第53話 ろくむし

文字数 2,217文字

 人の気配に気づいたカワセミが、川岸の石の上から飛び去っていった。鮮やかな水色の影を追って行く手に目をやると、雑木林の枝葉の切れ間、晴れていれば陽射しが射し込むせせらぎの一角に、カキツバタやキショウブが咲いているのに気づいた。その先にもぽつぽつと似たような群落があるが、どれも規模が小さく、人を呼ぶには至っていない。今現在、せせらぎ沿いの小道を歩いているのは真一だけだ。

 久寿彦は、先に一人で親水ゾーンのウッドデッキに向かった。真一は、顔に泥がついている、と言われて、水場で洗い落としてきたところ。泥水を浴びた直後、一応手で顔を拭ったが、それだけで汚れは落ちなかったらしい。

 雨上がりの湿っぽい落ち葉を踏みしめつつ、背中に、キャッチボールしろー、と鬼を野次る声を聞いた。児童公園ではすでにロクムシが始まっている。真一も子供の頃よくやった遊びだ。団地の南西にあった公園は、適度に障害物があって、ロクムシをやるのにうってつけだった。難点は裏手の森に、鬼が投げるボールが度々入ってしまうこと。そうなると、ゲームを中断して、みんなでボールを探すことになる。ボールは山斜面の下のほうまで転がっていってしまうこともあり、球拾いは一大事業だった。ゆえに、山の森にボールを投げ込んだ鬼は、罰として、みんなに半ムシ献上しなくてはならなかった。

 しかし、ロクムシをやったのは子供の頃ばかりではない。実は去年、久寿彦たちとも公園の広場でやっていたのだ。まさかこの年になってロクムシをやるとは思ってもみなかったが、自ずとやってしまう状況があった。

 レストランHORAIで働いていた頃、店の仕事以外にもう一つ仕事があった。公園の清掃や草刈りなどの保守作業だ。これは市から委託された業者と地元のボランティアが協力して行っていたが、店も公園の受益者という立場から人を出していた。他のボランティアの手前、この仕事は表向きは無償だ。ただ、本当に無償にしたらやり手がいなくなってしまうので、バイト同士で遊ぶときなど、店が費用を負担するという形で報酬が支払われていた。作業に参加するしないは自由。参加しないからといって、何か言われたり、肩身の狭い思いをすることはない。ただ、遊ぶ金を出してもらえることは魅力的だったし、店の車やマスターの別荘を貸してもらうこともあったから、参加率は高かった。

 印象に残っているのは、やはり夏場。作業がある日は、日の出前にアパートを出た。暑さ対策のため、夏場は日が高くなる前に作業を行っていたのだ。まだ東の空に影の色だけの雲が浮かんでいる時間帯――古語でたぶん 「東雲」 と言うのだろう――の街は寝静まり、部屋の外はひんやりした大気が気持ち良かった。車通りが少ない国道では、大型車が吐き出す黒煙とも無縁で、信号待ちをしているとき、深呼吸しても何ら問題なかった。

 水場前の駐車場までやってくると、公園の山斜面いっぱいに轟くヒグラシの音が出迎えてくれる。店の裏に回ってスクーターを停め、仲間がいれば一緒に山を上り、いなければ誰かの到着を待つか、一人で山の上の公園へ向かう。ホトトギスの声がする森の坂道は、まだ夜の気配を残していて、日中とは違う神秘的な雰囲気が感じられた。坂の途中で、カブトムシやクワガタを採りに来た親子とすれ違うこともある。シラカシの木や駐車場の外灯下など、水場周辺に採集ポイントが点在しているらしかった。虫かごを肩から提げて元気に挨拶してきた子供に、真一も手を挙げて挨拶し返した。

 山の上まで行くと、遊歩道から少し引っ込んだ所にある倉庫から必要な道具を取り出す。木造の倉庫の周りには、背の高いマツヨイグサがたくさん咲いていた。「月見草」 の異称からわかる通り、日が高くなると萎れてしまう花だが、そうなる前の元気な姿を見ることができたのは、早起きして良かったことの一つかもしれない。

 草の伸びが目立つ日は、草を刈る。ゴミが多い日は、ゴミを拾う。花壇の手入れをしたり、遊歩道の縁石を取り替えたこともあった。作業の手を止めて顔を上げたとき、山の稜線上に力強く立ち昇る入道雲を見つけたことがある。これから始まる一日に向けて、あり余るエネルギーを解き放とうとしているようで、そんな光景と対峙していると、わけもなく胸が高鳴った。

 やがて、雲が白さを増して作業は終了する。

 自宅に帰るのも面倒だったので、バイトが始まるまで公園で時間を潰すことが多かった。女の子たちはテニスコートに行ったが、男は広場に残った。男のテニス経験者といえば岡崎だけで、それもちょこっとかじったことがある程度だったのだ。

 広場では階段の木陰に座って雑談したり、ゴミ拾いで見つけたボールでロクムシをやることもあった。本当は野球をしたかったのだが、バットはそうそう落ちておらず、ボール一つでできる遊びといえば、ロクムシくらいしか思いつかなかったのだ。ロクムシには、地域ごとに独自のルールがある。夏だけバイトに来ていた学生二人は、いずれも地方出身者で、ゲーム中におかしな行動を取って、みんなに爆笑されていた。当の二人は自分の行動が変だとは露ほども思っておらず、我が故郷のルールこそが全国共通のルールなのだ、と言って譲らなかった。

 思い返せば、この頃がいちばん楽しかった。木陰でした雑談も話題は尽きなかった。バイトの時間が近づくと、盛り上がっていた時間が名残惜しく感じられた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み