第63話 ハゼ釣り
文字数 2,271文字
「じゃ、決まりな」
久寿彦が前を向き、真一は歩きながら自分のクーラーボックスを担ぎ直した。
人の声がしなくなった池畔の道に、シリシリシリ、とかすれたバッタの声が戻ってくる。季節の移り変わりを感じさせる道だ。久寿彦の道案内をするように、大型のバッタが羽音を立てて飛び跳ねていく。ショウリョウバッタ、ヒナバッタ、トノサマバッタ、クルマバッタモドキ……。同じ種類でも、茶色と緑の個体がいて面白い。あたりに満ちた声はヒナバッタのものが多そうだ。翅に脚をこすりつけて出す音だから、実際には 「声」 ではないのだけど。
道端や轍の合間には、メヒシバ、エノコログサ、カゼクサなどが目立つ。いずれも秋を感じさせる雑草だ。右手の草地の奥に、点々とタカサゴユリが咲いているのも見える。白いラッパ型の見た目はテッポウユリにそっくりだが、夏の終わりに咲くのはタカサゴユリ。
やがて左手のアシの茂みが途切れて、小ぢんまりした船着き場が現れた。ここは釣具屋で教えてもらったポイントの一つ。泥砂の浜から突き出した短い桟橋に小舟が舫われている。七月に池をチェックした時には、ここまで歩いて引き返した。あの時は、浜の端っこにハマボウが咲いていた。真夏の陽射しと同じ色をしたこの花は、本州に唯一自生するハイビスカスの仲間。汽水域を好み、七月下旬から八月上旬と、夏の暑い盛りに咲く。自生地の北限は三浦半島らしいから、このあたりで見かけてもおかしくはない。
ポイントは混雑していた。桟橋の上を含め、狭いスペースに七人も釣り人がいる。
足を止めて様子を窺うと、頻繁に竿が上がっているのがわかる。針先で躍っているのは、夏を越して立派に成長したハゼ。丸々太って、天ぷらにしたらおいしそうだ。真一たちも、ホクホクしたハゼの身が目当てでここへ来た。足の速いハゼは市場に出回ることが少なく、天ぷらは基本的に釣り人だけが味わえる味。
もっとも、このポイントは根がかりが多く、初心者には不向きだと釣具屋の主が言っていた。実際、目の前の釣り人たちは皆、延べ竿を使っている。真帆や美汐のことを考えれば、混んでいなくても避けたほうが無難だろう。
「よし、行くか」
久寿彦が全員に声をかけて、再び歩き出した。これだけ釣れていれば、ほかのポイントでも数釣りが期待できるはず。久寿彦の声も明るかった。
やがて池の幅が狭まり、両岸に生い茂るメダケの林の合間に、水色の水門が見えてきた。釣具屋で教えてもらった第二のポイントだ。汽水池の最奥に当たるこの場所は、駐車場から歩く反面、初心者にも釣りやすいという。
水門の裏側に回ると、正方形の狭い貯水池が現れた。北西側にクリークが流れ込んでいるのも話に聞いた通り。赤錆びた波打ち鉄板が四方を護岸し、その上を幅五十センチ程度のコンクリートが固めているので、足場は問題ない。辺鄙な場所のため、先客もいない。
空き地に荷物をまとめ、釣りの準備に取り掛かる。仕掛けは、天秤にオモリとハゼ針を付けるだけの簡単なもの。エサは青イソメ。根がかりはほとんどないらしいので、リールで底を探る釣り方をする。これなら足下だけでなく、池の真ん中のハゼも狙える。美汐の仕掛けは久寿彦、真帆の仕掛けは葵が作ってやった。
全員竿を握ると、それぞれ池の四辺に陣取った。北西側はクリークを挟んで真帆と葵、水門のある南東側は岡崎、北東側は久寿彦と美汐、その向かいの南西側は真一という構図だ。
よーいドン、の号令で、全員一斉に仕掛けを落とす。オモリが底に着いてすぐ、真一の竿にアタリが来た。ブルブルッ、とはっきりした手応えにリールを巻くと、釣れたのはやっぱりハゼだった。針先の魚に目を瞠る。去年、ほかの場所で釣ったハゼは黒っぽかったが、ここのハゼは白っぽくてきれいだ。先ほど船着き場で釣れていたものと比べてサイズも遜色ない。
