第43話 アオバズク
文字数 1,975文字
指先から立ち昇る青臭い匂い。毎年、この匂いを嗅ぐと初夏の訪れを実感する。カーペットにあぐらをかいて、真一は絹さやの筋を剥いている。小さく丸まった筋をチラシで作ったくずかごに入れ、さやは金ザルへ。再び手を伸ばした透明なビニール袋の中には、未処理の絹さやがまだひとつかみほど。作業は今、半分くらい終わったところだ。
絹さやは 「ときわ商店」 の店主にもらった。雨が上がった昼過ぎ、ふらっと煙草を買いに行ったら、店先で店主がダンボールを畳んでいて、目が合うなり、「今年最後の絹さやが採れたから持っていってよ」 と声をかけてきたのだ。酒蔵の前垂れがトレードマークの店主は、アパートの隣に貸し農園も営み、自分用の畑も一区画持っている。夏場は買い物に行くたびにナスやらキュウリやらをくれるのだが、ありがたく思う反面、どうやって食べようかといつも頭を悩ませてもいる。まあ、真一も海釣りに行っていた頃は、釣った魚を半ば押し付けるように渡すこともあったから、ありがた迷惑はお互い様なのだが。
あぐらをかいているせいで、尻が痛くなってきた。少し休憩しようと思って、カーペットの煙草とライターに手を伸ばす。
と、ちょうどそのとき電話が鳴った。
「はい」
部屋の電話は、壁掛け式のプッシュホン。携帯を持っていない真一でも、さすがに黒電話は使っていない――実家は未だに黒電話だが。
「……シン?」
探るような間があって、聞き覚えのある声がした。
「おお、久寿彦。久しぶりだな。元気だったか」
声を聞いたのは、花見の日以来初めてのこと。あれからひと月半、会うこともなければ、電話で話したこともなかった。公園下のレストランで一緒に働いていたときは、ほぼ毎日顔を合わせていたので、音沙汰のなかった期間がずいぶん長く感じられる。
「元気。お前は」
「俺もまあ……元気かな」
つい言い淀んでしまったが、正直な反応だった。
「今ヒマか? そっち行っていい?」
壁に手をついて部屋の中を見渡す。この一ヶ月で、部屋はすっかり荒んでしまった。脱ぎ散らかされた衣服、竹の子のごとくカーペットに林立した缶にペットボトル。極めつけは、部屋の真ん中にでんと居座ったがらくたの要塞のようなこたつ……。
「ヒマだけど……えらい散らかってるぞ」
我が事ながらうんざりして、投げやりな調子で言った。
「あー、そんなのどうでもいいよ。じゃ、今から行くから、よろしく」
「あっ、おい」
呼び止めるのも聞かず、久寿彦は電話を切ってしまった。
「相変わらずせっかちな奴」
通話切れの音を返す受話器を、真一はしかめっ面で見つめる。
どのくらい部屋が散らかっているか、その程度を先に言っておけばよかった。はっきり言って、人を呼べる状態ではないのだが……。
だが、電話は切れてしまったし、かけ直しても、今の様子ならもう家を出たかもしれない。久寿彦の家から真一のアパートまで、車で十分ほどかかる。部屋をすべて片付けるのは無理でも、二人分の座るスペースくらいは作れるだろう。
ただ、その前に一服したい。
カーペットの煙草とライターを拾い、こたつに山積みの漫画本の上に乗っかっている灰皿をつかみ上げて窓辺へ行った。
カーテンと窓を開け放つと、ヒヨドリの複雑なさえずりが部屋に入ってきた。
道路沿いの電線にそれっぽい鳥を見つけ、煙草に火をつける。
雨上がりの生暖かい大気は、土の匂いを孕んでいる。畑を挟んで、向かいの家々の頭上に広がる空は、鉛色の雲の合間に、薄黄色の雲の層が覗き、もうすぐ晴れ間が現れそうな気配。まだ土がぬかるんでいるためか、畑で野良仕事をしている人はいない。旬のたまねぎやそら豆、ある程度育ってきた夏野菜の葉っぱが見えるだけ。薄紫色の小さな花はジャガイモ、畑と道路の境目に点々と咲いている薄ピンク色の花はヒルガオだ。向かいの家の柿若葉は依然として眩しいが、その隣の家のビワの実は黄色く色づき始めた。
家並みの後ろに神社の社叢が頭を出している。最近、ここにアオバズクが棲み着いた。コンビニの夜勤に行く時、アパートの外廊下や駐輪場で鳴き声を耳にすることが多い。ホッホー、と二回続く声は、過ごしやすくなった近頃の夜を情緒豊かに彩り、出勤前の憂鬱な気分を少しだけ和らげてくれている。
今日は二十四節気の 「小満」。「あじわい暦」 によれば、「小満」 とは、万物が成長して天地に満ち始める、という意味だそう。言われてみれば、畑の夏野菜も河川敷の雑草も、そこそこの背丈になった。身の周りの景色に、確かに、「小さく満ちた」 感がある。ほかには、アスファルトの陽炎や逃げ水を頻繁に見かけるようになり、薄暑と呼ばれる汗ばむ陽気の日も増えてきた。実際、梅雨入り前のショートサマーというか、一瞬だけ夏を先取りしたような陽気になるのが今の時期の特徴だろう。
