第16話 シジュウカラ

文字数 3,152文字

「ビッグになるんだろ」

 真一は唐突に切り出す。いつかの飲み会で、こいつが言っていたことだ。

 もっとも、そのとき、真一はほかの仲間との会話に夢中になっていたから、松浦が何をどうビッグになりたいのかは知らない。ただ、隣のテーブルからしきりに、ビッグになる、ビッグになる、という声が聞こえていたことだけは覚えている。

「はあ?」

 要領を得ない声が降ってきた。構わず続ける。

「ふと思ったんだよ。この状況に、お前の未来が暗示されてるんじゃないかってな。浮かれて、神輿に担がれて、次はどうなる?」

 真一は、とある漫画のストーリーを思い浮かべている。店の休憩室に全巻揃っていた単行本。松浦は好んで読んでいた。

「お前の好きな格闘漫画にあっただろ。人間なんて薄情なもんだ。誰かを神輿に担いだと思ったら、次の瞬間には崖から神輿をドボンだ」

 地道に勝利を積み上げ、王座に上り詰めた主人公。しかし、富と名声を手にしたとたん、鼻持ちならない態度を取り始める。練習には身が入らず、関心があることといえば、高級車を乗り回すことや、華やかな社交の世界のことばかり。苦しい時代に支えてくれた師匠や友人たちは、一人また一人と去っていき、ささいな事件をきっかけに、彼の名声に吸い寄せられてきただけの取り巻きたちにまで手のひらを返される――。

 良く言えば王道。悪く言えばワンパターン。賛否両論喧しい漫画だ。

「でも、神輿に担がれてる本人は気がつかないんだよ、崖っぷちが迫ってることに」
「ああ、あの漫画ですね」

 岡崎が笑う。岡崎も漫画の内容を知っている。

 松浦は沈黙したまま。

 ――ひょっとして。

 飲み会で言っていたことは、本気だったのか。あれは、単なる酒の勢いではなかった?

 だとしたら、いったいこいつはどんなビッグな人物を目指しているのだろう。

 政治家だろうか……?
 ロックスターだろうか……?

 まあ、どうでもいい。それより、これ以上馬を揺さぶられたら困る。

 真一は、さらに追い込みをかける。

「一度ちやほやされると、いつまでも王様でいられると思っちゃうんだよな」

 頭に蘇るベタな展開、ベタな主人公。こんなベタな漫画にハマる奴も、相当ベタな性格してるよなあ、と岡崎と休憩室で笑い合ったことを思い出す。

「惨めだぞぉー、転落したあとってのは」
「あー、うるさい!」

 やっと口を利いたと思ったら、首の後ろを鷲づかみにされた。爪が肉に食い込んで、思わず、うっ、と声が漏れる。

「だから、こうして厄払いしてやろうってんじゃねえかよ。ついでに池の水でバカも洗い落としてこい」

 ムッとして言ったが、やや険のある言い方になってしまった。

 松浦は言い返してこない。

 ツーピーツーピー、とシジュウカラの場違いに長閑な声が沈黙を深める。何となく嫌な雰囲気になってしまった。だが、今更引っ込みがつかず、黙って足を動かすしかない。

「落ちるかな」

 ぽろりと岩見沢が言った。決して狙ったわけではないだろう。だが、絶妙な間の取り方だった。岡崎が吹き出し、バランスを崩した馬がぐらりと傾く。

「あ、危ねえ」

 松浦がとっさに真一の肩に体重を預けてきた。

 岡崎は一旦持ち直したものの、すぐにくっくと笑いがぶり返す。それは、真一と岩見沢にも伝染し、再び馬が腰を振った。

「いやいや……落ちねえな……残念ながら」

 一段落ついた頃、岡崎が笑いの余韻の残る声で言った。切れ切れの言葉から、苦しそうな顔が想像できる。

「じゃあ、俺は何のために池に落とされるんだよ」
「んー、将来の予行練習ってとこかあ?」

 人を食ったような岡崎の言い方に、真一はまた腹筋が震え出す。

「ふざけんな、バカ」
「バカはお前!」

 後ろの二人が同時に叫んで、ハモった、と爆笑する。

「あははっ、やめてくれ、倒れる」

 真一も堪え切れずくの字になると、馬が酔っぱらったようによろめき、

「まっすぐ歩け、駄馬がっ」

 と、馬鹿殿様が怒鳴った。

◇◇◇

 龍神池の島に架かる赤い反橋を 「弁天橋」 という。橋の親柱にそう書かれた銘板が埋め込まれている。

 橋の袂に辿り着いた頃には、全員へとへとになっていた。真一の負担はほかの二人に比べて軽かったものの、松浦につかまれた肩や、動き回る体を支えた背中や腰に重だるさが残る。

