(13) 長過ぎる廊下
文字数 2,412文字
絵里子はエレベータとは反対側の、暗い廊下の先に目を向けた。
何も見えない。
左右の壁と床と天井。その四面に囲まれた細長い空間が闇に溶けている。
『何の音だろう?』
機械的なものではなかった。水滴が一粒だけ落ちたような、あるいは裸足で、それも濡れた足で一歩だけ踏み出したような、そんな音。
小学生の頃、誰もいない放課後の校舎に忘れ物を取りに戻った時のことを思い出した。陽は傾き始めてはいたもののまだ明るい時間だったし、何より毎日通い慣れた学校だ。それなのに、ただ誰もいないというだけで途轍もなく怖かった。
あの怖さはどこから来るものなんだろう。
誰もいない音楽室でピアノが鳴るわけでもない。無人のトイレから話し声がするわけでもない。行きと帰りで階段の段数が変わったり、三階建ての校舎に四階に続く階段が現れたりするわけでもない。ただ誰もいないというだけの恐怖。
御多分に漏れず、絵里子の母校にも学校の怪談と呼ばれるような伝統的な噂話はいくつもあった。学校が出来る前そこは墓地だったとか、廊下を走っていると床から生えてきた腕に足を掴まれて倒れてしまうとか。
絵里子はどちらかといえばドライな子どもだったから、そんなものは信じていなかったし怖いとも思わなかったのだけれど。
それでも、誰もいない校舎は怖かった。
怖くて怖くて、廊下を出来る限りの早歩きで突き進んだ。信じてなどいなかったくせに、走ってしまって床から生えた手に足を掴まれることを恐れていた。走ってはいない。そう言い訳ができるぎりぎりの速さで教室までを往復した。
そんなことを思い出していると、また先ほどと同じ音が鳴った。ものすごくゆっくりと二歩目を踏み出した。そんなイメージを抱かせる二回目の音。
そのイメージが正しければ、三回目もあるはずだけど……。
あって欲しくない三回目を待つ。この心境は何なのだろう。
『違う』
気づいたのは、これはあの放課後の校舎で感じた恐怖とは本質が違うということだった。誰もいない怖さではない。何かがいるかもしれないという怖さだと。
そして、このタイミングで今更ながらに気づいたことがもう一つあった。
『この廊下、長過ぎやしないだろうか』
絵里子は、勝手知ったる十三階フロアの平面図を思い浮かべてみた。
『エレベータがあって、オフィス、応接室、トイレ、給湯室、非常階段、廊下……』
方向音痴気味なところがあるから頭の中だけでは上手く配列できないものの、細かい部分は問題ではなかった。
『やっぱり、おかしい』
少なくとも、このビルの地上階部分はこんなに広くはないのだ。いくら暗いからといっても先が見えないほど長い廊下があるのはおかしい。
『これこそ、まるで学校の怪談じゃないの』
スマホのライトを点 して照らしてみたけれど、ほんの少しの範囲、視界がちょっと明るくなった程度の効果しかなかった。
そして、三歩目の音がした。
もちろん本当に足音なのかどうかは分からない。さらに近づいて来ているのかどうかも判別は不可能だった。
『足音にしては間隔が開き過ぎている。いやいや。そもそも足音のはずはない』
足音は自分で抱いた仮のイメージに過ぎない。
『じゃあ、足音じゃなきゃ何なのか』
やはり、もう一つ最初に思いついたイメージ。天井から水が滴り落ちる音。そのくらいしか思い浮かばなかった。
そこに四回目の音。
間隔が短くなった気がする。
『確認する必要なんてない。退散だ』
これ以上、ホラー映画ですぐ死ぬ役の行動パターンをなぞる気にはならなかった。
エレベータに戻ろうと一歩踏み出したとき、足が滑ったが何とかこけずに踏ん張った。
スマホのライトを床に向けると、濡れているように見えた。
『水?』
何か分からないまま、ただやばいという感じだけは募った。
無色透明に見えないこともないが、暗くて断定はできない。