絹さやは 「ときわ商店」 の店主にもらった。雨が上がった昼過ぎ、ふらっと煙草を買いに行ったら、店先で店主がダンボールを畳んでいて、目が合うなり、「今年最後の絹さやが採れたから持っていってよ」 と声をかけてきたのだ。酒蔵の前垂れがトレードマークの店主は、アパートの隣に貸し農園も営み、自分用の畑も一区画持っている。夏場は買い物に行くたびにナスやらキュウリやらをくれるのだが、ありがたく思う反面、どうやって食べようかといつも頭を悩ませてもいる。まあ、真一も海釣りに行っていた頃は、釣った魚を半ば押し付けるように渡すこともあったから、ありがた迷惑はお互い様なのだが。
あぐらをかいているせいで、尻が痛くなってきた。少し休憩しようと思って、カーペットの煙草とライターに手を伸ばす。
と、ちょうどそのとき電話が鳴った。
「はい」
部屋の電話は、壁掛け式のプッシュホン。携帯を持っていない真一でも、さすがに黒電話は使っていない――実家は未だに黒電話だが。
「……シン?」
探るような間があって、聞き覚えのある声がした。
「おお、久寿彦。久しぶりだな。元気だったか」
声を聞いたのは、花見の日以来初めてのこと。あれからひと月半、会うこともなければ、電話で話したこともなかった。公園下のレストランで一緒に働いていたときは、ほぼ毎日顔を合わせていたので、音沙汰のなかった期間がずいぶん長く感じられる。
「元気。お前は」
「俺もまあ……元気かな」
つい言い淀んでしまったが、正直な反応だった。
「今ヒマか? そっち行っていい?」
壁に手をついて部屋の中を見渡す。この一ヶ月で、部屋はすっかり荒んでしまった。脱ぎ散らかされた衣服、竹の子のごとくカーペットに林立した缶にペットボトル。極めつけは、部屋の真ん中にでんと居座ったがらくたの要塞のようなこたつ……。
「ヒマだけど……えらい散らかってるぞ」
我が事ながらうんざりして、投げやりな調子で言った。
「あー、そんなのどうでもいいよ。じゃ、今から行くから、よろしく」
「あっ、おい」
呼び止めるのも聞かず、久寿彦は電話を切ってしまった。
「相変わらずせっかちな奴」
通話切れの音を返す受話器を、真一はしかめっ面で見つめる。
どのくらい部屋が散らかっているか、その程度を先に言っておけばよかった。はっきり言って、人を呼べる状態ではないのだが……。
だが、電話は切れてしまったし、かけ直しても、今の様子ならもう家を出たかもしれない。久寿彦の家から真一のアパートまで、車で十分ほどかかる。部屋をすべて片付けるのは無理でも、二人分の座るスペースくらいは作れるだろう。
ただ、その前に一服したい。
カーペットの煙草とライターを拾い、こたつに山積みの漫画本の上に乗っかっている灰皿をつかみ上げて窓辺へ行った。
カーテンと窓を開け放つと、ヒヨドリの複雑なさえずりが部屋に入ってきた。
道路沿いの電線にそれっぽい鳥を見つけ、煙草に火をつける。
雨上がりの生暖かい大気は、土の匂いを孕んでいる。畑を挟んで、向かいの家々の頭上に広がる空は、鉛色の雲の合間に、薄黄色の雲の層が覗き、もうすぐ晴れ間が現れそうな気配。まだ土がぬかるんでいるためか、畑で野良仕事をしている人はいない。旬のたまねぎやそら豆、ある程度育ってきた夏野菜の葉っぱが見えるだけ。薄紫色の小さな花はジャガイモ、畑と道路の境目に点々と咲いている薄ピンク色の花はヒルガオだ。向かいの家の柿若葉は依然として眩しいが、その隣の家のビワの実は黄色く色づき始めた。
家並みの後ろに神社の社叢が頭を出している。最近、ここにアオバズクが棲み着いた。コンビニの夜勤に行く時、アパートの外廊下や駐輪場で鳴き声を耳にすることが多い。ホッホー、と二回続く声は、過ごしやすくなった近頃の夜を情緒豊かに彩り、出勤前の憂鬱な気分を少しだけ和らげてくれている。
今日は二十四節気の 「小満」。「あじわい暦」 によれば、「小満」 とは、万物が成長して天地に満ち始める、という意味だそう。言われてみれば、畑の夏野菜も河川敷の雑草も、そこそこの背丈になった。身の周りの景色に、確かに、「小さく満ちた」 感がある。ほかには、アスファルトの陽炎や逃げ水を頻繁に見かけるようになり、薄暑と呼ばれる汗ばむ陽気の日も増えてきた。実際、梅雨入り前のショートサマーというか、一瞬だけ夏を先取りしたような陽気になるのが今の時期の特徴だろう。