第3話 梅雨寒

文字数 2,415文字

 冷蔵庫のうっすらした音に気づいて、思考から抜け出した。

 ぼりぼりと頭を掻きながら、ビデオを返しに行くことを思い出す。国道沿いの大型レンタル店は深夜0時までやっている。バイトに行くついでに返してもいいが、店の場所がバイト先のコンビニと逆方向になるため、少々面倒くさい。それに、今返しに行かなかったら、また忘れてしまう気がする。

 気づいた時に動いたほうがいい。

 カーペットに足を這わせ、ビデオのリモコンを拾う。巻き戻しボタンを押すと、ビデオデッキのモーター音を確認して立ち上がった。

 真っ暗で何も見えないが、目の前には、座卓として使っているこたつがある。天板の上に雑多な品がひしめき合っているから、転んで手なんかついたら大変だ。

 ベッドの縁に沿って、慎重に足を踏み出す。

 三、四歩進んで、グシャッと何かを踏み潰した。右足のかかとのほうに、ひんやりと粘っこい感触。今朝、コンビニ弁当を食べていた場所だ。食べ残しの入った容器を放ったらかしにして寝てしまったらしい。

 だが、今頃思い出しても遅い。小さく舌打ちして、容器からゆっくり足を離す。そのまま片足を引きずって歩き、伸ばした手が壁に触れたところで、スイッチを探って明かりをつけた。

 壁に片手をついたまま、足の裏を覗く。かかとのほうに、潰れたごはん粒と薄っぺらいたくあんが貼り付いていた。ごはん粒を茶色く染めているのは焼き肉のたれ。とりあえず、固形の物だけ剥がして流しへ向かう。

 流しの中は、スーパーやコンビニのレジ袋でいっぱいだ。どの袋も風船みたいに膨れ上がって、中身が飛び出しそう。ごはん粒を捨てた三角コーナーも、盛り上がった茶殻や柑橘の皮の上に、小バエまでたかる有様。饐えた臭いに顔をしかめつつ、水に浸した台布巾で、足の裏の汚れを拭き取った。

 自分の格好を見下ろすと、Tシャツにジャージのハーフパンツ。このまま外出するわけにはいかず、下だけでも穿き替えようとして振り返ったら、すさんだ部屋の光景が目に映った。

 脱ぎ散らかされた衣服、食べかけのスナック菓子やカップ麺、誌面を開いた雑誌、ペットボトルと空き缶が雨後の竹の子のごとく林立し、極めつけは、部屋の真ん中にでんと居座ったこたつ――CD、カセットテープ、漫画単行本、目覚まし時計、マグカップ、山盛りの灰皿……その他必要とも不要ともつかない品々がぎっしりとひしめき合って、今にも崩れ落ちそうだ。もはや、がらくたの要塞と言っていい。

 真一は、元々無精な性格ではない。去年までは、ホテルで働いていたくらいである。散らかった部屋には、人並みかそれ以上に居心地の悪さを感じるし、水回りの汚れなども放っておけない。だが、近頃は生活全般がルーズになり、何事も状況が差し迫ってから腰を上げることが多くなった。このアパートに暮らし始めて今年で六年目になるが、今まで部屋がこんな状態になったことはない。

 起きたばかりなのに疲れを感じて、長々とため息を吐き出す。

 気を取り直して、こたつの脚に絡み付いていたジーンズを手繰り寄せると、ハーフパンツと履き替えた。ちょうどビデオの巻き戻しが終わったので、デッキからテープを取り出し、店の箱と袋に入れて玄関へ向かう。

 レンタル店までの足はスクーター。前は中古の車に乗っていたが、ホテルを辞めてすぐ処分した。田舎に住んでいるわけではないし、生活の足ならスクーターで事足りる。

 素足にサンダルを引っ掛け、外に出る。二階の外廊下は、北東から湿っぽい風が吹き付け、半袖だとやや肌寒い。白々と蛍光灯が灯る薄汚れた天井に、ゴーッと海鳴りに似た音が反響している。夜空には厚く雲が垂れ込めているらしく、そう遠くない所を通る国道の車の音がいつもより大きい。

 階段のほうに顔を向けたら、外廊下のコンクリートが乾き始めていた。

 雨は上がったのだろうか。正面の鉄柵に寄り掛かって、暗闇に腕を伸ばしてみる。
 手のひらに雨粒の感触はない。だが、雨は単に小止みになっただけかもしれない。

 雨具を持っていこうかどうか迷っていると、にわかに強まった風がTシャツの袖口から滑り込んできた。

「寒っ」

 脇腹のあたりまでまさぐられ、思わず我が身を抱きすくめる。雨具を持っていくいかない以前に、この寒さでスクーターを運転するのは厳しい。上に一枚着よう。振り返ってドアノブをつかむ。

 暦上の梅雨入りには、まだ少し早い。ただ、最近の天気のぐずつきは、もう梅雨のそれとほとんど変わらない。五月の下旬には真夏日もあったが、太陽が顔を見せなくなってからは、ぐっと気温も下がって、肌寒い日が続いている。

 東日本の梅雨は寒い。北寄りの風が吹き始めると、体感的に五月の連休以前に戻ったようにさえ感じられる。

 ところが西日本の梅雨は、こうではないらしい。蒸し暑い日が多く、雨の降り方も降ったり止んだり、メリハリが利いているという。真一が暮らす関東地方でも、蒸し暑さや雨脚の激しさを経験することはあるが、通常、梅雨の末期に入ってからのことだ。梅雨のさ中は概して肌寒く、弱い雨がしとしとと降り続くことのほうが多い。

 この事実を知ったとき、率直に、西日本の梅雨のほうがいいなあ、と思った。エネルギッシュな雨雲にも、ざあーっと通り過ぎる温かい雨にも風情があると思うし、そこにはうっすらと夏の明るさも兆している。関東ではせっかく初夏の陽気になったかと思えば、すぐまた冷たい風がぶり返す。のっぺりした曇り空のどこを切っても、夏の気配など感じられない。さあこれから、というときに出端をくじかれ、人生の大事な一時期を損したような気分にさせられる。あまつさえ梅雨明けが少しでも遅れれば、夏らしい陽気はひと月も続かない。すぐに秋雨をもたらす雲が夏空を隠し、ようやく晴れ上がった頃には、もう季節が変わってしまっている。

 東日本の夏は短い。それは何だか、致命的で身も蓋もないことのように思える。
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