よく見ると、暗闇の廊下の先からちょうど足元までが濡れている。
『さっきまでこんなことにはなっていなかったはず。やっぱり水漏れの音だったのかな』
しかし今更それを確かめるほどの度胸はなかった。放課後の校舎を急いだときのように、急ぎ足でエレベータの前まで戻った。
上向き三角のボタンを押しても扉はすぐには開かない。
『早く早くっ』
絵里子自身、自分が何に怯えているのか分からない。
暗がりをスマホで照らしながら、心の中でエレベータを急かす。これで人影でも見えようものなら絶叫してしまうところだったが、幸い今のところ何かが現れる気配はなかった。具体的なものは四回鳴った音と濡れた床。それだけだ。
『音も止んだかな?』
ふと視線を落として息を呑んだ。
さっきまでオフィスのドアの前辺りまでしか濡れていなかったはずなのに、それがエレベータに向かって広がって来ていた。しかも、見ている間にもほんの少しずつではあるが広がり続けている。こうなるとやはりどこかで水が漏れているとしか考えられない。
『でも……』
それにしては動きに違和感があった。
『流れているっている感じじゃない。何だろう、この不自然さは……』
考えて、自分で思いついた表現に鳥肌が立った。
『……這 っている』
この場にいるのが嫌だった。来たことを後悔した。
「早くっ、早くっ」
エレベータの扉の上の階数表示を見ながら、今度は声に出して急かしていた。だが、四基あるエレベータはどれも途中の階に何度も停まりながら少しずつしか降りて来ない。
「まったく、もっと増やせってのよ」
一人声に出して悪態を吐くのは、少しでも落ち着きたいからだ。何でもないと自分に言い聞かせている側面があった。
もう一度床に視線を落とした。
『あれっ?』
見間違いかと思って目を凝らした。それでもやはり、ついさっきまで濡れていたはずの床に、その痕跡はなかった。
『どうして?』
再び廊下の先に目をやる。
暗がりの中で、今度は床が少しずつ盛り上がっていくのが見えた。
何も見えない。
左右の壁と床と天井。その四面に囲まれた細長い空間が闇に溶けている。
『何の音だろう?』
機械的なものではなかった。水滴が一粒だけ落ちたような、あるいは裸足で、それも濡れた足で一歩だけ踏み出したような、そんな音。
小学生の頃、誰もいない放課後の校舎に忘れ物を取りに戻った時のことを思い出した。陽は傾き始めてはいたもののまだ明るい時間だったし、何より毎日通い慣れた学校だ。それなのに、ただ誰もいないというだけで途轍もなく怖かった。
あの怖さはどこから来るものなんだろう。
誰もいない音楽室でピアノが鳴るわけでもない。無人のトイレから話し声がするわけでもない。行きと帰りで階段の段数が変わったり、三階建ての校舎に四階に続く階段が現れたりするわけでもない。ただ誰もいないというだけの恐怖。
御多分に漏れず、絵里子の母校にも学校の怪談と呼ばれるような伝統的な噂話はいくつもあった。学校が出来る前そこは墓地だったとか、廊下を走っていると床から生えてきた腕に足を掴まれて倒れてしまうとか。
絵里子はどちらかといえばドライな子どもだったから、そんなものは信じていなかったし怖いとも思わなかったのだけれど。
それでも、誰もいない校舎は怖かった。
怖くて怖くて、廊下を出来る限りの早歩きで突き進んだ。信じてなどいなかったくせに、走ってしまって床から生えた手に足を掴まれることを恐れていた。走ってはいない。そう言い訳ができるぎりぎりの速さで教室までを往復した。
そんなことを思い出していると、また先ほどと同じ音が鳴った。ものすごくゆっくりと二歩目を踏み出した。そんなイメージを抱かせる二回目の音。
そのイメージが正しければ、三回目もあるはずだけど……。
あって欲しくない三回目を待つ。この心境は何なのだろう。
