第8話 愚者三
文字数 3,252文字
マサオがクーラーボックスから頭を引っこ抜いた。中身が空っぽとわかって放り出すと思いきや、腹の前に抱えたまま、またじっとにらみ据える。もちろん、クーラーボックスはうんともすんとも返さない。ぱかんと大きな口を開けて、マサオを見上げるだけ。業を煮やしたマサオは、寡黙な相棒の横っ面を引っぱたいた――つもりだったが、狙いが外れて硬い角に指をぶつけてしまう。
「あいてっ」
酔っぱらっていても痛みの感覚はあるようだ。間抜けな悲鳴を上げて、熱い物に触れたときのように手をプラプラさせる。そうして傷めた指を押さえれば、自ずと怒りの矛先は川崎たちへと向かう。
あいつら――
ゆらりと立ち上がった。ひしゃげた紙コップを片手に、覚束ない足取りで、川崎たちのほうへ向かっていく。シートの隅まで行くと、和気あいあいと語り合う三つの頭を見下ろした。
「ずいぶん楽しそうじゃねえか。俺も仲間に入れてくれよ」
どろんとした目つき。
「それでさあ!」
川崎が声を張り上げる。マサオをちらりとも見ない。無視の意図は松浦と五所川原に伝わり、見えない壁がマサオを阻む。
「それがお前らの答えか……」
しばらく黙っていたマサオだったが、川崎と五所川原の間に足をねじ込むと、漬物石でも落とすかのように乱暴に腰を下ろした。
「お前だよ、お前。俺の話は安っぽくて聞いてられねえってか」
川崎の肩に腕を回し、体を揺すり始める。川崎の首がフラワーロックのように揺れる一方、マサオが握る紙コップからは、ぽちゃぽちゃと酒が溢れ出していく。あぐらをかいたスウェットのズボンに点々と染みが出来ていくが、酔ったマサオは気づかない。
「おう、コラ。何とか言えよ。口がついてるんだろう、んん?」
ねちっこい声にも、川崎は無反応。表情を消して、虚空の一点を見据えるのみ。
はて、どうしたものか……。不可解そうに首をひねるマサオ。川崎の正面に回り込み、カエルのような低い体勢から仏頂面を覗き上げる。尻を向けられた松浦が、チッと舌打ちして、場所を空けた。
マサオの顔が接近しても、川崎は微動だにしない。ぴんと背筋を伸ばして一点を見つめる姿は、悪霊の声には何があっても答えてやらないぞ、と覚悟を決めた修行僧のようだ。
「なあ、川ちゃんよお……」
頑なな態度に根負けしたのか、マサオは急にシラフの顔つきになって、諭すように語りかけた。強硬策は通用しないと見て、懐柔策に切り替えたらしい。
と、思ったら、
「お地蔵さんになっちゃったんですかーっ!」
いきなり目を吊り上げて絶叫した。
「ああ、うっせえ!」
「な、何っ!?」
岡崎が首をすくめ、美汐はビクッと跳ねて、こわごわ背後を振り返る。マサオたちがいる場所はシートの隅っことはいえ、ほかの仲間たちからそう離れているわけではない。いきなり大声を出されたら、驚くに決まっている。美汐の後方で膝立ちになった野田が、「叫びたいならあっちへ行って叫べ」 と山のほうを指さした。
だが、皆がマサオに注目したのはいっときのこと。状況を把握するや、誰も彼もそそくさと前を向いてしまった。いよいよ荒れ始めた酔っぱらいをつついて、自分たちに火の粉が飛んでくるのは御免こうむりたいのだろう。
真一も周りと一緒に前を向く。
ちょうど、ストップモーションのかかった手が突き出されていた。
岡崎からカードを引くと、止まっていた時間が動き出す。
――あ、ババ。
むろん、声には出さず、手元のカードの間に挿し挟む。
扇の形に広げたカードに目を落としたら、ジョーカーの絵柄がマサオと重なった。シートにいるメンバーは十五、六人。これだけ人が集まれば、確かに、一人くらいジョーカーが紛れ込んでいてもおかしくない。