真一以外の竿にも続々とアタリが来た。足下に仕掛けを落とすだけの釣りに、上手いも下手もない。真帆や美汐も釣れている。
「ハゼって、チンポって意味だって知ってたか?」
久寿彦がやはり無邪気な少年のように言った。
「いきなり何言い出すのよ」
手前までハゼを巻き上げた美汐が、リールの手を止めて久寿彦を睨む。
「嘘じゃないからな。高校の頃、古文の教師が言ってた。『ハゼ』 は古語で男の一物を表す 『ハセ』 に由来するんだってさ」
わりと知られた事実だ。岡崎が、ブハハッ、と笑う。
「似てるだろ、形が」
「形って……」
美汐は道糸をつまみ上げて、釣ったハゼをまじまじと見つめる。
と、針先のハゼがブルッと身震いした。
「うわあっ」
仰け反った拍子に、コンクリートから背後の空き地に足を踏み外しそうになる。
それを見て久寿彦はカラカラと笑い、
「ひでえ話だよなあ。釣られて、包丁で真っ二つにされて、挙げ句の果てに天ぷらにされて食われちまうんだもんな。せめて、ちゃんと成仏してほしいもんだよ」
「やめてよ、天ぷらが不味くなる」
「おっ、来た」
しかめっ面の美汐をよそに、久寿彦はリールを巻く。またハゼを釣り上げた。これで四匹目だそう。このポイントは駐車場から遠いだけあって、場が荒れていないようだ。葵や岡崎も順調に数を伸ばしている。真一の竿も、仕掛けが底に着いた途端に穂先が反応する。
だが、調子が良かったのは、はじめのうちだけ。しばらくすると、食いが悪くなってしまった。
釣れるペースも、誰が抜きん出ることなく、どんぐりの背比べ状態。
この場で粘っていても、周りに差をつけることはできない。場所を替えることにする。
久寿彦が前を向き、真一は歩きながら自分のクーラーボックスを担ぎ直した。
人の声がしなくなった池畔の道に、シリシリシリ、とかすれたバッタの声が戻ってくる。季節の移り変わりを感じさせる道だ。久寿彦の道案内をするように、大型のバッタが羽音を立てて飛び跳ねていく。ショウリョウバッタ、ヒナバッタ、トノサマバッタ、クルマバッタモドキ……。同じ種類でも、茶色と緑の個体がいて面白い。あたりに満ちた声はヒナバッタのものが多そうだ。翅に脚をこすりつけて出す音だから、実際には 「声」 ではないのだけど。
道端や轍の合間には、メヒシバ、エノコログサ、カゼクサなどが目立つ。いずれも秋を感じさせる雑草だ。右手の草地の奥に、点々とタカサゴユリが咲いているのも見える。白いラッパ型の見た目はテッポウユリにそっくりだが、夏の終わりに咲くのはタカサゴユリ。
やがて左手のアシの茂みが途切れて、小ぢんまりした船着き場が現れた。ここは釣具屋で教えてもらったポイントの一つ。泥砂の浜から突き出した短い桟橋に小舟が舫われている。七月に池をチェックした時には、ここまで歩いて引き返した。あの時は、浜の端っこにハマボウが咲いていた。真夏の陽射しと同じ色をしたこの花は、本州に唯一自生するハイビスカスの仲間。汽水域を好み、七月下旬から八月上旬と、夏の暑い盛りに咲く。自生地の北限は三浦半島らしいから、このあたりで見かけてもおかしくはない。
ポイントは混雑していた。桟橋の上を含め、狭いスペースに七人も釣り人がいる。
足を止めて様子を窺うと、頻繁に竿が上がっているのがわかる。針先で躍っているのは、夏を越して立派に成長したハゼ。丸々太って、天ぷらにしたらおいしそうだ。真一たちも、ホクホクしたハゼの身が目当てでここへ来た。足の速いハゼは市場に出回ることが少なく、天ぷらは基本的に釣り人だけが味わえる味。