『違う』
気づいたのは、これはあの放課後の校舎で感じた恐怖とは本質が違うということだった。誰もいない怖さではない。何かがいるかもしれないという怖さだと。
そして、このタイミングで今更ながらに気づいたことがもう一つあった。
『この廊下、長過ぎやしないだろうか』
絵里子は、勝手知ったる十三階フロアの平面図を思い浮かべてみた。
『エレベータがあって、オフィス、応接室、トイレ、給湯室、非常階段、廊下……』
方向音痴気味なところがあるから頭の中だけでは上手く配列できないものの、細かい部分は問題ではなかった。
『やっぱり、おかしい』
少なくとも、このビルの地上階部分はこんなに広くはないのだ。いくら暗いからといっても先が見えないほど長い廊下があるのはおかしい。
『これこそ、まるで学校の怪談じゃないの』
スマホのライトを
そして、三歩目の音がした。
もちろん本当に足音なのかどうかは分からない。さらに近づいて来ているのかどうかも判別は不可能だった。
『足音にしては間隔が開き過ぎている。いやいや。そもそも足音のはずはない』
足音は自分で抱いた仮のイメージに過ぎない。
『じゃあ、足音じゃなきゃ何なのか』
やはり、もう一つ最初に思いついたイメージ。天井から水が滴り落ちる音。そのくらいしか思い浮かばなかった。
そこに四回目の音。
間隔が短くなった気がする。
『確認する必要なんてない。退散だ』
これ以上、ホラー映画ですぐ死ぬ役の行動パターンをなぞる気にはならなかった。
エレベータに戻ろうと一歩踏み出したとき、足が滑ったが何とかこけずに踏ん張った。
スマホのライトを床に向けると、濡れているように見えた。
『水?』
何か分からないまま、ただやばいという感じだけは募った。
無色透明に見えないこともないが、暗くて断定はできない。
よく見ると、暗闇の廊下の先からちょうど足元までが濡れている。
『さっきまでこんなことにはなっていなかったはず。やっぱり水漏れの音だったのかな』
しかし今更それを確かめるほどの度胸はなかった。放課後の校舎を急いだときのように、急ぎ足でエレベータの前まで戻った。
上向き三角のボタンを押しても扉はすぐには開かない。
『早く早くっ』
絵里子自身、自分が何に怯えているのか分からない。
暗がりをスマホで照らしながら、心の中でエレベータを急かす。これで人影でも見えようものなら絶叫してしまうところだったが、幸い今のところ何かが現れる気配はなかった。具体的なものは四回鳴った音と濡れた床。それだけだ。
『音も止んだかな?』
ふと視線を落として息を呑んだ。
さっきまでオフィスのドアの前辺りまでしか濡れていなかったはずなのに、それがエレベータに向かって広がって来ていた。しかも、見ている間にもほんの少しずつではあるが広がり続けている。こうなるとやはりどこかで水が漏れているとしか考えられない。
『でも……』
それにしては動きに違和感があった。
『流れているっている感じじゃない。何だろう、この不自然さは……』
考えて、自分で思いついた表現に鳥肌が立った。
『……
この場にいるのが嫌だった。来たことを後悔した。
「早くっ、早くっ」
エレベータの扉の上の階数表示を見ながら、今度は声に出して急かしていた。だが、四基あるエレベータはどれも途中の階に何度も停まりながら少しずつしか降りて来ない。
「まったく、もっと増やせってのよ」
一人声に出して悪態を吐くのは、少しでも落ち着きたいからだ。何でもないと自分に言い聞かせている側面があった。
もう一度床に視線を落とした。
『あれっ?』
見間違いかと思って目を凝らした。それでもやはり、ついさっきまで濡れていたはずの床に、その痕跡はなかった。
『どうして?』
再び廊下の先に目をやる。
暗がりの中で、今度は床が少しずつ盛り上がっていくのが見えた。