そう思って顔を上げたとき、美汐と目が合った。美汐は一瞬鼻を膨らませ、すっと斜めに視線を逸らした。気づかれた。マサオの声に驚いた岡崎が手札を隠すのを怠ったのだろう。下を向いた拍子に、肩から滑り落ちた髪が顔を隠したが、次にカードを引く岩見沢は、一瞬の表情を見逃さなかったかもしれない。
だが、動揺したそぶりは見せられない。
ポーカーフェイスを作って、岩見沢にカードを差し向ける。
◇◇◇
一方、ブルーシートの辺境地帯――
マサオにどやしつけらたあとも、川崎の態度に変化はなかった。シートにあぐらをかいて背筋を伸ばし、無表情で沈黙を貫いている。
矯めつ眇めつその顔を覗き込んでいたマサオだったが、不意に川崎の首に抱きついた。その状態から、自分の体をブランコのように揺らし始める。
松浦と五所川原は、吹き出しそうになった。川崎は、子供におもちゃにされた大仏も同然だ。無反応であることを逆手に取られ、いいように遊ばれてしまっている。
だが、二人は、一方で警戒も怠っていなかった。地下のマグマは着実にエネルギーを溜め込んでいる。このままマサオを無視し続ければ、いつか怒りが爆発するだろう。
ところが、マサオは意外な行動に出た。
「そうか……。俺の言い方が悪かったんだな」
硬直した首から腕を外し、しんみりとつぶやいた。川崎の前で正座すると、改まった顔で仏頂面と向き合う。
「すまん!」
がばっとシートに額をこすりつけた。
唖然とする松浦と五所川原。この急激な態度の変化はいったい何なのか……。
戸惑っている間に、マサオが顔を上げた。もう一度川崎と見つめ合ったのち、松浦に顔を向け、小さくうなずく。五所川原に対しても同様の仕草をすると、ちびりと紙コップの酒を舐め、己の美学らしきものを開陳した。
「お前らが飲めないことくらい知っている。だから、ビール一杯でいいって言ってやってるだろ。かく言う俺だって、いつも楽しく飲んでるわけじゃねえ。たまには気分が乗らないときだってあるさ。でもな、そんなときにあえて飲むからこそ、仲間の絆ってモンを確かめられるんじゃないのか。バイトとか、車の運転とか、色々事情はあるだろうが、お前らにとっていちばん大切なものは何だ? 俺は注がれた酒を黙って飲み干す男の姿を見ると、ああ、こいつは一生俺を裏切らねえな、って思えるんだよ」
警官が通りかかったら、連行されてしまいそうな美学だ。岡崎が教えてくれたところによれば、大学で配布される一気飲み防止の啓発パンフレットには、この手の人物が悪い先輩や友人の例としてよく登場するらしい。若者受けを狙った漫画タッチの挿絵に、微妙な言葉遣いやファッションで描かれ、ささやかな笑いを誘うのだとか。
真一は、ちらっとマサオを窺う。
酔うほどに滑らかに動く舌、自信に満ち満ちた顔……なるほど、ここにおわすマサオ先輩こそは、要注意人物の筆頭格に違いない。
――本人は、自分の言動を悪いことだと自覚していない場合があります。
パンフレットには、そんな注意書きも添えられているかもしれない。
だが、三人の態度に変化は見られなかった。マサオが熱弁を振るっている間に、松浦たちは自分たちの会話を再開していた。
あえなく蚊帳の外に放り出されてしまったマサオ。それでも怒らない。むしろ、三人に憐れむような目を向けて立ち上がる。
「どうやら、俺の気持ちは伝わらなかったみたいだ」
邪魔したな、と手を挙げ去っていく。千鳥足が危なっかしい。
自分の居場所に帰り着くとシートにあぐらをかき、今やマサオ専用となった日本酒の紙パックをつかみ上げて、ひしゃげた紙コップに中身を注ぐ。
あきらめてくれたのだろうか?
