(14) 遭遇
文字数 2,167文字
息を呑んだ。いざとなると悲鳴も出ない。
視線は釘付けになった。
床ではない。周囲の液体が集まるようにみるみる盛り上がり、黒い塊になっていくのが分かった。丸く黒い影のようにしか見えなかったそれがさらに大きくなりながら、徐々に輪郭を整えて何かの形を成していく。
『な、なんなの?!』
分岐や括 れが生じたそれが形作ろうとしているものが人の姿だと認識できたのとほぼ同時に、軽やかな電子音と共に周囲が明るく照らされた。エレベータの扉が開いたのだ。
絵里子は飛び乗って適当な階数ボタンを押し、閉じるボタンを連打した。
『早く早く』
いつもは不必要なほどスムーズに閉じる扉がやけに遅く感じられる。
ようやく閉じかけた扉の向こうで何かが動いた。
閉じる寸前の扉の隙間から一瞬だけ垣間見えたその顔は、次の瞬間には閉じ切った扉の向こうに消えた。
『……どういうこと?』
絵里子は自分が目にしたものについて理解が追いつかず、軽いパニック状態だった。
扉が完全に閉まり切る直前の刹那、隙間から覗いたその顔は、確かに自分のものだったからだ。
のちに絵里子もキキョウという液状生命体の存在を知り、キキョウが接触した人間をコピーして瓜二つの外見を作り出すことが出来るのを知ることになる。だが、このときはまだキキョウの存在自体を知らない。廊下を這っていたキキョウと気づかぬうちに接触をしたがために自分の容姿がコピーされたのだということに、このときの絵里子が思い至るはずもなかった。
「立花さん、大丈夫ですか」
話しかけられて我に返った。
気がつけばエレベータは一階に着いており、何人かの人が乗り込んで来るところだった。その中の一人が同じ会社で働く派遣社員の佐藤千佳 だった。
「千佳ちゃん」
千佳はまだ数日前に採用されたばかりだ。
「なんか顔色が悪いですよ」
「そう? 大丈夫大丈夫。ちょっとぼうっとしてただけ」
無理に笑顔をつくって答えてはみたものの、確かに自分はおかしいとしか思えなかった。自分が見たと思っているもの。あんなことがあるはずがない。あんなものがいるはずがない。きっと自分が自覚している以上に疲れているのだろう。絵里子は地下での体験をそう解釈することにした。
「そういえば、今、下から来ました?」
「あ、うん。ぼうっとしてたからか、下に行くエレベータに乗っちゃったのよ」
「そうでしたか。もし体調が良くないなら、無理しないでくださいよ。各務次長も心配してましたよ」
「次長が?」
「ええ。なんか元気ないんじゃないかなあって。ま、男性社員は次長に限らずみんな立花さんのファンですからね」
「そんなことないよ。千佳ちゃんこそ、大人気でしょうに」
千佳は勤務初日の自己紹介のときに男性社員全員が目を奪われた容姿に加え、快活で明るい性格からたちまち職場の人気者になっていた。数年ぶり、あるいは数十年ぶりに恋に落ちる爆音を轟かせた中年男性もいただろう。
千佳は仕事もできた。プロジェクトが佳境に入った段階で採用されたのだが、彼女は期待通りすぐに呑み込んで戦力となった。特にパソコンスキルに長けており、データのまとめや資料の作成が格段に早くなった。容姿、性格、能力。三拍子揃った、派遣社員にしておくにはもったいない逸材だった。
「いやいや。まあ、容姿には自信なくもないんですけどね、わたし、性格ブスなんです。前の職場じゃ性格は写真に写らないとか酷いこと言われてましたから、わたし。それって絶対にセクハラかパワハラですよね」
そんな自慢だか自虐だか分からない台詞を、ほかの会社の人もいるエレベータのなかでけらけらと笑いながら言い放つ。そんな千佳のことを絵里子は羨ましく思っていた。自分にもこんな朗らかさがあれば、と。
職場に戻ると、すぐに次長の各務雅裕 に声を掛けた。
「ただいま戻りました」
「ああ。お疲れ様。大丈夫? 顔色がすっきりしないようだけど」
「はい。すみません、大丈夫です」
「ならいいけど。無理しないように」
「はい。ありがとうございます」
各務は絵里子の直属の上司で、石本部長の部下に当たる。絵里子と石本が不適切な関係に陥ってしばらく後に、他の部署から異動してきた。
各務も石本も仕事は出来るが、タイプはまるで違う。どこかおっとりとした雰囲気も持つ調整型の各務に対して、石本は強引な唯我独尊型だ。そのくせ上への根回しなどは手を抜かない。
もし石本よりも先に各務に出会っていたら、各務の方を好きになっていただろうか。絵里子は時々そんなことを考えた。そうしたらここまで不幸なことにはなっていなかっただろうとも思うが、それは不幸の大きさと種類が多少違うだけのことだ。各務を不幸なことに巻き込まなくてよかったと心底思う。もちろん各務には相手にもされなかった可能性も大いにあることも自覚した上で。
もちろん、もっと早く神堂に出会いたかったというのが一番の思いであることに変わりはない。恋愛において出会う順番というものは、思いのほか重要なファクターなのだと絵里子はつくづく感じるようになっていた。
『いずれにせよ、もうここにはいられない』
