第21話 花明かり

文字数 1,926文字

 祭の余情を残す第二広場に、少しだけ活気が戻っていた。並んで咲くモクレンとハクモクレンの下で、小さな男の子と父親が野球のバッティング練習をしている。父親が下手に放ったボールを、男の子がプラスティックのバットで打ち返すと、ぽこんと間延びした音がして、青空にピンクのカラーボールが弧を描いた。

 遊歩道にもジョギングしたり、桜を眺めている人たちがいる。皆ラフな格好をしているから、地元の人たちだろう。

 歩きながら、様々な色が目に飛び込んでくる。ここ一週間ほどでアパート周辺の景色はずいぶん春めいてきたが、緑豊かな蓬莱公園は季節の変化がいっそう顕著だ。道端をタンポポやハナニラが彩り、少し距離を置いて、ナズナやオオイヌノフグリの群落も見える。左手の切土斜面に咲き乱れる薄紫色の小さな花はスミレ。四阿に寄り添うコブシは、通常は桜が咲く前に散ってしまうが、年によっては一緒に咲くこともある。今年はそういう年らしい。

 春の色に目を奪われているうち、とりとめもなく湧き出していた思考はどこかへ行ってしまった。

 いつの間にか第二広場も過ぎ去り、スポーツの森の外縁を歩いていた。西に向かってメタセコイヤの並木道がまっすぐ伸びている。その両側、金網に囲われたテニスコートに人はいない。

「シン」

 不意に名前を呼ばれて前を向いた。

 道の先で、背の高い人影が手を挙げている。青みを帯びた桜並木のカーブから出てきたばかり。

「久寿彦……」

 真一は足を止める。久寿彦の肘には、広場に取りに戻ろうとしていた紺色のナイロンジャケットが引っ掛けられていた。

「遅かったな。何してた?」
「いや、ちょっと……」
「ちょっと、何だ。ウンコか?」

 口ごもる真一に、久寿彦は勘繰るような目を向けて、ナイロンジャケットを押し付けてきた。そのまま脇を通り過ぎようとしたので、翻って隣に並ぶ。

「ほかの連中は?」

 歩きながら、ナイロンジャケットに袖を通す。

「まだシートにいる」
「池に飛び込んだ奴らも?」
「ああ、あいつらか……。松浦は美汐と一緒に直接店に行った。川崎と五所川原はとりあえずシートに戻ったけど、すぐにスポーツの森のシャワーを浴びに行くって言ってたな」
「岡崎たちは?」
「あいつらもじきに戻ってくるよ。市民農園のシャワーは数が少ないから、みんな一緒じゃないだろうけど」

 久寿彦も池の水を浴びたので、このままでは店に出られない。店は制服着用 (トレーナーにスラックス) だから、私服の汚れを気にする必要はないが、やはり全身洗い流したほうがいい。

「残りの奴らは、夜桜見に行くってさ」
「じゃあ、やっぱりこっちに……」
「いや、山に登るって」
「ああ、あそこ」

 真一は納得してうなずく。西の山の四阿に行くつもりだろう。四阿は崖っぷちにあって、龍神池を囲繞する桜並木を一望することができる。夜桜を見るなら、七時以降がいいらしい。その時間になると、雪洞とは別に設置された照明器具が、強い光で桜並木をくっきり映し出すからだ。暗闇に浮かび上がる細やかな花弁は無数の星屑のよう。山の上の四阿からは、白銀の粒子が光の川を形作っている様子がよくわかる。それは、宇宙の高みから銀河を眺め下ろすかのような壮麗な光景だそうだ。

「ふうん、見たかったな、夜桜」
「あれ、見たことなかった?」

 ぽつりと言った真一に、久寿彦は意外そうな顔をした。

「実は、ね」

 この街に暮らし始めて五年も経つというのに、我ながら不思議に思う。蓬莱公園の夜桜は有名なので、常々見たいと思っているのだが、いつでも見に行けると思うとかえって行かなくなってしまうのかもしれない。東京の人が、必ずしも東京タワーに行きたいと思わないのと同じ心理だ。

「でもまあ、用事があるならしかたないか。明日にでも見に来れば?」
「いやいや」

 さすがにそれは面倒くさい。真一は苦笑いで手を振る。
「まあ、一人で来ても面白くないな」

 久寿彦も同調して笑った。

 松浦や岡崎と同じく、久寿彦も公園下のレストランで働いていたときの仲間だ。今日集まったメンバーの中で、唯一真一と同い年。店ではバイトリーダーという肩書きだが、厨房に入ることもあって、一般のパート・アルバイトとは扱いが違う。ホールやカウンターの責任者で、バイトの人間と一緒にいることが多いから、そういう呼称が定着したにすぎない。

 今日、幹事を務めたのも久寿彦。面倒くさがり屋の松浦は、自分で合同の花見をやると決めたくせに、幹事の役を久寿彦に丸投げした (久寿彦は松浦に何か借りがあったのかもしれないが)。日中、久寿彦が真一たちのところへ来なかったのは、普段顔を合わせる機会の少ない人間との会話を優先したからだろう。宇和島や野田は高校時代の後輩。
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