第62話 夏の終わりとラグーンの風

文字数 2,169文字

 同じ海岸へは夏の終わりにも行った。

 使った道は前回と同じ。ただ、稲が黄金色に色づいて、赤信号で車の窓を開けたら、かすかに香ばしい匂いがした。ちょうど台風が近づいていて、抜けるような青空に、たくさんの入道雲が立ち昇っていた。地上の風は大したことなくても、上空は強い風が吹いていたらしく、雲の流れが速かった。

 地元付近の街を走っていた頃、真帆がジャミロクワイの新譜が欲しいと言って、駅のそばのファッションビルに立ち寄った。ビルの中には大きなCDショップがある。売り切れになっちゃったらイヤだから帰りより行くときに寄って、と要望した通り、特設コーナーに山積みされたCDは残り少なになっていたらしい。真帆には美汐が付き合った。美汐はカーディガンズの新譜を買ってきて、車の中では、行きも帰りもずっとその二枚がかかっていた。

 真帆が買ったアルバムのタイトルは、「トラベリング・ウィズアウト・ムービング」。副題は、「ジャミロクワイと旅に出よう」。真帆は、「旅に出よう」 じゃなくて、「釣りに行こう」 だったらよかったのにね、と言ってみんなを笑わせたが、この日の目的も釣りだった。河口と砂嘴の裏に広がる汽水池 (ラグーン) では、クロダイ、キビレ、スズキ、ハゼなどの魚が釣れる。前回来たとき、帰り際に池をチェックしていたら、道ですれ違った地元のおじさんが教えてくれた。

 この日のターゲットはハゼ。ハゼ釣りなら、素人同然の真帆や美汐でも楽しめる。それに、夏の終わりといえば、やっぱりハゼ釣りは外せない。河口やその周辺の汽水域に、ハゼ釣り師たちの竿がずらっと並ぶ光景は、晩夏から初秋にかけての風物詩。真一もホテルで働いていた頃から、毎年夏の終わりには、必ずハゼ釣りに行っていた。これをやらないことには、きちんと夏が終わった気がしない。爽やかになり始めた風を感じつつ釣り場に腰を落ち着けて、過ぎ去ろうとする夏の情景を全身に染み込ませていく。ハゼ釣りは真一にとって、夏を見送る儀式のようなものなのだ。

 七月に来たときと同じ駐車場に到着すると、釣りの道具を車から降ろす前に海を見に行った。八月も残すところ一週間を切った時分では、海水浴場はもう終わり。松林の小道を抜けた先に広がる砂浜では、海の家の解体作業が行われていた。「わだつみの宮」 は、看板も青いトタンの波板も取り外され、骨組みだけの姿になっていた。砂浜には、海水浴客もライフセーバーもいなかった。波の形が悪く、海に浮かぶサーファーの姿さえ見当たらない。砂煙を巻き上げて資材を運び去るトラックに、誰もが否応なく夏の終わりを感じた。

◇◇◇

「釣りするだけじゃ面白くないから、何か賭けて勝負しようぜ」

 先頭の久寿彦は麦わら帽子をかぶって、今日も日焼け対策に余念がない。竿を片手に振り返ると、無邪気な少年のように笑う。たすき掛けにしたクーラーボックスに入った凍ったペットボトルが、振り返った拍子に、ごろん、と音を立てた。

 青草の間に白い轍が覗く池沿いの道。南北に長い池面を渡る風は、泥と潮が混ざったような匂いを孕んでいる。汽水域特有の匂いだ。ピューイ、と口笛みたいな声を発して飛び去ったキアシシギを追って対岸を見晴るかすと、アシの大群落の上空に、鉛色の雲を交えた入道雲がいくつも立ち昇っていた。輝くような白と濃い灰色のせめぎ合い。いかにも台風前らしい、混沌とした空の表情。真夏より、今の時期の空のほうが熱帯的だ。夏が最後の力を出し切ろうとしているかのよう。

「いちばん釣れなかった奴が天ぷら揚げるってのはどう?」
「何なのよ、それ。私か真帆が負けるに決まってるじゃない。ハンデつけてよ」

 久寿彦に負けず劣らず色白の美汐も、麦わら帽子をかぶっている。広いつばが緩く波打った女物の麦わら帽子。洋風なので、ストローハットと言ったほうがいいかもしれない。

「それもそうだな。じゃあ、美汐と真帆は二人で一人扱いにしてやるか」

 久寿彦は真一と岡崎を見ると、

「お前らもいいよな」
「いいよ」
「俺もオッケーです」

 それから少し背伸びして、さらに後ろに目を向けた。

「葵は?」

 返事がない。振り返ると、列の最後尾で紺と白のロゴ入りラグランTシャツに、ストレートジーンズという出で立ちの女の子が真帆と並んで話していた。シャギーの入った黒髪が、二人が話題にしているドラマ 「ロングバケーション」 の影響かどうかは知らない。一方の真帆は、薄ピンク色のピタTに黄色いショートパンツという元気いっぱいの格好。元々日焼けしている真帆は、美汐のように紫外線を気にする必要はない。

「あ、ごめん。聞いてなかった」

 周囲の沈黙に気づいて葵が顔を上げると、久寿彦は同じ言葉を繰り返す。

「私もいいよ、それで」

 迷うそぶりもなく答えた。久寿彦の提案をあっさり受け入れたのは、釣りの腕に自信があるから。葵は中学生の頃まで海辺の街で暮らし、小さい頃から釣りに親しんできた。釣り好きの祖父と一緒に、夕飯のおかずの足しにと、よく近くの漁港まで竿を持って出かけたという。釣った魚を褒めてもらうことが嬉しくてどんどん腕を上げ、小学校高学年になる頃には、大人も舌を巻くほどの腕前になっていたそう。釣りは今も趣味で、バイトの仲間同士で釣りに行くときは、ほぼ毎回メンバーに含まれている。

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