否。
そんなわけがない。
マサオが大人しく引き下がったのは、己の美学が三人の心を捉えたと確信したからにほかならない。その証拠に、手酌でちびちびやりながら、今も三人に粘着質な視線を送り続けている。
――あんな態度を取った手前だ、あいつらも照れくさいんだろう。そのうち、おずおずと俺を迎えにくるに違いない。和解の言葉を聞くのは、それからでいい。ここは奴らの気持ちを考えて、少し時間を与えてやろうじゃないか。
マサオはゆっくりうなずいて、紙コップを口に運ぶ。
「あいてっ」
酔っぱらっていても痛みの感覚はあるようだ。間抜けな悲鳴を上げて、熱い物に触れたときのように手をプラプラさせる。そうして傷めた指を押さえれば、自ずと怒りの矛先は川崎たちへと向かう。
あいつら――
ゆらりと立ち上がった。ひしゃげた紙コップを片手に、覚束ない足取りで、川崎たちのほうへ向かっていく。シートの隅まで行くと、和気あいあいと語り合う三つの頭を見下ろした。
「ずいぶん楽しそうじゃねえか。俺も仲間に入れてくれよ」
どろんとした目つき。
「それでさあ!」
川崎が声を張り上げる。マサオをちらりとも見ない。無視の意図は松浦と五所川原に伝わり、見えない壁がマサオを阻む。
「それがお前らの答えか……」
しばらく黙っていたマサオだったが、川崎と五所川原の間に足をねじ込むと、漬物石でも落とすかのように乱暴に腰を下ろした。
「お前だよ、お前。俺の話は安っぽくて聞いてられねえってか」
川崎の肩に腕を回し、体を揺すり始める。川崎の首がフラワーロックのように揺れる一方、マサオが握る紙コップからは、ぽちゃぽちゃと酒が溢れ出していく。あぐらをかいたスウェットのズボンに点々と染みが出来ていくが、酔ったマサオは気づかない。
「おう、コラ。何とか言えよ。口がついてるんだろう、んん?」
ねちっこい声にも、川崎は無反応。表情を消して、虚空の一点を見据えるのみ。
はて、どうしたものか……。不可解そうに首をひねるマサオ。川崎の正面に回り込み、カエルのような低い体勢から仏頂面を覗き上げる。尻を向けられた松浦が、チッと舌打ちして、場所を空けた。
マサオの顔が接近しても、川崎は微動だにしない。ぴんと背筋を伸ばして一点を見つめる姿は、悪霊の声には何があっても答えてやらないぞ、と覚悟を決めた修行僧のようだ。
「なあ、川ちゃんよお……」
頑なな態度に根負けしたのか、マサオは急にシラフの顔つきになって、諭すように語りかけた。強硬策は通用しないと見て、懐柔策に切り替えたらしい。
と、思ったら、
「お地蔵さんになっちゃったんですかーっ!」
いきなり目を吊り上げて絶叫した。
「ああ、うっせえ!」
「な、何っ!?」
岡崎が首をすくめ、美汐はビクッと跳ねて、こわごわ背後を振り返る。マサオたちがいる場所はシートの隅っことはいえ、ほかの仲間たちからそう離れているわけではない。いきなり大声を出されたら、驚くに決まっている。美汐の後方で膝立ちになった野田が、「叫びたいならあっちへ行って叫べ」 と山のほうを指さした。
だが、皆がマサオに注目したのはいっときのこと。状況を把握するや、誰も彼もそそくさと前を向いてしまった。いよいよ荒れ始めた酔っぱらいをつついて、自分たちに火の粉が飛んでくるのは御免こうむりたいのだろう。
真一も周りと一緒に前を向く。
ちょうど、ストップモーションのかかった手が突き出されていた。
岡崎からカードを引くと、止まっていた時間が動き出す。
――あ、ババ。
むろん、声には出さず、手元のカードの間に挿し挟む。
扇の形に広げたカードに目を落としたら、ジョーカーの絵柄がマサオと重なった。シートにいるメンバーは十五、六人。これだけ人が集まれば、確かに、一人くらいジョーカーが紛れ込んでいてもおかしくない。
そう思って顔を上げたとき、美汐と目が合った。美汐は一瞬鼻を膨らませ、すっと斜めに視線を逸らした。気づかれた。マサオの声に驚いた岡崎が手札を隠すのを怠ったのだろう。下を向いた拍子に、肩から滑り落ちた髪が顔を隠したが、次にカードを引く岩見沢は、一瞬の表情を見逃さなかったかもしれない。
