第39話 ハナムグリ

文字数 2,109文字

 ブーン、と虫の羽音が迫って、スクーターのミラーに一匹の甲虫がとまった。メタリックグリーンの背中に、クリーム色のごま模様。せわしなく足を動かして、円形のミラーの縁を這い登っていく。

 カナブン? と一瞬思ったが、型が小さい。現れる時期も早すぎる。シートを持ち上げたまま少し考え、ハナムグリ、と思い至ったとき、甲虫は陽光に輝く鞘翅を広げて飛び去った。

 バタン、とシートを下ろして、ハナムグリを追いかける形で歩き出す。歩道の水たまりにうっかり足を突っ込みそうになったが、とっさに跨ぎ越して事なきを得た。ヘルメットをかぶっていた頭が、少し汗ばんでいる気がする。昨日から降り続いていた雨は未明には止み、日の出以降は気温もぐんぐん上昇して、今は風よけに着てきたパーカを脱いでもいいくらいの陽気だ。

 ナニワイバラの棚の下までやって来て、分厚い羽音に足を止める。見上げた棚に雪のように咲き乱れた大ぶりの花――夏の花と見紛うほど一つ一つが立派な花だ。その上空に無数のハナムグリが飛び交っている。純白の花びらに貼り付いたハナムグリも多い。ハナムグリには光沢のある個体とない個体がいて、どちらも甘そうな薄黄色の蕊に頭を突っ込んでエサを食んでいる。こうやって花に潜るようにしてエサを食べる様子から 「ハナムグリ」 という名前が付いたらしい。真一もどこかで聞いたことがある。

 棚の角を曲がり、銀色のチガヤの穂が揺れる土手へまっすぐ進んでいく。

 土手の階段を上って、白いガードパイプが伸びるサイクリングロードまで来ると、青草の匂いに鼻先をくすぐられた。足下の河川敷で老人たちがゲートボールをやっている。公式の大会が行われているらしく、全員胸にゼッケンを付け、コートの外には白い集会用テントも見える。土手裏の二段構えになったコンクリート斜面はさすがに連休中、まんべんなく人が散らばって、新たに人が入り込める余地はない。仕方がないので、川下側へ行くことにした。

 薫る風とともに歩き出す。すぐにガードパイプの下から甲高い子供の声が聞こえた。見ると、青草の上で、幼い兄弟と父親がサッカーボールを追い回していた。幼稚園に上がる前くらいの男の子のほうは裸足だ。足の裏は痛くないのだろうか……一瞬そう思ったが、体重が軽いから大丈夫なのだろう。真一も小さかった頃、裸足で野っ原を駆けた記憶がある。草間にチロチロ覗く白い足の裏を眺めながらふと、「踏青」 という言葉を思い出した。

 親子の頭越しに光り輝く川を、「常愛川」 という。「愛」 は当て字。元々は 「常世川」 と書いた。どういう経緯で今の表記になったのかは知らないが、不満の声が上がっていないところをみると、流域住民は概ねこの表記に納得しているのだろう。

 真一は気分転換したくなったとき、よくこの河川敷を訪れる。都会で開放感があって、自然を感じられる場所といえば、公園か河川敷くらいしかない。蓬莱公園も条件を満たしているが、アパートからは何ぶん遠すぎる。公園方面に用事でもない限り、行こうとは思わない。その点、ここならスクーターで三分とかからず、気軽に来ることができる。

 ――このへんでいいか。

 国道を往来する車の音がだいぶ遠ざかったところでガードパイプによじ登って、すとんと反対側に下りた。

 このあたりまで来ると、河川敷にものんびりした雰囲気が漂う。ピチュル、ピチュピチュ……青草が生い茂る川岸のほうで、ヒバリのさえずりが喧しい。河川敷の幅が狭くなったぶん、川面を近くに望めるようにもなった。

 升目のついたコンクリート斜面を少し下って腰を下ろす。厚手のワークパンツを穿いてきたので、コンクリートの熱はさほど気にならない。

 足下のやや右手側、きれいに草刈りされた場所で、フリスビーを投げ合う若者が二人。川寄りのアウトドア用テーブルセットに腰掛けている若者も彼らの仲間だろう。こちらの若者はフリスビーに興味はないらしく、割り箸でピザをつまみながら、熱心に漫画を読み漁っている。彼の足元に広がるチガヤの穂群には、デイパック、アコースティックギター、タックルボックス。なぜギターがそこにあるのかは知らないが、タックルボックスがあるということは、釣りに来たということだ。竿を探す。

 テーブルセットの裏手から続く草むらの道を目で辿っていき、川面のすぐ手前、茎が伸び切った菜の花のそばに、まず一本見つけた。そこから川上側に二十メートルくらい遡って、乱杭が打ち込まれた浅瀬の手前にもう一本。竿はこの二本だけ。いずれも竿受けにセットされている。若者たちのほかに、対岸の草むらにも、三色パラソルの下で魚信を待っている釣り師がいるが、こちらは広範囲に六、七本もの竿を並べて、かなりの気合の入りようだ。

 彼らが狙っているのは、たぶんコイ。夕方ならウナギということもあり得るが、今の時間帯ならきっとコイだ。

 ただ、野鯉なんて、そう簡単に釣れるものではないだろう。若者たちは半ばピクニックを楽しんでいるようだし、対岸の釣り師も、卓上のラジオに聴き入って、あさっての方向を見つめている。真一もアタリに期待するのをやめ、竿から目を離した。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み