また、人間の肉体がなくてもキキョウだけで人間の容姿を形成し、あたかも人間のように振る舞うこともできる。里美によれば、昨日の咲桜がまさに後者のそれだったのだという。中和泉咲桜の姿形をしていたキキョウは、里美の攻撃を受けて活動を停止し、あのあとすぐに形状崩壊して消えている。
にわかに信じられる話ではなかったが、ほかに自分が見たものを説明できる理屈は見つかりそうもない。
「どうしてあいつは小田島とまったく同じ外見だったんだよ?」
「そりゃあまぁ、わたしが可愛いから、わたしの真似がしたかったんじゃないの?」
それが真実とは思えないが、樋山には反論する材料が何もない。
「じゃあ、小田島は、その、なんていうか」
どうして里美が中和泉咲桜と同じように液体、つまりキキョウを指先から放つことができるのか。それはつまり里美自身も咲桜と同じくキキョウだということではないのか——。それは当然の疑問ではあったが、口にするのは
里美のことだから「そうよ、わたしは人間じゃないの」などと軽く返してこないとも限らない。もしそうだとして、どう反応すればいいのかも分からない。
そんな樋山の思考を読んだのか、里美は自ら口を開いた。
「わたしは人間だよ。キキョウじゃない。それだけは言っておく」
今はその言葉を受け入れるしかない。
一滴分だけのキキョウが腿から浸入した霧田美波は、里美が彼女の首もとに手を当てて治療を施していた。その手のひらから美波の体内にキキョウを浸入させて、相手のキキョウを退治したらしい。その過程で昨日の部室での出来事を美波の記憶から消去したようだ。
「向こうの狙いがわたしだったことは間違いない。わたしがこの学校の天文部にいることを知って、霧田さんに成りすまして待ち伏せするつもりだったんだと思う。あなたが中和泉咲桜を目撃してわたしに教えてくれたものだから計画が狂った。今後、また何かが起こるかもしれない。起こらないかもしれない。もしこのまま何も起こらなければ、あなたも霧田さんと同じように何も覚えていないふりをしていなさい。それが身のため。でも、もし何か事が起これば……」
また少し強い風が吹いたので、里美はスカートの裾を押さえながら顔を背けるようにして口をつぐんだ。
「事が起これば、なんだよ?」
ちょうどそこでチャイムが鳴った。
「残念。時間切れ」
里美はそれ以上何も語ろうとしなかった。