こことはどこを指すのか。単にこの職場という意味か。それともこの世界という意味か。それを考えるべきときが来ている。
絵里子の中でそんな思いが頭をもたげつつあった。
視線は釘付けになった。
床ではない。周囲の液体が集まるようにみるみる盛り上がり、黒い塊になっていくのが分かった。丸く黒い影のようにしか見えなかったそれがさらに大きくなりながら、徐々に輪郭を整えて何かの形を成していく。
『な、なんなの?!』
分岐や
絵里子は飛び乗って適当な階数ボタンを押し、閉じるボタンを連打した。
『早く早く』
いつもは不必要なほどスムーズに閉じる扉がやけに遅く感じられる。
ようやく閉じかけた扉の向こうで何かが動いた。
閉じる寸前の扉の隙間から一瞬だけ垣間見えたその顔は、次の瞬間には閉じ切った扉の向こうに消えた。
『……どういうこと?』
絵里子は自分が目にしたものについて理解が追いつかず、軽いパニック状態だった。
扉が完全に閉まり切る直前の刹那、隙間から覗いたその顔は、確かに自分のものだったからだ。
のちに絵里子もキキョウという液状生命体の存在を知り、キキョウが接触した人間をコピーして瓜二つの外見を作り出すことが出来るのを知ることになる。だが、このときはまだキキョウの存在自体を知らない。廊下を這っていたキキョウと気づかぬうちに接触をしたがために自分の容姿がコピーされたのだということに、このときの絵里子が思い至るはずもなかった。
「立花さん、大丈夫ですか」
話しかけられて我に返った。
気がつけばエレベータは一階に着いており、何人かの人が乗り込んで来るところだった。その中の一人が同じ会社で働く派遣社員の
「千佳ちゃん」
千佳はまだ数日前に採用されたばかりだ。
「なんか顔色が悪いですよ」
「そう? 大丈夫大丈夫。ちょっとぼうっとしてただけ」
無理に笑顔をつくって答えてはみたものの、確かに自分はおかしいとしか思えなかった。自分が見たと思っているもの。あんなことがあるはずがない。あんなものがいるはずがない。きっと自分が自覚している以上に疲れているのだろう。絵里子は地下での体験をそう解釈することにした。
「そういえば、今、下から来ました?」
「あ、うん。ぼうっとしてたからか、下に行くエレベータに乗っちゃったのよ」
「そうでしたか。もし体調が良くないなら、無理しないでくださいよ。各務次長も心配してましたよ」
「次長が?」
「ええ。なんか元気ないんじゃないかなあって。ま、男性社員は次長に限らずみんな立花さんのファンですからね」
「そんなことないよ。千佳ちゃんこそ、大人気でしょうに」
千佳は勤務初日の自己紹介のときに男性社員全員が目を奪われた容姿に加え、快活で明るい性格からたちまち職場の人気者になっていた。数年ぶり、あるいは数十年ぶりに恋に落ちる爆音を轟かせた中年男性もいただろう。
千佳は仕事もできた。プロジェクトが佳境に入った段階で採用されたのだが、彼女は期待通りすぐに呑み込んで戦力となった。特にパソコンスキルに長けており、データのまとめや資料の作成が格段に早くなった。容姿、性格、能力。三拍子揃った、派遣社員にしておくにはもったいない逸材だった。
「いやいや。まあ、容姿には自信なくもないんですけどね、わたし、性格ブスなんです。前の職場じゃ性格は写真に写らないとか酷いこと言われてましたから、わたし。それって絶対にセクハラかパワハラですよね」
そんな自慢だか自虐だか分からない台詞を、ほかの会社の人もいるエレベータのなかでけらけらと笑いながら言い放つ。そんな千佳のことを絵里子は羨ましく思っていた。自分にもこんな朗らかさがあれば、と。
職場に戻ると、すぐに次長の
「ただいま戻りました」
「ああ。お疲れ様。大丈夫? 顔色がすっきりしないようだけど」
「はい。すみません、大丈夫です」
「ならいいけど。無理しないように」
「はい。ありがとうございます」
各務は絵里子の直属の上司で、石本部長の部下に当たる。絵里子と石本が不適切な関係に陥ってしばらく後に、他の部署から異動してきた。
各務も石本も仕事は出来るが、タイプはまるで違う。どこかおっとりとした雰囲気も持つ調整型の各務に対して、石本は強引な唯我独尊型だ。そのくせ上への根回しなどは手を抜かない。
もし石本よりも先に各務に出会っていたら、各務の方を好きになっていただろうか。絵里子は時々そんなことを考えた。そうしたらここまで不幸なことにはなっていなかっただろうとも思うが、それは不幸の大きさと種類が多少違うだけのことだ。各務を不幸なことに巻き込まなくてよかったと心底思う。もちろん各務には相手にもされなかった可能性も大いにあることも自覚した上で。
もちろん、もっと早く神堂に出会いたかったというのが一番の思いであることに変わりはない。恋愛において出会う順番というものは、思いのほか重要なファクターなのだと絵里子はつくづく感じるようになっていた。
『いずれにせよ、もうここにはいられない』
こことはどこを指すのか。単にこの職場という意味か。それともこの世界という意味か。それを考えるべきときが来ている。
絵里子の中でそんな思いが頭をもたげつつあった。