もっとも、このポイントは根がかりが多く、初心者には不向きだと釣具屋の主が言っていた。実際、目の前の釣り人たちは皆、延べ竿を使っている。真帆や美汐のことを考えれば、混んでいなくても避けたほうが無難だろう。
「よし、行くか」
久寿彦が全員に声をかけて、再び歩き出した。これだけ釣れていれば、ほかのポイントでも数釣りが期待できるはず。久寿彦の声も明るかった。
やがて池の幅が狭まり、両岸に生い茂るメダケの林の合間に、水色の水門が見えてきた。釣具屋で教えてもらった第二のポイントだ。汽水池の最奥に当たるこの場所は、駐車場から歩く反面、初心者にも釣りやすいという。
水門の裏側に回ると、正方形の狭い貯水池が現れた。北西側にクリークが流れ込んでいるのも話に聞いた通り。赤錆びた波打ち鉄板が四方を護岸し、その上を幅五十センチ程度のコンクリートが固めているので、足場は問題ない。辺鄙な場所のため、先客もいない。
空き地に荷物をまとめ、釣りの準備に取り掛かる。仕掛けは、天秤にオモリとハゼ針を付けるだけの簡単なもの。エサは青イソメ。根がかりはほとんどないらしいので、リールで底を探る釣り方をする。これなら足下だけでなく、池の真ん中のハゼも狙える。美汐の仕掛けは久寿彦、真帆の仕掛けは葵が作ってやった。
全員竿を握ると、それぞれ池の四辺に陣取った。北西側はクリークを挟んで真帆と葵、水門のある南東側は岡崎、北東側は久寿彦と美汐、その向かいの南西側は真一という構図だ。
よーいドン、の号令で、全員一斉に仕掛けを落とす。オモリが底に着いてすぐ、真一の竿にアタリが来た。ブルブルッ、とはっきりした手応えにリールを巻くと、釣れたのはやっぱりハゼだった。針先の魚に目を瞠る。去年、ほかの場所で釣ったハゼは黒っぽかったが、ここのハゼは白っぽくてきれいだ。先ほど船着き場で釣れていたものと比べてサイズも遜色ない。
真一以外の竿にも続々とアタリが来た。足下に仕掛けを落とすだけの釣りに、上手いも下手もない。真帆や美汐も釣れている。
「ハゼって、チンポって意味だって知ってたか?」
久寿彦がやはり無邪気な少年のように言った。
「いきなり何言い出すのよ」
手前までハゼを巻き上げた美汐が、リールの手を止めて久寿彦を睨む。
「嘘じゃないからな。高校の頃、古文の教師が言ってた。『ハゼ』 は古語で男の一物を表す 『ハセ』 に由来するんだってさ」
わりと知られた事実だ。岡崎が、ブハハッ、と笑う。
「似てるだろ、形が」
「形って……」
美汐は道糸をつまみ上げて、釣ったハゼをまじまじと見つめる。
と、針先のハゼがブルッと身震いした。
「うわあっ」
仰け反った拍子に、コンクリートから背後の空き地に足を踏み外しそうになる。
それを見て久寿彦はカラカラと笑い、
「ひでえ話だよなあ。釣られて、包丁で真っ二つにされて、挙げ句の果てに天ぷらにされて食われちまうんだもんな。せめて、ちゃんと成仏してほしいもんだよ」
「やめてよ、天ぷらが不味くなる」
「おっ、来た」
しかめっ面の美汐をよそに、久寿彦はリールを巻く。またハゼを釣り上げた。これで四匹目だそう。このポイントは駐車場から遠いだけあって、場が荒れていないようだ。葵や岡崎も順調に数を伸ばしている。真一の竿も、仕掛けが底に着いた途端に穂先が反応する。
だが、調子が良かったのは、はじめのうちだけ。しばらくすると、食いが悪くなってしまった。
釣れるペースも、誰が抜きん出ることなく、どんぐりの背比べ状態。
この場で粘っていても、周りに差をつけることはできない。場所を替えることにする。