 馬を崩して互いに苦労をねぎらうと、岩見沢が袖高欄のそばのベンチに腰を下ろした。橋口の向こうのベンチには松浦が向かい、座面の花くずを払ってから座った。

 常緑樹が優勢な遊歩道沿いの斜面林は、この時間でもまだ夕陽に照り映えている。龍神池は西に向かって奥行きがあり、瀬戸のような池面が南北に山を分断しているため、ちょうど島の周りだけ日没直前まで陽が届くのだ。

 縁台型のベンチにはまだ人が座る余地があるが、真一と岡崎は、遊歩道の真ん中に残って来し方を見つめた。

 夕陽が梳る桜のトンネルに人影は見当たらない。第二広場からも第三広場からも、大方の花見客は引き揚げてしまった。まだ残っている人々も、まっすぐ駐車場に帰るつもりなら、上り下りの坂があるこの道をわざわざ使いはしないだろう。

 後続の馬の姿も見えない。

 だが、不可解だ。真一たちの歩くペースは、決して速くなかった。松浦に荒い乗り方をされて足並みが乱れたくらいだ。後ろの仲間たちとの距離が開くはずはないのだが。

 ほかの仲間たちは何をしているのだろう。

 トイレにでも寄っているのか。
 それとも、何か不測の事態が発生したとか。

 答えを探しあぐねていると、岡崎がニヤッと笑って松浦のところへ向かった。

「さあて、こいつをどうしてくれようか」

 腹に一物抱えた顔で、松浦の前に立ちはだかる。

「どうしてって……何だよ、その目は」

 見上げた松浦は顔をしかめた。

「……お手柔らかに頼むよ」

 しかし、すでに観念しているのか、やれやれと首を振る。

 岡崎がにんまり笑う。岩見沢に顔を向け、

「胴上げしてから池に落とすってのはどうだ」
「おっ、いいね」

 岩見沢はパチンと指を弾いた。

「シンさんは?」

 わざわざ訊くまでもない。もちろん賛成だ。松浦につかまれた首の痛みは、まだ記憶に生々しい。イエスかノーかの返事を省略して、胴上げの回数を尋ねた。

「まあ、三回でいいんじゃないっすか」

 いいかげんな回答だったが異存はない。あまり回数を増やしても、担ぎ手が疲れるだけだろう。岩見沢も同意して、すんなり話が決まった。

 手持ち無沙汰な時間がやってきた。松浦はぼんやり桜を見上げ、岩見沢はつま先で意味もなく地面をほじくり返している。何となくその様子を見つめていたら、岩見沢は地面に散らばった花びらを、靴底で掻き集めて堀った穴に入れるという、さらに意味のないことをやり始めた。

 後続の馬はまだ来ない。声くらい聞こえてもいいのではと思って耳を澄ませても、聞こえてくるのは鳥の鳴き声だけ。さすがに遅すぎる。

「途中で一服でもしてるんですかね」

 岡崎も眉を寄せて腕を組む。その可能性は大いにあり得る。トイレに寄ったついでに誰かが煙草に火をつけて、そのまま井戸端会議に突入、という一連の流れが、ありありと想像できた。第二広場のトイレの前には、ご丁寧にベンチと吸い殻入れまで置いてある。ひとたび腰を下ろしたら、再び動き出すのは難しそうだ。

 すぐ近くで、けたたましくコジュケイが鳴いた。チョットコイ、チョットコイ……特徴的なリフレインを追って林に目を凝らす。だが、鳥の姿は見つけられなかった。緑豊かな蓬莱公園には、市街地では見かけない鳥も数多く生息している。第三広場にいたときには、極彩色のキジが藪から出てきて遊歩道でエサを探していた。

 池のほうを見たら、岩見沢と目が合った。

「ちょっと散歩してくる」

 ここにいてもやることがない。真一は島を指さして言った。
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