第56話 海水浴

文字数 2,640文字

「ぷはっ」

 無事に波をくぐり抜けることができた。荒々しい波の余韻を感じて振り返ると、沸騰する白波が砂浜に向かって海面を均していく様子が映った。

 岡崎の姿はない。

 どこまで転がされたのか……。探そうとしたら、白い網目模様を残す海面が盛り上がって、水柱みたいな人影が立ち上がった。一瞬、海坊主が現れたのかと思う。

「し、死ぬかと思った」

 咳き込みながら、岡崎はみんなのほうによろぼい歩いてくる。青ざめた顔からは、さっきの余裕は、きれいさっぱり消え失せていた。

「だから言わんこっちゃない」

 はっきり言って自業自得だ。だが、ゲラゲラ笑う仲間たちに言い返すこともできないところを見ると、よっぽどひどい巻かれ方をしたに違いない。少しばかり憐憫の情が湧いた。

 大きな波はこの一本だけ。

 静かになった沖合にいても面白くないので、全員元の場所に戻る。

 浅い場所では、波のサイズも一回り小さくなる。真一たちが波に体を預けて浮遊感を楽しむ一方、岡崎は来る波来る波、片っ端から体当たりをかましていた。波への仕返しのつもりだろうか。べっちんべっちん痛そうな音が夏空に響き渡っているが、本人は気が済むまでやりたいらしい。松浦が、こいつ壊れちゃったよ、と指さしてまた笑いが上がる。

 しばらくして、沖合にまた大きな波の影が現れた。今度は早い段階で発見できたので、慌てる必要はない。平泳ぎでゆっくり沖へ向かう。ひとり岡崎だけが必死に水を掻いていた。

 一定の速度で近づいてくる波のうねり。

 斜面の角度が増すにつれ、波を染める影の色も存在感を増す。やがて、風紋を刻んだ波頭が弧を描き始めた。

 波の曲面が陽射しを受けて、鏡のように白く光る。

 よし。

 波を乗り越えようと、真一はひとまず腰を落とす。
 だが、伸び上がろうとしたとき、背後から誰かに肩をつかまれた。
 振り返る間もなく、引き倒される。

 仰向けの体に、溶けたガラスみたいな水の天井がのしかっかってくる。うっすらと緑がかった天井を通して、白く歪んだ太陽が見えた。

 それが最後に見た光景。

 次の瞬間、天井が崩落し、水の中に引きずり込まれた。重量の塊がぶつかる衝撃。何がどうなったのか、頭の理解が追いつかない。洗濯機のドラムに突っ込まれたみたいな激しい水流にもみくちゃにされ、水中を何回転も転がされる。上も下もわからず、目を開けても見えるのは濁った水だけ。

「あ゛あ゛あ゛あ゛ー」

 くぐもった声と一緒に、大量の泡が口から吐き出されていく。

 長々と転がされた末、ようやく砂底に手が触れた。それで天地がわかり、やっとの思いで立ち上がる。

「今やったの、誰だ!」

 水面を思いっきりひっぱたいた。鼻の奥がツンとし、口の中も砂でじゃりついている。

「俺じゃないっすよ」

 松浦が腰を引いて両手のひらを見せた。この手のイタズラをやらかすのは、たいていコイツ。自分でも疑われやすいと思って、真っ先に無実をアピールしたのだろう。ただ、今回に限っては、犯人は松浦ではない。倒される直前、波を乗り越える背中が見えた。腕は後ろから伸びてきたので、前方にいた松浦が犯人ではないのは明らかだ。

「俺も違いますよ」

 それもわかっている。一度波の餌食になった岡崎は、いの一番に逃げ出していた。
 疑わしいのは残る三人。一人ずつ顔を確かめていく。
 益田が意味ありげにニヤニヤ笑っていた。水面の上に出した手で、そっと西脇を指さしている。
 西脇が犯人なのだろうか……?
 目で尋ねると、益田は小さくうなずく。
 真一は久寿彦に視線を移す。

「お、おい、ちょっと待て」

 疑われるとは思っていなかったのだろう、慌てて後ずさる久寿彦。

 いいリアクションだ。西脇を油断させるため、久寿彦にはターゲットを演じてもらう。

 久寿彦との距離を詰めている間に、沖合の波が音もなく忍び寄ってきた。

「やべっ」

 波の接近に岡崎が気づき、いくつかの首が釣られて振り返る。

 今だっ。

 急遽向きを変えた真一は、西脇に突進する。すぐに益田が反応し、西脇の右腕をつかんだ。西脇は、何が起こったのかわからない、という顔をしている。真一は考える間を与えず、残った左腕を取る。

 波はもう目前。巻き込んできた波頭が白い牙を剥き、ぽっかり開いた口が、エサをよこせ、とせがんでいる。

「や、やめ」

 容赦なく西脇を波の洞に叩き込む。「ろ」 は聞こえなかった。益田と二人、すぐに波の根元に飛び込んだからかもしれないし、西脇が声を発する前に、波の餌食になったからかもしれない。

「わはははっ」
「よっしゃ、よっしゃ」

 波の裏側に抜けると、浅瀬に向かっていく白波を見つめて、益田とハイタッチを交わす。西脇は今頃、激しく波に揉みしだかれながら、卑劣な行いを悔いているに違いない。

「ちくしょう、嵌めやがったな」

 だが、水面に顔を出した西脇が開口一番叫んだ言葉は、真一を困惑させた。

 嵌めた?
 今の囮作戦のことだろうか……?

 ヒトデみたいにとんがった髪を直そうともせず、西脇は怒りを露わにしている。その目が睨みつける先にいたのは――。

 それで答えがわかった。ようするに、真一はイタズラの片棒を担がされたのだ。
 真一を引き倒した犯人は西脇ではない。
 西脇の視線の先で高笑いしている益田だ。

 西脇が益田に向かって突進する。益田は身を翻して逃げようとする。だが、久寿彦、岡崎、松浦の三人が逃げ道を塞いだ。

「お、お前らは関係ないだろっ」

 慌てふためく益田。三人が西脇に味方するとは、思っていなかったのだろう。
 だが、あらぬ嫌疑をかけられたという点では、三人もまた被害者だ。
 次々と伸びる手をかわして、益田は逃げ回る。しかし、沖合で捕まってしまった。
 四人が益田の手足をつかんだところで、ちょうど波がやって来た。
 鎌首をもたげる波に向かって、生贄が放り投げられる。
 胎児のような格好で宙に浮かんだ体を、真夏の太陽が祝福する。
 二手に分かれた久寿彦たちが、イルカのように波の根元に飛び込んだ。

 益田は巻いてきた波頭のちょうど真上に落下した。潮煙を噴き上げる波がさらに深くおじぎをすると、櫛状の筋を引く波の背に閉じ込められた上半身が逆さまに落ちてくる。

 ドゴォーン!

 轟音とともに波は跡形もなく消え失せ、代わりに、沸き立つ白波があたり一面を埋め尽くした。
 益田は、ちょうど波に一本背負いをされるような格好で水面に突き刺さっていた。
 壮絶な最後に、真一は思わず心の中で手を合わせた。
 益田よ、安らかに眠れ――
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