だが、動揺したそぶりは見せられない。
ポーカーフェイスを作って、岩見沢にカードを差し向ける。
◇◇◇
一方、ブルーシートの辺境地帯――
マサオにどやしつけらたあとも、川崎の態度に変化はなかった。シートにあぐらをかいて背筋を伸ばし、無表情で沈黙を貫いている。
矯めつ眇めつその顔を覗き込んでいたマサオだったが、不意に川崎の首に抱きついた。その状態から、自分の体をブランコのように揺らし始める。
松浦と五所川原は、吹き出しそうになった。川崎は、子供におもちゃにされた大仏も同然だ。無反応であることを逆手に取られ、いいように遊ばれてしまっている。
だが、二人は、一方で警戒も怠っていなかった。地下のマグマは着実にエネルギーを溜め込んでいる。このままマサオを無視し続ければ、いつか怒りが爆発するだろう。
ところが、マサオは意外な行動に出た。
「そうか……。俺の言い方が悪かったんだな」
硬直した首から腕を外し、しんみりとつぶやいた。川崎の前で正座すると、改まった顔で仏頂面と向き合う。
「すまん!」
がばっとシートに額をこすりつけた。
唖然とする松浦と五所川原。この急激な態度の変化はいったい何なのか……。
戸惑っている間に、マサオが顔を上げた。もう一度川崎と見つめ合ったのち、松浦に顔を向け、小さくうなずく。五所川原に対しても同様の仕草をすると、ちびりと紙コップの酒を舐め、己の美学らしきものを開陳した。
「お前らが飲めないことくらい知っている。だから、ビール一杯でいいって言ってやってるだろ。かく言う俺だって、いつも楽しく飲んでるわけじゃねえ。たまには気分が乗らないときだってあるさ。でもな、そんなときにあえて飲むからこそ、仲間の絆ってモンを確かめられるんじゃないのか。バイトとか、車の運転とか、色々事情はあるだろうが、お前らにとっていちばん大切なものは何だ? 俺は注がれた酒を黙って飲み干す男の姿を見ると、ああ、こいつは一生俺を裏切らねえな、って思えるんだよ」
警官が通りかかったら、連行されてしまいそうな美学だ。岡崎が教えてくれたところによれば、大学で配布される一気飲み防止の啓発パンフレットには、この手の人物が悪い先輩や友人の例としてよく登場するらしい。若者受けを狙った漫画タッチの挿絵に、微妙な言葉遣いやファッションで描かれ、ささやかな笑いを誘うのだとか。
真一は、ちらっとマサオを窺う。
酔うほどに滑らかに動く舌、自信に満ち満ちた顔……なるほど、ここにおわすマサオ先輩こそは、要注意人物の筆頭格に違いない。
――本人は、自分の言動を悪いことだと自覚していない場合があります。
パンフレットには、そんな注意書きも添えられているかもしれない。
だが、三人の態度に変化は見られなかった。マサオが熱弁を振るっている間に、松浦たちは自分たちの会話を再開していた。
あえなく蚊帳の外に放り出されてしまったマサオ。それでも怒らない。むしろ、三人に憐れむような目を向けて立ち上がる。
「どうやら、俺の気持ちは伝わらなかったみたいだ」
邪魔したな、と手を挙げ去っていく。千鳥足が危なっかしい。
自分の居場所に帰り着くとシートにあぐらをかき、今やマサオ専用となった日本酒の紙パックをつかみ上げて、ひしゃげた紙コップに中身を注ぐ。
あきらめてくれたのだろうか?
否。
そんなわけがない。
マサオが大人しく引き下がったのは、己の美学が三人の心を捉えたと確信したからにほかならない。その証拠に、手酌でちびちびやりながら、今も三人に粘着質な視線を送り続けている。
――あんな態度を取った手前だ、あいつらも照れくさいんだろう。そのうち、おずおずと俺を迎えにくるに違いない。和解の言葉を聞くのは、それからでいい。ここは奴らの気持ちを考えて、少し時間を与えてやろうじゃないか。
マサオはゆっくりうなずいて、紙コップを口に運ぶ。